1 えんぴつ事件(1)
「泥棒だよ」
「泥棒に遭ったみたいなんだ」
「…………え?」
とある県立高校の、二年生の教室。
六時限目の授業が終わり、生徒たちがこぞって帰り支度を進める中で、二人の女子生徒だけが動きを止めていた。
片方は奈良
もう片方は海鳥
「……えっと、泥棒?」
海鳥は言いながら、抱えていた鞄を、ひとまず椅子の下へと仕舞い込む。
「いきなりどうしたの? 泥棒ってことは、何かないの?」
「ないんじゃなくて盗まれたんだよ」
食い気味に
「……な、なんだか深刻そうだね。財布か携帯でもなくなった?」
心配そうに
「財布? 携帯? ぜんぜん違うよ。私が盗まれたのは──鉛筆さ」
「え?」
「私は鉛筆を盗まれたのさ」
「…………は?」
奈良の言葉に、海鳥はしばらく黙り込んだ。
「……ちょ、ちょっと、奈良ってば、何言ってるの? 鉛筆が盗まれた? 要するに、どこかで鉛筆を
「違うよ海鳥。ないんじゃなくて、盗まれたんだって」
またも奈良は食い気味に被せてくる。海鳥は困り果てたように頬を
「……いや、意味不明なんだけど。なに? なにかの冗談?」
「
奈良は、なにやらうんざりしたように鼻を鳴らす──鳴らしただけで、その表情に変化はない。僅かも、一ミリたりとも、変化がない。表情がないのだ。緩まない頬は
奈良
「まあ、聞いてくれって海鳥……キミも承知の通り、私は根っからの鉛筆党さ。シャープペンシルなんて、そんな軟弱じゃない筆記用具は使わない。ただ鉛筆ってのは基本的に折れやすいから、しかも芯が折れちまうとどうしようもないから、常にペンケースの中にストックを切らさないようにしているのさ。きっちり、五本のストックをね。
これは小学生の頃から続けている。そして私は物持ちが良い方で、自分の部屋でペンケースの中身を取り替えることはあっても、失くしたことはほとんどないんだ。高校に入学してからに限れば、それこそただの一度もね」
だが、表情は乏しくとも、声音までもが冷ややかというわけではない。
むしろ表情の無さと反比例するように、口調の方は軽やかである。
「……はあ? な、なにそれ?」
一方、そんな奈良の説明を受けた海鳥の困り顔は、いっそう
「つまり、自分はこれまで一度も鉛筆を失くしたことがないから……だから誰かに盗まれたに違いないって、奈良はそういうことを言いたいわけ?」
「い、いやいや、
「……まあ、確かにね」
諭すような海鳥の物言いに、奈良は無表情で
「海鳥の言う通りさ。
だからこの場合は、何が盗まれたかじゃない──どう盗まれたかが問題なんだ」
奈良は自分の机の中から、ペンケースを引っ張り出していた。そして机上に、
「……ん? いや、五本あるよ?」
果たして、指折り数えた
「そうさ、鉛筆はちゃんと五本
「…………?」
「まあ、まずは触って確認してみなよ。それで全部わかる
海鳥は促されるまま、五本の内から一本の鉛筆を選び、手に取ってみる。
「どうだい?」
「……特に変わったところのない、普通の鉛筆だね」
「そうかい。じゃあ次は?」
首を
「……なにこれ? なんか微妙に
それは、鉛筆の中腹部分。見ただけではまず分からない、触らなければ気付くことの出来ないような、
海鳥はその後も、鉛筆を順々に確認していったが、最初の一本を除いて、すべて凹まされていた。凹みの場所はそれぞれ違うものの、触らなければ気付けない、というのはどれも同じだ。
「それね、私が凹ませたんだよ」海鳥が五本目を確認し終えるのを見計らって、
「……意味が分からないよ。四本を凹ませて、一本だけは凹まさない。何のおまじない?」
