第二章 元スパイは桜に懐かれる。 5
桜に連れて来られたのは、物理室などが並ぶ別校舎、その二階につながる階段下だった。
生徒たちの声も届かない静かな一画で、桜は怒気を込めながら俺に詰め寄る。
「それで、どういうつもり?」
「どういうつもり、とは?」
「みんなの前でなんであんなこと言ったのかって話よ! 最初から『家政夫です』って言っておけばいいのに、パートナーだとか同棲してるだとか、誤解されるような言葉ばっか使ってさ。あれ、もう完全に彼氏だって思われてるわよ……」
「彼氏?」
「恋人って意味よ! パートナーって言われたら、誰だってそう受け取るでしょうが!」
「……ああ」
なるほど。たしかに俺の発言を思い返すと、そう聞こえなくもない。
しっかりビジネスパートナーと言っておけばよかったか。
「すまない。弁当を届けたい一心で、配慮に欠けていた」
「どんだけ家政夫根性が身についてんのよ、まだ二日目だってのに……おまけに、わ、私のことを大切に想ってるとか、心にもないこと言っちゃってさ」
「? それはまぎれもない事実なんだが、それも言ってはいけなかったのか?」
「は、はぁ? じ、事実って……」
「事実は事実だ。俺は、桜のことを大切に想っている」
このことに、元スパイ云々は関係ない。
依頼人を大切にすることは、仕事の質を向上させることにもつながる大事な要因だ。
真剣な眼差しでそう伝えると、桜はすこし間を空けて、面映そうに視線をそらした。
「……それ、マジで言ってます?」
「マジで言ってます」
「へ、へえ、そうなんだ……ふーん」
先ほどまでの態度を一変。桜は指先をイジりながら、俺を上目遣いに見つめてきた。
「じ、じゃあさ。クロウは、そういう勘違いをされちゃってもいいんだ……?」
「……そういう勘違いというのは、桜と男女の関係に見られること、という意味で合っているか?」
「そ、そういう意味で合ってます……」
擬音にしてジュ、と顔を真っ赤にする桜。
俺は両腕をつかねて、ストレートに断言する。
「もちろん、俺はそう見られてもかまわないぞ」
「~~ッ、そ、それは、どうして?」
「それは……」
桜の期待に満ちた瞳を前に、俺は思わず口をつぐむ。
恋人がいると勘違いされていたほうが、桜に言い寄る男子が減るから——
三姉妹を守る家政夫としてそう答えようと思っていたのだが、桜のこの瞳を前にすると、その回答はむしろ俺自身の危険を招くような気がした。理由はわからないけれど……とにかく、本能的なアレが『やめておけ』と必死に叫んでいた。
俺の危機察知能力も、まだまだ捨てたものではないらしい。
ともあれ——だから、俺は素知らぬ顔でそっぽを向きながら、こう答えるのだった。
「企業秘密だ」
「な、なによそれ……ここまできて普通、隠す?」
「秘密は秘密だ。俺にだって言いたくないことのひとつやふたつ、あるんだからな」
「……もしかして、照れてる?」
「照れてなどいない」
「嘘。じゃあこっち見て?」
「…………」
「顔みれないってことは、やっぱ照れてんじゃん! そっかそっか。恥ずかしいのですか、クロウくんはー」
「だから、別に照れてなど……」
「はいはい、そういうことにしといてあげますよ……えへへ。あーあ、みんなへの説明が大変だなー」
うれしそうに言いながら、桜は階段下を出て、スキップまじりに渡り廊下に戻り始めた。
……なにやら別の勘違いをされているような気がしないでもないが、まあいい。
依頼人が幸せそうなら、それだけでいい。
そんなことを考えながら歩いていると、本校舎の階段付近で、前を歩く桜がくるり、とこちらを振り向いた。
「それじゃあクロウ、私は教室に戻るからね。アンタは変なことせずにそのまま家に帰ること。いい?」
「了解した。では、桜が帰る前にスーパーで夕飯の買い出しを済ませておこう」
「……あ」
「どうした?」
「え、えっと……もしよければその買い物、私も付き合おうか……?」
「? いや、そこまで大量に買い込む予定はないから、俺ひとりでも大丈夫だぞ」
「わ、私もちょうど買いたいものがあったのよ! だから——」
「なら、ついでに俺が買ってきてやろう。そのほうが効率的だ。なにがほしいんだ?」
