1 えんぴつ事件(2)
◇◇◇◇
海鳥は帰宅した。
304号室の扉を開けて、玄関に入り、靴を脱ぎながら電灯のスイッチを入れる。まだ日没前とはいえ、窓がカーテンで覆われているため、
玄関から進んですぐ右に、簡素な台所と冷蔵庫がある。左にはトイレと浴室・脱衣所が並ぶ。曲がらずに
このマンションの一室が、
「……ふぅ」
海鳥は靴を脱いでから、一息ついた。「……ふぅぅぅぅぅ」そのまま、床に倒れ込む。
「……ふふっ、あはははははっ!」
やがて、薄気味悪く笑い始めた。
「あははははっ! ああもうっ──興奮し過ぎて、死ぬかと思ったよ!」
彼女は
落ちてきた鉛筆を見つめて、海鳥は
「……ああっ、
海鳥は鉛筆を握りしめ、
「しかしまさか、奈良があそこまで勘付いているとは思わなかったよ。一年生のときはまるで気付く様子がなかったから、油断した……」
そのまま立ち上がることなく
「人間なんだから、ミスはする。しない方がおかしい」
海鳥は冷蔵庫の扉に手を掛ける──一気に開く──そこにあったのは。
整然と陳列された、数えきれないほどの鉛筆だった。
「一年間で、100本も鉛筆を盗んだら、五回くらいは、失敗することもあるってね」
だらしなく表情を崩しながら、海鳥はようやく立ち上がる。
「ちょっと早いけど、ごはんにしようか。気分がいいし、それに鮮度が命だしね」
冷蔵庫の扉が閉じられる。その後、海鳥は鉛筆を握ったまま、制服から着替えることもせず、台所の前へと移動していた。
「素材がいいんだから、シンプルでいいよね」
あらかじめ炊いていた白米を、海鳥は炊飯器からよそう。そしてプラスチック製の箸と、
足をだらけさせて座り、鉛筆削りを
そして奈良
鉛筆の削りカスが、白米に降りかかっていく。芯の先が
「やっぱり金曜日の夜は、奈良の鉛筆かけごはんに限るよ」
いただきますをしてから、海鳥は、鉛筆の削りカスまみれの白米を、口の中へとかきこみ始める。
黒鉛の何とも言えない苦味と、カスの部分のシャリシャリとした食感が口いっぱいに広がる。とても
「ふーっ。ご
やがて1分ほどで平らげると、海鳥は満足そうな声を上げ、大きく伸びをしていた。
「そうは言ってもなぁ。春休みに、大分冷蔵庫の中身を消費しちゃったからなぁ。ハイペースですり替えたい所なんだけど……今日で警戒されただろうしなぁ。しばらくは控えるべきなんだろうな、やっぱり」
しかし、いざとなれば『保存用』を切り崩せばいいだけなので、
そして彼女が背を向けているベッド、その収納スペースには、大量の新品鉛筆がストックされている。『すり替え用』の鉛筆である。新学期に入ったらすり替えまくろうと、春休み、近くの100円ショップで
「……悪いとは、悪いとは思ってるんだよぉ、
ニタニタと、やはり気味の悪い笑みを浮かべながら、海鳥は
「でも、ごめん……どうしても自分を抑えられないんだ。私、
──ピンポーン。
と、そこで唐突に、海鳥の部屋のインターホンが鳴らされていた。
「…………?」
誰だろう? 海鳥は考える。宅配を頼んだ覚えはないし、彼女は近所付き合いなど一切していないので近隣住民ということも考えにくい。新聞のセールスか何かだろうか?
「……ドアスコープを
海鳥はそんな風に結論付けて、立ち上がり、玄関の方へ向かう。
「……え?」
しかしスコープを覗いた瞬間、彼女の中から、そんな苛立ちは
ドアの前に立っていたのは、頭からネコミミの生えた、半泣きの女の子だったからである。
「……えっと」
落ち着いて、海鳥は少女を観察してみる。当たり前だが、実際にネコミミが頭から生えている訳ではなかった。そういう『服』だ。パーカーのフードの部分に、ネコのミミが付いている。随分と
それからフードの下、少女の髪を見て面食らう。髪型が奇抜だったのではない。やや癖っ毛気味の、ありふれた普通のショートカットだ──奇抜なのは、その髪の色だ。毛先まで真っ白け、一本残らず総白髪なのである。染めているのだろうか?
そして何よりも、少女は半泣きだった。スカートの裾を
「……ちょっ、どうしたんですか?」
「……う、うああ」
果たして少女は、救われたような
「……あ、あの、トイレを、トイレを貸していただけないでしょうか?」
「……ああ」
その一言で、海鳥はおおよその事情を理解していた。
「わ、私、この階に住んでいる者なんですけど、鍵を
「うん、もう分かったよ。大丈夫だから」
海鳥は穏やかな笑みを浮かべつつ、少女に
「
「──! あ、ありがとうございます!」
少女は
「え、ええと、ええと、それで、トイレは……っ!」
「ああ、ごめんごめん。玄関入ってすぐなんだ。今開けるね」
海鳥は、玄関から見て左手に設置された引き戸を急いでスライドさせ、電灯のスイッチを入れる。
「はい、遠慮せずに使ってくれたらいいから……」と、そこで海鳥は、僅かに疑問を抱く。「……?」この少女はたった今、『自分はこの階に住んでいる者だ』と名乗った。しかし、こんな奇抜な髪色をした女の子が、本当にこの階に住んでいただろうか? いくら近所付き合いに無頓着な海鳥でも、ここまで人目を引く隣人、一度でも見かけたら絶対に忘れないと思うのだが……。「……って、あれ? それ何?」
海鳥はぼんやりとした口調で、少女が握りしめている『それ』を指差して問い掛ける。
『それ』は刃渡りが10㎝ほどの、包丁だった。