第二章 元スパイは桜に懐かれる。 7

 それから。

 雑談を交えながら住宅街を歩くこと、およそ十分。

 大村家の玄関前にたどり着いた小林は、緊張を和らげるようにゆっくり深呼吸をすると、「ぴんぽーん」と実際に口にしながらインターホンを押した。ぴんぽーん、って。

「——あら、小林さん?」

 扉を開けて現れたのは、気品あふれる五十代ほどの女性だった。

 年相応の落ち着いた服をまとい、髪色は奇抜な紫色に染めていた。身長は百六十センチほど、肩幅の広いガッシリとした身体をしている。痩せているとは言えない、恰幅のいいワガママ体型ボデーではあるが、腰回りのドッシリとした安定感は、数十年間絶えず家事をこなしてきたベテラン主婦の歴史を想起させた。

(この女性……只者ではない!)

 そんなベテラン主婦——大村さんを注視したまま、俺はわずかに後ずさる。

 漂う主婦オーラが常人のソレではない。家政夫なりたての俺でもわかる。主婦としてこなしてきた家事、乗り越えてきた井戸端会議の数がちがう。いくつの埃を払い、また幾人の主婦の愚痴をいなしてきたのか。数多の戦場を駆け抜けてきた軍人でも、ここまで堂に入った風格は持ち合わせていない!

 対面したときのプレッシャーだけで言えば、過去のスパイ活動時に対峙した、数百のファミリーを束ねるマフィアの首領ドンに匹敵するだろう。

(これが、この地区を統べる自治会長……ッ!)

 俺がひとり驚嘆していると、大村さんは目の前の小林を数秒眺め、「ああ」となにかに気づいたかのように声をあげた。

「そうでしたわ、待ち合わせの時間……ゴメンなさいね、小林さん。約束は覚えていたんですけれど、わたくしったら夢中になりすぎていたみたいで」

「いえいえー、あーしは全然大丈夫っスよ。何事もなくてよかったっス……つか、夢中になりすぎてたって?」

「ちょっとドジをしちゃってね。詳しくはまたあとで——ところで、そちらの方は?」

 小林に訊ねると同時、大村さんの射抜くような視線が俺に向けられた。

 蛇に睨まれたカエルよろしく硬直し、思わず息を呑む。

 しかし、ここで引いては葉咲家の沽券にかかわる!

 ゴクリ、と唾と共に恐怖を飲み込み、俺は力強く前に踏み出した。

「は、はじめまして! 葉咲冬子さんの家で家政夫をやらせてもらっている、野宮クロウと言いますッ!」

「はじめまして、大村です。そう、あなたが噂のあの家政夫さんだったのね。朝方、近所の奥様方があなたの笑顔を見ただけで倒れたって話を聞いて、どんな方か気になっていたのよ。噂通りの素敵な家政夫さんね」

 小林同様、彼女も旦那さん一筋なのだろう。特段、俺に対しておかしな反応も見せず、薄く微笑む大村さん。

 しかし。ほんの一時間前の出来事をすでに把握済みとは……情報網の広さも侮れない。

「き、恐縮です!」

「それじゃあ、お近づきの印に」

 そう言って、大村さんはおもむろに羽織っているカーディガンの内ポケットにスッ、と右手を差し込んだ。

(ッ……、撃たれるッ!?)

 瞬間。反射的に腰を落とし、飛び出してくるであろう銃弾にそなえて回避の体勢を取る。

 内ポケットに手を差し込む動作は、海外では銃を取り出す初動として警戒されるのだ!

 いや、まあここは日本だけれども!

