第二章 元スパイは桜に懐かれる。 6

 午前十時二十分。

 事務員さんに見つからぬよう入校許可証を窓口カウンターにそっと返却し、一階のトイレの窓から難なく脱出。俺はそのまま叶画高校を離れた。

 帰宅後。家の掃除と合わせて、自分の部屋となる和室も一緒に片づけてしまうと、俺はさっそく自室に手荷物のキャリーバッグを運び込んだ。

 ケースに暗証番号『009』を打ち込み、鍵を開錠。

 詰め込まれた衣類をかきわけて、スマホと十数個の『小型カメラ』を取り出す。

 スマホは、俺がスパイ時代に使用していたものを日本移転用にカスタマイズしたもの。小型カメラは、キャサリンが念のためにと出国前に渡してきたものだ。

 おそらくキャサリンは、家政夫の依頼を受けたときから、親友である冬子の娘たち……三姉妹の身を案じ、このカメラを用意していたのだろう。さすがは諜報部長官。あらゆる事態を想定することには誰よりも長けている。

 まあ。スパイ相手では一発でバレてしまうような、おもちゃレベルの代物だが、一般人相手であればこのレベルでも問題はないだろう。

「ありがたく使わせてもらうぞ、キャサリン」

 つぶやき、家中に小型カメラを設置していく。

 カメラは手の平に収まる程度の大きさで、そこまでステルス性能は高くないが、この家はデザイナーズハウスのように無駄に洒落ている。湾曲した棚の一角や廊下の足元を照らすライト部分の陰に取り付けることで、簡単にカメラの存在感を消すことができた。

 ……本当は、ここまでする必要はないのかもしれない。

 けれど、三姉妹にもしもの事態が起こったらと考えると、どうしても万全を期さずにはいられなかった。

〝——どういう関係なんです——〟

 ただの杞憂で済めば、それが一番いいのだけれど。

「……これでよし、と」

 針金を使って玄関外側の上部に最後のカメラを固定して、準備完了。家の中に戻ると、俺はスマホを小型カメラにかざした。赤外線通信を利用して、スマホと小型カメラをリンクさせるためだ。これで、スマホでいつでも家の中を監視することができるようになる。

「よし、問題なさそうだな」

 スマホの画面には、廊下に突っ立っている俺の姿が映し出されていた。

 音声アリ、映像も色アリの高画質だ。監視カメラの多くは音もなく、映像も単色なことが多いのだが……キャサリンめ、おもちゃにしては意外と値の張るカメラを渡してきたな。

 スマホの『感知モード』をONにしておく。これで、誰かがカメラに映りこんできたときだけ、映像データをクラウド上に保存するようになる。

 ディスプレイ右上の番号をタップすると、カメラが次々に切り替わった。

 ふむ、正常に作動しているようだ。

 これで、家の中の危険をすぐに察知できるようになった。



 そのまま監視カメラの点検がてら、リビング、階段、二階、書斎と確認していき。

「……ん?」

 俺はふと、玄関先の映像でタップの指を止めた。

 玄関の外。路上の電信柱の近くに、女性がひとり立っていたのだ。

 シンプルなジーンズに橙色のエプロンをかけた若めの女性だった。金髪と黒髪の、いわゆる『プリン頭』と呼ばれる髪色をしていて、化粧もやけにド派手だった。知っている。これはたしか、ギャルと呼ばれる類の人種だ。肌もすこし浅黒いし。

 待ち合わせ中か。女性は電信柱に寄りかかりながら何度もスマホを確認している。

「葉咲家を監視している、というわけではなさそうだが……」

 もし監視目的だとしたら大胆不敵すぎる。

 とすれば、平日の真昼間、こんな住宅街の中途半端な路地で、若いギャルがいったいなにをしているのか? エプロン姿も相まって、学生のようには見えないけれど。

 警戒心よりも好奇心が勝り——気づけば、俺は玄関を開けて彼女の下に向かっていた。

 それに、もしこの一帯に住んでいる住民であれば、それはたしかな『種』になりうる。

「こんにちは」

「え——ぬおッ!?」

 俺が挨拶すると、ギャルはスマホから顔をあげて、女性らしからぬ驚きの声をあげた。ぬお、って。

「び、ビビったー……急に目の前に立たないでほしいんスけど! あーし、そーいうビックリ系とかマジ苦手なんスから!」

「すみません。うちの家の前でなにしてるのかなあ、と思いまして」

「うちの家? ああ、そこの家、イケメンさんの家だったんスね。こりゃあ申し訳ナス」

「ナスって」

ばやしっス」

 唐突な自己紹介と共にプリン頭のギャル——小林は、屈託のない笑顔をたたえ、右手を差し出してきた。ナスって。

「あっちの公園近くにあるアパートに一週間前に越してきやした。年は十九歳。新婚ほやほやの新妻でース。ちな、旦那のナッくんは二十歳っス」

「そこまでは言わなくていいですけど……」

 というか、このギャル既婚者だったのか。主婦であれば、エプロン姿なのもうなずける。

 若干戸惑いつつも、俺はその右手を握り返して、わずかに微笑む。

「野宮クロウ、二十歳です。そこの葉咲家で家政夫をしています」

「すごっ。家政夫ってめちゃくちゃ家事できるひとのことっしょ? パネェわ、クロウっちー。つか、家政夫ってことはそこクロウっちの家じゃないってことじゃん。もー、それを先に言えっつーの」

