1 えんぴつ事件(3)

 少女は海鳥の問いに答えないまま、包丁の切っ先を彼女に向ける。

「動かないでください。大人しくしないのなら殺します」

 その声に、先ほどまでの慌てた様子はない。どこまでも無機質で、恐ろしく冷たい声音だ。海鳥はしばらく、その言葉が少女の口から発せられたものだと、理解出来なかった。

「殺されたくないなら、こちらの指示に従って下さい──トイレの個室の中へどうぞ」

「……え? え?」

「急いで下さい。五秒以内に従わなければ、従う意志のないものとしますよ」

「…………」

 うみどりぼうぜんとしたまま、少女に言われるがまま、トイレの個室にふらふらと入る。少女もその後に続いた。引き戸が閉められる。

「そこに座って下さい」

 また促され、海鳥はやはり素直に従う。ちょこん、と蓋を開けた便座の上に腰を下ろす。スカートをたくし上げずに便座に座るとは、変な感じだと、そんなことを考えながら。

「……? えっと、その、おしっこは大丈夫なの?」

「それはうそです。スムーズにあなたの部屋に侵入するため、嘘をかせてもらいました」

「……はぁ。え、あ、そうなんだ?」

 要領の得ない受け答えに終始する海鳥を、少女は包丁の切っ先を向けたまま、冷めた目で見つめている。

「自己紹介が遅れてしまいましたね。名乗りましょう。私は女性の味方と言います」

「…………は?」

「まあ非常に簡単に、ざっくばらんに説明しますと、私はか弱いがゆえに涙する、あらゆる女性の味方なのです。痴漢とかセクハラとか、現代社会は女性に対する害であふれていますからね。そういう悪を、天に代わって成敗するのがこの私。各地を転々としつつ、毎日のように女性の敵を葬り続けています」

「…………?」

 そう丁寧に名乗られても、意味不明すぎて、ただでさえ混乱のただなかにあるうみどりの脳ではく処理することが出来ない。

「意味が分からない、という顔をされていますね。別に理解していただかなくても結構ですけど──この女性の敵め。この私が来たからには、今日が年貢の納め時ですよ、海鳥とうげつさん」

「…………え?」

「海鳥東月。16歳、ひよう県立いすずのみや高校に通う二年生。四月一日生まれ。身長170㎝、体重××㎏、スリーサイズは上から98─63─92。こう市中央区にて出生後、幼少期に母方の実家のあるひめ市に移り住み、高校入学のタイミングで単身神戸市に戻ってきた。両親は既に離婚しており、家族は母親のみ。学業成績は基本的に良好で、中高通してクラブに所属した経験はなし。市内のネットカフェで週5日ほどアルバイトをしている。趣味は深夜放送のラジオを聴くこと──全部、合っていますよね?」

「…………う、うぇぇぇ?」

 そう一気にまくてられて、海鳥は言葉にならないうめごえを漏らしていた。

「え? な、なんでそんなこと知ってるの……!? す、スリーサイズまで!?」依然として訳は分からないのだが、それでも言い知れない恐怖が湧き上がってくるのを、海鳥は感じていた。「ま、まさか……ストーカー!?」

「違います。ただ調べたというだけです。というか、ストーカーはあなたの方でしょう」

「……へ?」

「海鳥東月さん。あなたは去年の春ごろから、慢性的に、クラスメイトであるよしさんの鉛筆を盗んで食べていますね?」

「──っ!?」

 海鳥の表情がいっそうこわる。受けた衝撃は、今しがた個人情報を読み上げられたときの比ではない。「う、うそでしょ!? な、ななな、なんで知ってるの!?」

「ふん。その反応を見る限り、やはり事実のようですね」

 謎の少女──女性の味方は、海鳥をにらみつけて言う。「いいですか? あなたのやったことは、疑いようのないストーカー行為です。女性の尊厳を著しく踏みにじっています。とうてい許容できるものではありません。女性の味方として、あなたを成敗します──今からこの包丁であなたの喉笛をいてあげるので、覚悟してください」

「……っっ!? っ! っ! ──っ!?」

 そこで初めてうみどりは、状況を理解した。

 さっぱりな部分はそれでも大量に残っていたが、最低限理解しなければいけないことは理解出来た──この女の子はどういうわけか、海鳥のことを調べ上げている。から鉛筆を盗んでいることまで知っている。そして何よりも、完全・完璧にだ。どうやら海鳥はそれと知らずに、とんでもない異常者を部屋の中に招き入れてしまったらしい。

