第二章 元スパイは桜に懐かれる。 3
叶画高校の校舎が見えてきたのは、それから十五分ほど経ったあとのことだった。
校門を抜けて、来賓用の駐輪場に自転車を駐車。
教員たちの下駄箱が置かれている昇降口に入り、来客専用窓口をコンコン、と叩いた。
「はいはい、どちら様で——、うへぇッ!?」
書類に視線を落としていた事務員の女性が、俺の顔を見た途端、そんな変わった驚きの声をあげて頬を赤らめた。
……うん。女性の俺に対する反応は、もう気にしない方向でいこう。
「はじめまして。葉咲桜の家政夫の野宮クロウと言います。お弁当を届けに来たのですが……桜のクラスがどこにあるか、わかりますでしょうか?」
「は、葉咲桜さん? ああ、『
「桜姫?」
聞きなれない単語に思わず首をかしげると、事務員の女性は咳払いをして平常心を取り戻し、淡々と書類を用意し始めた。
「葉咲桜さんのあだ名ですよ。彼女、ものすごい美少女だから、生徒たちの間でそう呼ばれているんです。妹の葉咲秋樹さんも『秋の令嬢』と呼ばれていて、ふたりそろって『叶画高の二大美女』だなんて言われているんですよ」
「へえ……そうだったんですか」
あれだけ綺麗な顔立ちをしていれば、有名人あつかいされるのも無理はないか。
もしかしたら夏海も、高校時代は同じようなあだ名をつけられていたのかもしれない。なんだろう、『夏の女王』とかかな?
と。脳内で夏海のあだ名を推測していると、事務員の女性が申し訳なさそうに。
「すみません。お話をお伺いする前に、あなたの身分を証明するものをご提示願えますでしょうか? 来客者の身分は、こちらの書類に記入する決まりになっていまして……」
「ああ、そうですね。失礼しました」
答えて、日本入国前にあらかじめ用意しておいた免許証を差し出す。
コレも、もちろん偽造したものである。
「野宮クロウさん……はい、確認しました。ありがとうございます——それで、桜さんの家政夫ということですけど、それを証明するものは持っていますでしょうか?」
「残念ながら。俺が家政夫になったのがつい昨日の話でして……ただ、桜本人はもちろん、母の葉咲冬子さんにも電話でご確認いただければ、俺が家政夫であることは証明できるかと思います」
「ああ、あの元気なお母さまですね?」
事務的な態度を一変。朗らかなソレに変える事務員さん。冬子と面識があるようだ。
もしかしたら、冬子が俺と同じように弁当を届けに来たことがあるのかもしれない。
「それだったら安心ですね。ただ、これも決まりになっていますので、あとでお母さまに確認のお電話をさせていただく形にはなりますが……」
「ええ、それでかまいません。すみません、お手数おかけしてしまって」
「いえ、とんでもないです」
「それで、桜のクラスはどこに?」
「2-Aなので本校舎の二階になりますが……あの、先に言っておきますと、あなたを校舎内に入れることはできませんよ?」
「え……そうなんですか? 自信作なので、直接渡してあげたいんですけど」
俺が返却された免許証を受け取ると、事務員さんは困り顔のまま頭を下げた。
「すみません。不審者対策のため、授業が始まったあとは校舎内に簡単に入れない決まりになっているんです。『入校許可証』があれば入ることはできますが、こちらは業者の方や、生徒の血縁関係者の方にしかお渡ししてはいけない決まりになっているんです。ご理解いただければと。お弁当はこちらでお預かりして、必ず桜さんに届けますので」
「業者か、血縁関係者だけ……」
実は桜の兄なんです、なんて嘘は通らないだろう。その嘘を吐き通すには、俺の瞳は青すぎる。
ここは素直に弁当を預けるのが正解なのだろうが、コレは昨日の汚名を返上するためのキーアイテムであり、かつ家政夫になってはじめて作った記念の自信作だ。できることなら直接手渡してやりたい。
なにより——俺の心に刻まれた『トラウマ』が、弁当を預けてはいけないと叫んでいる。
現役のスパイ時代。俺は、潜入先の
その後。痺れ薬を盛った敵国の女スパイに地下に軟禁され、『さあ、解放されたかったらおとなしくこの婚姻届にサインしなさい! いや、してくださいお願い本当に後生ですから!』と、三日三晩拝み倒され続けた。
そうした過去のトラウマじみた失態のせいで俺は、他人に食料を預ける、という行為にひどく抵抗感を覚えるようになったのだった。
この事務員さんが信用できない、というわけでは決してないんだがな。
ともあれ。だから、三姉妹を守る家政夫としても、この弁当は直接届けてやりたいのだ。
(しかし……では、どうやって校舎内に潜入する?)