 が。彼女のカーディガンから出てきたのは、鉛の弾などではなく。

「はい、どうぞ」

「……へ?」

 赤い包み紙に入った、『飴玉』だった。

 たしか、関西の主婦風に言うと、飴ちゃん。

 呆気に取られたような顔の俺を見て、大村さんはすこし不安そうに右手を引っ込める。

「もしかして、甘いの苦手だったかしら? そうよね、男のひとですものね……甘いのはあまり好きではないわよね」

「あ、いえ、そんなことないですよ! あ、ありがたくいただきます……」

「気を遣わなくてもいいのに、やさしいのね野宮さん。それじゃあ、あらためてどうぞ」

「ちょっとー! クロウっちだけズルくね? あーしも飴ちゃんほしいっスよー!」

「はいはい、ちゃんと小林さんの分もありますからね」

 むきー! と駄々をこねる小林に、大村さんがなだめるように別の飴玉を手渡す。

 さっそく飴を舐める小林を横目に、俺は脱力してフッ、と乾いた笑みをこぼした。

 ——完敗だ。

 この数分にも満たないやり取りの中で、格のちがいを見せつけられた。

 飴玉の包み紙の裏を見ると『リラックス効果のあるハーブ成分入り』と記載されている。

 そう——大村さんは俺の動揺と困惑をすべて見抜いた上で、この飴を渡してきたのだ。

 これでも舐めて落ち着けよ、新入りルーキー、と。

(踊らされていたのか、俺は……)

 なんという策士。いまも俺のほうを見て「?」と白々しく小首をかしげている。まるで、なにも理解していない一般人かのごとき反応だ。ハッ、本当はすべてお見通しのくせに。意地の悪いひとだ。簡単に動揺する俺とは役者がちがう、というわけか。

 自治会長。主婦の頂点に立つ者。その底知れぬ実力。

「まあ、立ち話もなんですから。おふたりとも、よろしければ中にお入りになって?」

「あ、いいんスかー? それじゃあ遠慮なくお邪魔しやーっス! ほら、クロウっちも」

「……お邪魔します」

 きっと俺は今後、家事を担う者として大村さんに敵うことはないのだろう。

 それでも……それでも、せめて。

 頂には届かずとも、葉咲家の名に恥じぬ程度の家政夫にはなってみせる……ッ!

 そう、あらたな誓いを立てつつ、俺はもらった飴玉を口に放った。

 ……うん、甘い!



 とまあ。

 玄関先でそんなやり取りを繰り広げたあと、大村さんに招かれるまま家の中に足を踏み入れると、廊下の先、おそらくはキッチンからなんとも甘い香りが漂ってきた。

 なにかを焼いたかのような香りだ。ほんのり熱気をともなうソレを、スンスン、と犬のように嗅ぎながら、小林が瞳を輝かせる。

「大村さん大村さん! なんスか、このおいしそうな匂い! お腹が鳴りそうっス!」

「クッキーを焼いたのよ。小林さんとお話する間、お茶請けにでもどうかしらと思って」

「クッキー! あーしの大好物っス! ——ああ、なるほど。夢中になりすぎてたってのは、クッキー作りに夢中になってた、ってことだったんスね?」

「あ、いえ……夢中になっていたのは、また別のことで」

「別のこと?」

「これよ」

 そう言って、廊下を先導する大村さんは歩みを止めると、右手側にある扉を見やった。

 ほかの部屋の木製の扉とはちがう、ステンレス製の銀色の扉だ。

 扉中央には、『倉庫』と記されたプレートがはめ込まれている。

「倉庫っスか?」

「いまは『開かずの倉庫』ね——ここには、すこし前から街の防犯カメラの機材なんかを運び込んであってね。週に三度、湿気を取るために扉を開けた換気をしていて、今日もクッキーを焼いている間にその換気をしていたのだけれど……すこし目を離した隙に、シェリーちゃんが扉を閉めちゃってね。そのときの衝撃で、扉の鍵がかかっちゃったみたいなのよ。この倉庫だいぶ古いから、扉の鍵もバカになっていたのね」