「そう考えると難しいのかもしれないけどさ。つまり鉛筆は、最初は五本とも凹まされていたんだとしたら、どうだい?」
「……はあ?」
海鳥はしばらく言葉の意味が分からないという風に、首を
「気付いたようだね、海鳥」
無表情で、満足そうに鼻を鳴らして、奈良は言う。「私は昨夜、ペンケースの中の鉛筆、五本全てに細工をした。触らなければ気付けないような凹みを、それぞれ異なる場所につけた。ちゃんと凹んでいたことは、一時限目が始まる前に確認している。だけどこの通り、
傷や摩耗が自動で修復される、なんて機能は鉛筆にはないよ、当然ね……だからこの鉛筆は、私の鉛筆じゃない。銘柄、長さ、芯の
奈良は無造作に一本を手に取って、その凹みを
「すり替えられている。私にばれないように、私の鉛筆を盗んだ人間が、どこかにいる。銘柄も、長さも、芯の
対して、
「最初はね、違和感だったんだ。つい一時間前に握っていた鉛筆と、今握っている鉛筆が、どこか『違っている』って感覚。具体的に、どこがどうとは言えないんだけどさ。もちろん気のせいだと思ったよ。そういうことは去年の後半に、五回くらいはあったけれど、気にしなかった。よしんばそんな変態がいるとしても、私に気付かれないようにそっくりの鉛筆とすり替えるなんて、到底無理だと思ったからね」
「…………」
「だから面白半分だった。正気の沙汰じゃないにしても、到底無理に思えるにしても──物理的に不可能って訳じゃあない。もしかしたら変態は、いるのかもしれない。物は試しで、確認してみようと思い立った。後で友達への、笑い話にでもするつもりでね。名探偵を気取って、
奈良はそこで言葉を切って、一呼吸入れた。かなり疲れている様子だったが、やはり表情には出ない。
「事実に気付いたのは昼休みだ。
ちなみに、言わずもがなのことだとは思うけれど、これはキミをからかう目的で行った、自作自演とかじゃ決してないからね? そりゃあ確かに、私はそういう冗談大好きだけどさ。今回はマジだ。冗談であって欲しいと切に思うけれど、残念ながら大マジなんだ。こう見えて、中々にグロッキーなんだぜ、今の私は」
「…………っ! な、なにそれ……!?」
と、ようやく海鳥は口を開いていた。いつの間にか、その表情からは完全に血の気が
「え、鉛筆泥棒って……つまり奈良は、そんな気色の悪いストーカーみたいな人が、このクラスの中にいるって言いたいの!?」
「残念ながら、その可能性は高いと言わざるを得ないよね」奈良はつまらなそうな顔のまま、悲しそうに息を漏らして、「私だってクラスメイトを疑いたくはないけれど……そんな神懸かり的な犯行が出来るのだとしたら、鉛筆泥棒はある程度、私と距離の近い人間に限られるだろう。それこそ、こんな風に人目を気にせず話していれば、うっかり犯人の耳に届いちまうかもしれないくらいには」
アテが外れた、という風に肩を
「犯人はこの中にいる。その事実に、気色悪さに、私は昼休みからこっち、ずっとぼーっとしていたんだけどさ……放課後前の今になって、ようやく落ち着いたよ」
奈良は言いながら、依然として落ち着きのない海鳥の瞳を見据えて、
「そんなわけで、私は鉛筆泥棒を見つけ出そうと思う。海鳥にも、ぜひ協力してほしい」
「……え?」
「そんな得体の知れないストーカーが近くにいるとか、普通に不愉快だからね。存在に気付いてしまった以上、放置は出来ないよ。それに、今は鉛筆を盗まれるくらいの被害で済んでいるけれど、この先もそうだとは限らないわけだし」
奈良は
「…………はあ」
「だからこそ目撃証言が欲しいんだよ。海鳥、キミは私の隣の席だろう。どうだい? 昼休み、私の机の周りで、怪しい動きをしている