強引に突破するのは論外。校舎の壁伝いに秘密裏に潜入するのもナシだ。いまは身を隠せない明るい昼間。環境が悪すぎる。
一度出直して業者に変装するか? いや、変装道具をそろえている間に昼食の時間が過ぎ、桜がいつものパンを購入してしまう恐れがある。事は急を要する。
俺はチラリ、と窓口周辺を見やった。
(世界有数の銀行で実施されている、堅牢なセキュリティシステムよりも厄介だな……)
ノーガード戦法とでも言おうか。なまじ道具や機械に頼っていない分、ピッキングなどの技術に頼ることができないので、潜入手段が限られてしまう。
——そう、『限られて』しまう。
最初に顔を合わせたときの事務員さんのあの反応を考慮すれば、校舎内に潜入する方法がまったくないわけではない。
(この手は使いたくなかったが……そうも言っていられない)
いまの俺は三姉妹の家政夫だ。雇い主の食事を届けるという使命より大事なものはない。
ペチペチ、と両頬を軽く叩いて、一度小さな深呼吸。
おもむろにネクタイを緩め、筋張った首元をさらすと、俺は艶かしい声音と共に事務員さんを見据えた。
「お願いです……そこをなんとか、通してもらえませんかね?」
「う、うぎゅッ!?」
「どうしても直接渡してあげたいんです」
小動物のように瞳を潤ませながら、懇願するように窓口の奥をジっと見つめる俺。
あわあわ慌てる事務員さんの顔が、カーッと熱したヤカンのように赤く染まっていく。
——ハニートラップ。
いわゆる色仕掛けと呼ばれるこの手法は、スパイの常套テクニックとされている。映画やメディアの影響か、ハニートラップ=女性特有の技のように思っている人間が多いが、それは誤解だ。ロミオ諜報員よろしく男性が女性を罠にかける場合にも、ハニートラップという言葉は用いられる。
そう。いまの俺のように。
事務員さんが俺に好意を抱いてくれていることが前提の、ひどく自意識過剰な手法で、スパイ時代にも使用したことがなかった技術だが……背に腹は代えられない!
この瞬間、俺が心の中で恥ずかしさに悶えていたことは内緒だ。
「お願いです、事務員さん。お弁当を渡すだけですから」
「い、いや、あああの、で、でも……き、決まりが……」
「十分もかかりません。ほんのすこしだけ、入校許可証を貸してくれるだけでいいんです……俺と事務員さん、ふたりだけの秘密を作っちゃいましょう?」
悪戯っぽくささやき、白々しい微笑みと共にウィンクをしてみせる。
その昔、キャサリンから『女性と親しくなりたかったら、秘密を共有しなさい。ワタシみたいなチョロい独身女が釣れるから……』と切なげな表情で教わったことがある。特別あつかいされると無条件で好意を抱いてしまう、ハード・トゥ・ゲット・テクニック、と呼ばれる心理だ。
この心理を応用して、事務員さんには職務を一時的に放棄してもらう!
事務員さんは規則をよく守る女性だが、同時に、部外者の俺に桜と秋樹のあだ名を口外してしまう程度にはルーズな一面も持ち合わせている——俺への好意を逆手に取り、秘密共有という特別あつかいをチラつかせれば、事務員さんが提案に乗ってくる可能性は高い。
まるで結婚詐欺師のような最低な思考回路だけれど……まあ、いまは無視するとして!
「どうですか? 事務員さん」
ダメ押しとばかりに、俺は窓口のカウンターに右手を置いた。
入校許可証を受け取ろうとしているようにも、彼女の手を握ろうとしているようにも見える形で。これ以上は攻めると引かれる可能性がある。あとは成り行きを見守るだけだ。
赤面したまま、俺の顔と手の平を交互に見やる事務員さん。
程なくして。唐突に、事務員さんが覚悟を決めたかのようにして唇を引き結び、フッ、と困ったような微笑を浮かべたかと思うと。
「まったく……わかりました。ふたりだけの秘密ですよ?」
と言って、入校許可証を手渡してくれたのだった。
ハニートラップ成功である! うれしいような、うれしくないような!
「ありがとうございます!」
「ただし、許可できるのは三十分だけです。その間に、桜さんにお弁当を」
「ええ、了解しました。恩に着ます!」
「……それで、あの」
「はい?」
意気揚々と受け取った許可証を首にさげていると、事務員さんが頬を赤らめて言った。
「両親への挨拶は、いつにします?」
「……はい?」
「ふ、ふたりだけの秘密を作りたいって、それはつまり、他人には言えないあんなことやこんなことをして、ゆくゆくは私と夫婦になりたいってことでしょう? なら、互いの両親への挨拶は早めにしておいたほうがいいんじゃないかな、って……こういうのは形式が大事ですから。ああでも、それなら式場の予約も済ませておいたほうが」
「えっと……あ、ああ! もうこんな時間だ! 早く桜に届けてやらないと!」
「あ……ち、ちょっと!」
窓口から顔を覗かせる事務員さんをよそに、「失礼します!」と口早に言い置いて、俺は校舎内に踏み入った。
秘密を作ろう、という誘いから、まさか婚姻の話にまで飛躍させるとは。
あの様子では、許可証の返却時にまたも飛躍した話をされかねない——事務員さんには申し訳ないが、帰りの際はこっそり許可証だけ窓口に置いて、俺は見つからぬように学校を脱出させてもらうことにしよう。
「……やっぱ、俺にハニートラップは合わないみたいだ」
つくづく、そう思った。