 言動は意味不明で、手には刃渡り10㎝の包丁。そんな危険極まりない見ず知らずの少女と、トイレの個室という密室に、二人きりで押し込められている。よく考えるまでもなく、絶体絶命の状況である。

「ちょ、ちょっと待って……! あなた、本当に何なの!? 私の喉を包丁でくって……そ、そんなこと、本気で──」

「本気かどうか、信じる、信じないはあなたの自由です。どうせ、これが喉元に食い込んだときに分かることですから」

「…………」海鳥は顔を引きつらせて、頭上の包丁を見つめる。個室内の照明を受けてギラギラと輝いているそれは、とても偽物には見えない。

「自分の置かれた状況が理解出来ましたか? この包丁を恐ろしく思うなら、くれぐれも私に歯向かおうなんて気は起こさないことですね、海鳥とうげつさん。変態ストーカーさん」

 女性の味方は冷淡に言いつつ、手元の包丁をくるくると弄んでみせる。

「まったく、私もこれまで数々の女性の敵を葬ってきましたけど、あなたほど業の深い変態はかつていませんでしたよ。それはもちろん、ただの同性愛というのなら何の問題もないでしょうが……同級生の鉛筆をこっそり持ち帰って、ごはんにかけて食べてしまうなんてね。よくそんな気色の悪い行為を思い付くものです」

「………っ! だ、だから、どうしてそのことを!?」

 訳が分からない、という風に唇をむ海鳥。「奈良の鉛筆の件については、誰にも教えてないし、誰にもバレてないはずなのに……ど、どうやって……!」

「そんなことをあなたが知る必要はありません……自分の行いを知られたことがそんなに信じられませんか? 別に私はいいですけどね。今すぐに、この部屋の冷蔵庫に押し込まれている、大量の鉛筆をあらためてしまっても」

「──~~っ!?」

 海鳥はあまりの衝撃に、二の句を継げなくなってしまう。本当に、何もかも知られてしまっている。海鳥が冷蔵庫に鉛筆をストックしていることなんて、実際にこの部屋を調べなければ分かりようのないことなのに。一体誰が、どうして、どうやって……しかし、そんな海鳥の困惑などお構いなしに、女性の味方はなおも言葉を続けてくる。

「あなたはただ、私の質問に素直に答えていればいいんです。もしかしたらこちらにも、事実の誤認があるかもしれませんからね。いくら女性の敵とはいえ、万が一にも情状酌量の余地があると判断されれば、あなたを見逃すことも、もとい更生に期待することも、やぶさかではありません」

「……? し、質問って?」

「単なる事実確認です──いいですか? 私は何も、あなたが鉛筆を盗んで食べていること自体を問題視しているわけではないのですよ。代わりに新品とすり替えている以上、よしさん本人に実害は出ていないわけですからね。問題なのは、あくまでそれも氷山の一角に過ぎない、ということです」

「……え?」

「この期に及んですっとぼけないでください。筆記用具を盗んで食べてしまうくらい変態的な欲求を募らせている相手に対して、筆記用具を食べる以上のことはしていない、なんてことがあるわけないでしょう。どうせ、盗撮やらつきまといやら体操服を盗んだりやら、もっと洒落しやれにならないようなストーカー行為を繰り返してきたに決まっています」

 女性の味方は、うみどりにらむ目つきをいっそう険しくさせて、

「だとすれば、やはりあなたは女性の敵です。情状酌量の余地なんてひとかけらもありません。いずれ奈良芳乃さんへの直接的な行為に及ぶ前に、取り返しのつかないことになる前に──この場で、息の根を止めてしまうべきでしょうね」

「──ひっ!?」

 女性の味方にそうすごまれて、言葉にならない悲鳴を漏らす海鳥。

「ちょ、ちょっと待ってよ! 息の根を止めるなんて、そんな──」

「命乞いなんてしても無意味ですよ。私は卑劣な変態に対しては、一切の容赦をしないと決めていますから──まあ、よく考えたらあなた女性ですし、女性の味方である私が手出し出来る存在では本来ないんですけど。しかしあなたは既に、女性である前に女性の敵ですからね。女性の敵は女性であっても殺します。男を葬るよりは気分が悪いですが、これも世の女性のためです、むをません」

 などと、何やら破綻したようなことを言いながら、女性の味方は包丁を振りかざし、

「で、どうなんですか? 今しがた私の言ったことに対して、何か反論できることは?」

「──? え、ええと……」

「……はい。さようなら海鳥とうげつさん。また来世で──」

「──!? ち、違う! 全然違うっ! 違いまくるっ!」

 海鳥の喉元に突き刺さる寸前で包丁が止められた。女性の味方は残念そうに舌打ちして、

「違う? どういう意味ですか?」

「と、盗撮もつきまといも体操服泥棒も、私はそんなこと一切してない! あなた、どうやって私の鉛筆泥棒のことを知ったのか知らないけど、何か勘違いしてるんじゃない!?」