 ふひひ、と楽しそうに笑い、空いた手で俺の肩をバシバシ叩いてくる小林。

 もしかしなくても、クロウっちというのは俺のあだ名なのだろう。初対面で下の名前、それもあだ名で呼んでくるとは。ギャルの距離感、恐るべし。

 ……いや、それよりも、気になることがひとつ。

「ん? どしたんスか? クロウっち」

「いえ……なんというか、倒れないんだな、と」

「へ?」

 今朝。弁当を届けるときに出会った主婦のみなさまは俺の笑顔を見ただけで倒れていたから、倒れない小林が逆に珍しく思える。

 いや、別に倒れてほしいと思っていたわけではないし、本来は倒れないのが普通なのだけれど。

 そんなことを考えていると、小林が握手をしたまま「つーかさ」と口火を切った。

「余計なお世話かもっスけど、クロウっち」

「はい?」

「そうやって不用意に笑顔を振りまくの、あんましないほうがいいっスよ? 特に女のひとに対しては。誤解するひと続出しそうっスからね、その笑顔——まあ? あーしはナッくん一筋なんで、いくら笑顔見せられようと関係ないんスけど! ふひひ!」

「……ああ」

 ノロケる小林を前に、俺はなるほど、と得心いったとばかりにうなずく。

 小林は、旦那さん一筋でほかの男性など眼中にないから、俺の笑顔を前にしても倒れなかったのだ。

(なかなかどうして、一途な女性なんだな)

 ……だが、そうなると俺の笑顔で倒れていた主婦のみなさまは旦那さんに一筋ではない、ということになってしまうのだけれど、その推測を広げるのは深淵を探るよりも危険な気がしたので、俺は素知らぬ顔で話を戻すことにした。

「肝に銘じておきます——えっと、ところで小林さん」

「なんスか?」

「手、そろそろ離しません?」

 会話が弾んだ証拠か。互いにタイミングを逃して、ずっと握手をしたままだった。

「うおっと! ふひひ、これは申し訳ナスっス」

「いえ、俺のほうこそ——それで、小林さんはここでなにをしていたんですか?」

 あらためて訊ねると、小林は「ああ、そうそう」と思い出したように。

「あーし、この地区の自治会長さんと待ち合わせしてたんスよ」

「自治会長さん?」

「『おおむらさん』ってひとっス——あーしとナッくん、引っ越してきたばっかで、ここの自治会のこととかまったく知らないっスから。自治会に入るのと一緒に、その大村さんに色々教わる約束になってたんスよー」

「ふむ。自治会、自治会か……」

 日本の各市町村にそうした組織が存在するというのは、来日前の調査で把握していた。公民館の掲示板に張り紙を貼っているのも、たしか自治会の仕事だったはずだ。

 だが、それがどのような構成員を集めた組織なのかまでは、まだ把握していなかった。さすがに、マフィアのような悪事を働いている団体ではないと思うけれど……。

(一度、調査する必要があるな)

 自治会長さんへの面談が叶えば、そのあたりの運営内容なども知ることができるはず。

 いま小林と出会えたのは好都合かもしれないな。ふたつの意味で。

「んで、最初はあっちの公園で待ち合わせしてたんスけど、三十分経っても来なくって。どうしようかなー、ってフラフラ迷ってたら、いつの間にかここに来ちゃってたんスよ。不審者っぽかったっスよね。ゴメンなさいっス」

「いえ、そういうことであれば全然……でも、それなら直接、その自治会長さんのお家に行ってみたらいいのでは?」

「えー? まだ一回しか会ったことないのに勝手に家行くって、なんか図々しくね?」

「俺は会って数分であだ名をつけられているんですが……」

「ふひひ。クロウっち、こまけー」

「うるさいですよ——でも本当、そういった事情であれば、直接行っても怒られるようなことはないと思いますけどね。小林さんはキチンと待っていた側なわけですし」

「んー……まあ、それはそうなんスけど」

「なんだったら、俺も一緒に行きましょうか?」

 何気ない風をよそおって提案すると、小林は「ぬえッ!?」とやはり女性らしからぬ声をあげて目を見開いた。ぬえ、って。

「マジっスか!? ぶっちゃけると、あーしひとりじゃあ心細いなー、とか思ってたんで、めちゃくちゃありがたいっス! おなシャス!」

「了解です。というか、俺も昨日家政夫として雇われたばかりなので、いつかこの地区の自治会長さんにはご挨拶しに行かないとな、と思っていたんですよ」

 もちろん嘘だが。

「おー、そうだったんスか。なら、一緒に行かない手はないっスね——んじゃあさっそく、あーしら『ママ友ふたり組』で大村さん家にゴー!」

「俺はママではないですけどね……」

 呆れつつ、家の鍵をしっかりと施錠し、俺たちママ友ふたり組は大村さんの家を目指す。

 よし、計画通り。

 これで、自治会の実態を探りながら、もうひとつの目的も果たすことができる。

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