「えっと、シェリーちゃん、って?」

 小林が訊ね返すと同時、廊下の先から「にゃーん!」という鳴き声と共に、灰色の猫が駆け寄ってきた。どうやら、この猫が『シェリーちゃん』らしい。

 スリスリ、と大村さんの足元にすり寄るシェリーを見つめながら、小林は「ああ!」となにか閃いたかのように手を叩いた。

 俺はポケットに右手を入れつつ、そっと扉の前に移動する。

「いま大村さんの足にしてるみたいに、その猫ちゃんが開けてた扉にスリスリしちゃって、扉がバターン! と勝手に閉まっちゃった、ってことっスね?」

「大正解。だから、わたくしが夢中になっていたというのは倉庫の『鍵探し』のことなの。寝室のタンスに入れておいたはずなのだけれど、どうしても見つからなくてね……」

「なるほど、待ち合わせの時間を忘れるわけっス。ずっと『開かず』のままになっちゃったら大変っスもんね。かと言って、業者さんを呼ぶのもなんか大げさだし——」

「——これ、開いてますよ?」

 ここで、俺はようやく会話に割って入り、ガチャリ、とステンレスの扉を開いてみせた。

「えッ!?」驚愕に目を見開き、開かれた扉に駆け寄る大村さん。小林も「ぬはぁッ!?」と驚きの声をあげている。ぬはぁ、って。

「そ、そんな……さっきまでちゃんと閉まってたはずなのに!」

「古い倉庫だそうですから、扉の鍵もしっかり閉まらなかったんじゃないですかね? 俺がドアノブを引いてみたら、なんの抵抗もなく開きましたよ」

「そうなのかしら……でも、だって、えぇ……?」

 いまだ信じられないような表情をする大村さんを見やりながら、右手に隠した針金を、バレないようにポケットの中に戻しておく。

 ——スパイの定番テクニック、ピッキングである。

 この扉にはたしかに鍵がかかっていた。しかし、俺が扉前に移動した瞬間、小型カメラを設置する際に使用した針金の余りを鍵穴に差し、一秒とかからずに開錠したのだ。

 扉の形状、ドアノブ周りの構造からするに、鍵の種類はオーソドックスなサムターン錠。こうした単純機構のタイプの鍵であれば、目をつむってでも開けることができる。

 国家から依頼されることも少なくない立場からか。スパイは押しなべてプライドの高い人間が多く、こうした泥棒まがいのピッキングは極力行わないのだけれど……まあ、俺はもうスパイじゃないからいいだろう。

「な、なんかよくわかんないっスけど、クロウっちすげえじゃん! やるー!」

「いや、俺はドアノブを回しただけですから。特にはなにも」

「わたくしは、たしかに閉まってるのを確認して……えぇ?」

 狐につままれたかのごとく、何度も扉の鍵部分を確認する大村さん。

 主婦の頂点たる彼女でも、これほどまでに動揺することがあるのかと、俺はすこしだけ親近感を覚えたのだった。


   □


「小林さんに野宮さん、今日は色々と助かりましたわ。この恩は必ず返させてちょうだい。わたくしにできることだったら、なんでもいたしますわ」

 自治会に関する説明がてら、おいしいクッキーと紅茶をいただいたあと。

 自治会長たる大村さんからそんな頼もしい——『種』としては最高の言葉をもらい、俺と小林はふたりで帰路についた。

「クロウっち、今日はサンキューっス。クロウっちのおかげで心細くなかったっスよ」

「それはよかったです。まあ、俺なんか必要ないくらい、大村さんと打ち解けてたように見えましたけどね」

「ああ見えて緊張してたんスよ。あーし、年上のひと相手だとブルっちゃうんスよねー」

「あの……俺、小林さんの一個上なんですけど」

「おっと、あーしの家はこっちなんで! それじゃあクロウっち、またねー!」

 下手くそなはぐらかしをして走り出す小林。逃げたな。

 まあ俺も、もうひとつの『目的』を果たせたことだし、良しとするか。

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