「~~ッ、い、いいから、ふたりで買い物に行くのッ!! これは雇い主としての命令! 拒否ったら即解雇だからね!」
「ば、罰が重すぎる……」
むー! と両頬をふくらませたまま、こちらを睨んでくる桜。
子供みたいなワガママを言い出してきた。いや、実際に子供ではあるんだが。
しかし、ふたりで買い物か。
ママチャリに乗ってきているから、帰り道に俺ひとりでスーパーに寄ってしまったほうが効率的なんだが……まあ、雇い主の命令なら仕方ない。
桜が帰るまでの時間は、俺の部屋の掃除などに費やすとしよう。
「わかった。それでは、帰ったら一緒に買い物に行こう。ついてきてくれるか? 桜」
「うん! えへへ。し、しょうがないわねー、クロウはさみしがり屋なんだからー」
「色々と指摘したいことはあるが……まあいい。これ以上、授業を離れていては問題だ。早く教室に戻れ」
「はーい」
「あと、先生に『騒がせてしまって申し訳なかった』と伝えておいてくれ」
「うむ、了解した」
俺の真似をしながらビシッ、と敬礼したあと、桜は「えへへ、それじゃあまたあとで。お弁当ありがとね!」と階段を上っていった。
もっと叱られるものだと思っていたが、機嫌がよくなったようでなによりである。
「女心と秋の空、というやつか? よくわからんな……」
両肩をすくめて、ため息をひとつ。
桜の背中を見届けて、靴が置いてある昇降口に戻ろうとした。
そのときだ。
「——どういう関係なんです?」
不意に、背後から声をかけられた。
振り向くと、そこにいたのはひとりの男子生徒。
不気味な生徒だった。顔色は青白く全身はガリガリ。頬や首筋、制服の袖から覗く手の甲には、骨と皮しか存在していない。歩くスケルトンといった風体だ。ギョロリ、と動く両眼は病的なまでに血走っている。
授業中なのに、どうして生徒がここに?
桜と同じように、保健室かなにかの用事で抜け出してきたのだろうか?
「どういう、関係なんですか?」
重ねられた問いに、俺は男子生徒への観察を中断して。
「すまない。その前に、きみは誰だ?」
「鈴木と言います。2-A、『桜姫』と同じクラスの生徒です」
「桜のクラスメイトか」
「……『桜』?」
くぼんだ眼窩の奥で、男子生徒——鈴木の両眼が蠢いた。
「桜姫を下の名前で呼ぶなんて……あなた、桜姫のなんなんですか?」
「なにって、葉咲家で働くただの家政夫だが」
「家政夫?」
先ほどの失敗を踏まえて正直に答えるも、鈴木はどうしてか懐疑的な視線を緩めない。
「ただの家政夫が桜姫をパートナー呼ばわりするのですか? それも、あんな親しげに」
「いや、あれはビジネスパートナーという意味で、特に深い意味は……」
「そんな言い間違いしますか? ビジネスパートナーをパートナーという単語だけで呼ぶなんて、そうそうありえない間違いだと思うのですけど。本当は親密な関係にあるパートナーで、だから、ついポロッと口にしてしまったのではないですか? どうなんです?」
「……ふむ」
この男子生徒、かなり面倒くさいタイプだな。
俺の正直な返答に難癖をつけてくるあたり、相手を言い負かすことでしか自分の優位性を示せない類の人間であることが窺える。
それとも、日本の若者はこんな揚げ足取りばかりしてくるものなのだろうか? 言葉尻を捕らえて、鬼の首を取ったかのように攻めてくる。ネットでよく見る論調だ。
ここで、俺が外国人で日本語に不自由な面があるということを伝えても鈴木は攻撃の手を……いや、口撃の舌を止めないだろう。『それだけ流暢に話せているのに、ビジネスパートナーの部分だけ間違えますか?』とでも応酬してくるはずだ。
(ここは、無視するに限るか)
俺は小さなため息をもらしつつ、口を開いた。
——この対応が、最大の過ちであることにも気づかずに。
「悪いが、俺の話を信じてもらえないのなら、もうこれ以上話すことはないよ。俺と桜の関係が知りたいのであれば、あとは桜本人に直接訊いてくれ」
「……そうですか、わかりました」
反撃してくるかと思いきや、「失礼します」と頭を下げ、あっさりと踵を返す鈴木。
生気のないその背中を見送ったあと、俺はやれやれと肩をすくめ、昇降口に足を進める。
まるで、呪縛霊にでも遭遇したかのような気分だった。