「……うーん」
尋ねられて、海鳥は思案気に
「……ごめん奈良。悪いけど、力になれそうもないよ。犯人は見てないし、昼休み以降に、その盗まれた鉛筆とやらを見た覚えもないから」
「……そうかい」奈良は脱力した風に肩を落として、「残念だよ。まあ、そう簡単に尻尾を
「……でも、奈良の言う通りだね。これはのっぴきならない事態だと思うよ」
と、顔を青くしたままの海鳥は、ひとりでに
「今回はこれくらいで済んだから良かったけど、次もそうだとは限らない。ちゃんと対策を練らないとね……」
そうブツブツと
そんな
「……ふふっ。やっぱり、キミに相談したのは正解だったみたいだね、海鳥」
「え?」
「そこまで真剣に私の身を案じてくれる友達なんて、キミくらいだよ。鉛筆泥棒の件は、あくまでキミにとっては
「…………奈良」
奈良の言葉に、海鳥は決まりが悪そうに視線を
「や、やめてよ……私、そんな良いものじゃないってば。ただ、他人に
「ああ、よく知っているとも。
からかうような口調で、
表情豊かな海鳥
「これでもう少し付き合いが良ければ、友達として完璧なんだけどね。海鳥ったら、私がたまに『外で遊ぼうぜ』って誘っても、ぜんぜん予定を合わせてくれないんだもの。毎週毎週、どんだけバイトのシフトを入れているんだよって感じ!」
「……あ、あはは。それは本当にごめんね、奈良。私のバイト先、
「まったく、とことんまでお人よしなんだから、海鳥は。そんな店側の都合を、キミが気にする必要なんてどこにもないのにさ。なにより
……ま、私は別にそれでもいいんだけどね。こうして教室で、キミといちゃつけるだけでも十分楽しいから」
などと言いながら、奈良は片手を伸ばして、海鳥の長い髪を出し抜けに
「きゃっ!? ちょ、ちょっと、なにするの
「ふふっ、また放課後はキミと会えなくなるわけだからね。今の内に、この黒髪の感触をたっぷり楽しんでおこうかなって。
私、一日に四回はキミの髪を触らないと、気持ちが落ち着かなくなるんだよね~。なにせ一年生のときから同じクラスで、ずっと隣同士の席で、毎日のようにキミの髪を触ってきたわけだからさ。キミと会えない土日なんかは、この黒髪ロングを思い出して切なくなるものさ。ある種の禁断症状ってやつかな」
「……っ! も、もう、毎度変な冗談やめてってば、奈良! 私の髪なんかで、そんな変な症状起こすわけないでしょ!? いつも言ってることだけど!」
「ははっ、今さらこれくらいでイチイチ照れるなって。私たち、昨日今日の付き合いじゃないんだから」
などと奈良は冗談めかしたように言いつつも、しばらくの間、好き放題に
「まあ、冗談はこれくらいにして──鉛筆泥棒の件については、じっくり進めることにするよ。最悪でも四月中に解決できるなら十分だろうさ。
「……う、うん、そうだね」
奈良に乱された髪の毛を整えつつ、海鳥も言葉を返す。
「正直私も、どれくらい力になれるかは分からないんだけどさ。ずっとこんな風に仲良くしてくれている奈良の一大事だし、手伝える範囲で手伝わせてもらうよ。もしもその鉛筆泥棒とやらが私の目の前に現れたら、この手でぶっ飛ばしてあげる」
「ははっ、頼もしいね、怖いくらいだ。流石は私の親友だ……そう言えば海鳥。世界で一番怖いもの知らずな泥棒って、何だと思う?」
「……? なにそれ?」
尋ねられて、海鳥は少し考えてみたが、答えらしいものは浮かばなかった。
「ちょっと分からないかな。教えてよ奈良」
「パトカー泥棒」
奈良は得意げに言い放つ。それは確かに怖いもの知らずだと、海鳥は閉口した。