第二章 元スパイは桜に懐かれる。 4
ひんやりと冷たい階段を上って、程なくして二階に出た。
(授業中のようだな……)
長く一直線に延びた静かな廊下を、靴下のまま忍び足で歩いていく。
自分が上ったのは二階の2-F側……つまりは目的地の真逆だったようで、2-Aにたどり着くまでにすこしだけ時間がかかってしまった。
(ここが2-Aか)
プレートを確認し、教室前方の扉からこっそり中を覗き込んでみる。
教師の言葉を聞きながら、真剣に板書している者、寝ている者、スマホをイジっている者、呆けている者……様々な生徒が一堂に会していた。
そんな中で、ひときわ存在感を放っている生徒がいた。
ほかでもない——葉咲桜だ。
なにか特別なことをしていたわけではない。ほかの生徒と同じように、真面目にペンを走らせているだけなのだが……その完成されすぎた美貌が、この集団の中である種の異物となってしまっていた。
クラスにひとりはいる美少女レベルではない。街で見かける可愛い子レベルでもない。
これは——最悪、事件に巻き込まれるレベルだ。
(……すこし、認識をあらためる必要がありそうだ)
モテる容姿であることは、三姉妹を一目見たときから気づいていた。だが、事務員さんの話やこの『浮き』具合を見るに、どうやらそんな低次元の話ではないらしい。
おかしな男に近寄られるどころか、それこそ本物の暴漢やストーカーに襲われる可能性だってある。
(本気で、家に監視カメラを設置する必要があるかもな……)
そんな風に、真剣に今後のことを考えていた、そのとき。
ふと。黒板に向いていた桜の視線が、ついと前方の扉外、俺のほうに向けられた。
瞬間。大きく目を見開いて、口を押さえる桜。驚きの声がもれそうになったのだろう。
見つかってしまったのなら仕方ない。
俺は観念して、目の前の扉をガラガラ、と躊躇なく開いた。
「失礼するぞ」
開けた瞬間。チョークを手にしていた女教師が、そして机に座る生徒たち全員がポカン、と呆気に取られたような表情で硬直した。
「桜。弁当を届けに来てや——」
直後。
俺の声は、女生徒たちの悲鳴めいた黄色い絶叫にかき消された。
「やばッ、なにあのイケメン!」「ちょーカッコいいんですけど!!」「芸能人のあの人に似てない!?」「スタイルやばッ!?」「うわ、マジで引くぐらい美形!!」
先ほどまでの静けさはどこへやら。
こちらを見つめながら、女生徒たちが口々に俺への評価を話し始める。
……大丈夫。俺はもう、女性の反応を気にしないことにしたんだ。
固い決意を胸に俺は歩を進め、いまだ唖然とした表情をしている桜の席に向かった。
トートバッグの中から弁当箱を取り出し、机の上に置いてやる。
「ほら、弁当。朝渡そうとしたのに出て行ってしまうから、届けに来てやったぞ」
「あ、ありがとう……って、バカッ!! そんなこと言ったら——」
「——ええぇぇッ!? あのふたり、どういう関係なのッ!?」
慌てる桜をよそに、またも沸き上がる女性オーディエンス。
先ほどまでどこか冷めた目で俺を見ていた男子生徒たちも、この話題には興味があるようで、しかとこちらに視線を向けてきていた。
おそらく、陰ながら桜に好意を寄せている男子たちなのだろう。
「俺と桜が、どういう関係か、か……」
家政夫を依頼してきたのは冬子だが、現在の実質的な雇い主は三姉妹ということになる。
三姉妹に家政夫として雇われている、いまのこの関係を言い表すのなら……。
うん。この言葉がもっとも適切だ。
俺は桜の頭にポン、と手を乗せると、周囲の生徒たちに向けて、こう告げた。
「俺と桜は、良き(ビジネス)パートナーの関係だ」
「は、はあぁッ!?」
ボッ、と頬を赤らめて動揺する桜。
すると、教室が揺れんばかりの大絶叫が響き、色めきだつ周囲の女生徒たちが矢継ぎ早に質問を繰り出してきた。
「パートナーって、つまりはそういう関係ってこと!?」「いつから!?」「お弁当渡すってことは、ふたりは同棲してるんだよね!?」「どこまで進んでるの!?」「親公認!?」
授業そっちのけで、俺と桜に好奇の視線を向けてくる女生徒たち。
男子生徒は、楽しそうにこちらを眺めているのが半分、俺のことをどこか恨めしそうに睨みつけてきている者が半分といった割合だ。
さすがは『桜姫』。たかが家政夫ひとりを雇った程度で、ここまで注目を浴びるとは。
俺はオーディエンスの興奮を抑えるように、両手でクールダウンを促しながら口を開く。
「すまない、すこし落ち着いてくれ。すべての質問に答えることはできないが……とにかく、俺と桜がパートナー関係にあることは間違いない。懇意で同棲もさせてもらっているし、母親の冬子もこの関係を承諾済みだ」
「バッ……く、クロウ! アンタなに言って……!」
「事実を言ったまでだ。そして、俺が桜を大切に想っていることも、偽らざる事実だ」
「んなぁッ!?」
スパイにとって、
……まあ、それもすべて過去の教えだけれど。
俺の言葉になぜか赤面する桜を見て、「きゃー!!」とまたも女生徒たちの割れんばかりの絶叫が響いた。
同級生たちにとって、桜に家政夫ができたことは、よほど面白いイベントのようだった。こんなに叫んで、喉は痛くならないのだろうか?
そんな風に女生徒たちの心配をし始めていると突然、ガタッ、と桜が席を立ち上がった。
「す、すみません先生! ちょっとこのバカのせいで頭が痛いので、保健室に行ってもいいでしょうか!?」
「え、ええ……大丈夫ですよ。気をつけて行ってきてください」
「ありがとうございます! 行ってきます!」
「なんだ、桜。頭痛か? それにしては随分と元気な立ち上がりようだが——、っと?」
「うっさいッ!! いいから来なさいッ!」
どうしてか激昂する桜に腕を掴まれ、教室の外に強引に連れ出される俺。
クッ、相変わらずなんてパワーだ! 頭痛で苦しんでいるようには思えない!
またもあがった黄色い歓声に押され、教室を出る——その間際。
(ん?)
ふと。覚えのある感覚が、背中に突き刺さった。
スパイ活動中。敵と対峙した際に何度も味わってきた、あの感覚だ。
(……『殺意』?)
間違えるはずがない。
それはたしかに、俺に対する抜身の殺意だった。
日本という平和ボケした国の人間が……まして、いち高校生がここまでの殺意を発するだなんて、普通はありえないことなんだが。
「ちょっと、ちゃんと歩いて!」
「え? あ、ああ……」
そんな一声で我に返り、俺と桜は、ひとけのない渡り廊下を進んでいった。