「勘違い?」

「別に私は同性愛者じゃない! な、のことを『特別な意味』で好きだとか、そういう感情は私の中に一ミリもないから!」

 あらん限りの力でうみどりは叫んでいた。彼女の必死の金切り声が、個室の中に反響する。

「……はあ? どういうことですか? 奈良よしさんに対して特別な感情を向けていないって、そんなはずないでしょう。それならどうして、あなたは好きでもない相手の私物を食べようと──」

「し、私物じゃないよ! 鉛筆だよ! 私は奈良の鉛筆を食べたかったの!」

 女性の味方の言葉を遮るようにして、海鳥は言い放つ。「より正確に言うならば、私は奈良の鉛筆に付着した、奈良の『指紋』を食べたかったんだよ……」

「『指紋』?」

「うん……私はその、なんていうか……」と、そこで海鳥は、何やら恥ずかしそうに視線を彷徨さまよわせて、「他人の『指紋』を食べるのが、好きっていうか……子供の頃からの趣味なんだよね……」

「…………は?」

 あつに取られたように固まる女性の味方。そんな彼女の反応にも構わず、海鳥は何かにとりつかれたように、とうとうと言葉を連ねていく。

「え、鉛筆って、毎日使うものでしょ? つまり鉛筆には、持ち主の指紋が染み付いている、染み込んでいるってことなんだよね。ご、極上だよ。そりゃあ鉛筆自体は、あんまりしくないんだけど、大量の指紋を食べているって思えば味なんて大して気にもならないし……それこそ小学生の頃なんか、クラス中の鉛筆を盗んで食べていたものだったしね。加減っていうものを知らなかったからさ。流石さすがに高校生にもなれば、分別が付くから、今の私は奈良から年間100本の鉛筆を盗む程度なんだけど……」

「……はあ、なるほど」

 海鳥のじようぜつまくてに、女性の味方は気まずそうな表情を浮かべて、視線をらしていた。「つまり、自分には『他人の指紋を食べる』というマニアックな趣味があるだけで、奈良芳乃さん個人に対して特別な感情を持っているわけではないと。だから本格的に悪質なストーカー行為に手を染めたこともないと、そう言いたいわけですね?」

「う、うん……私が奈良に対してやった後ろめたい行為は、鉛筆を盗んで食べたことだけだよ」海鳥は豊かな胸を張って言う。「そ、それだって、別に奈良本人に迷惑をかけているわけじゃないしね。ちゃんと代わりの新品とすり替えているし、それも全部私のアルバイト代で賄ったものだし。そりゃあ確かに、世間的にアブノーマルな趣味だって自覚はあるけどさ。それだけで悪質なストーカー呼ばわりされるのは、甚だ心外っていうか……」

「…………」

 女性の味方はしばらくの間、思案するように押し黙った。そして、

「確かに、それが本当なら、何も殺すことはないかもしれませんね。行為そのものの異常さはともかく、あくまで現段階で、さんに直接的な被害は出ていないわけですから」

「──!? で、でしょ!? だったら──」

「──それが本当だとしたら、ね」

 けいどうみやくでるようにして、包丁の切っ先がうみどりの首元に当てられる。

「ひっ!?」

「鉛筆を盗んだのは事実なのでしょう? つまり泥棒です。泥棒の言葉なんて信じられません」

「な、なにそれ!? ちゃんと質問に答えたら、助けてくれるんじゃ──」

「残念でしたね。私はそもそも女性の敵の卑劣な言い逃れに耳を貸す気なんて、これっぽっちもなかったんですよ。所詮あなたたちは、うそしかかないんですから」

「──~~~~っ」

 話が通じない。頭がおかしい。最初から分かり切っていたことだった。その瞬間、海鳥の脳裏に浮かんでいたのは、もうずっと会っていない母の顔──そして奈良の顔。

「──っ、嘘じゃない!」

 果たして、深く考える間もなく海鳥は、頭に浮かんだままの言葉を口に出していた。

「私の言葉に嘘なんて一つもない! 私は生まれてこの方、嘘を吐いたことがないから!」

 ぴたり、と包丁が止められる。

「……嘘を吐いたことがない? なんですか、その嘘吐きのじようとうは?」

「違う! そういうことじゃなくて……!」

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