第二章 元スパイは桜に懐かれる。 2

 朝食を済ませた秋樹が二階に戻ると、入れ替わるようにして今度は夏海が降りてきた。

 キッチン前の俺に目もくれず、ヨタヨタと千鳥足でテレビ前のソファに向かい、仰向けに寝転がってしまう。

 秋樹がモデルの休日なら、こちらはおっさんの休日だった。

「あー……きもちわるっ、もう二度と酒なんか飲まねえ……」

「おはよう、夏海」

「あぁ? あー、うん、おはよーさん——って、お前だれ……って、クロウだなッ!?」

「言ってる途中で気づいてくれてうれしいよ」

 朝から慌ただしい思考回路である。

 ともあれ。俺は夏海の傍で屈み、コップに入れた水を差し出した。

「ほら、まずは水を飲め。あまりにも気持ち悪いようなら吐くのを手伝うぞ?」

「いや、そこまでじゃねえからいいよ……そうか、昨日、家政夫を雇って……ああ、そういやそうだったな。朝からイケメン見ると現実味がなくなるわ」

「いけめん?」

 どういった意味の日本語だったろうか? 基本的な日本語はマスターしているが、こうしたスラングのような単語まではまだ覚えきれていない。

 意味がわからず首をかしげていると、夏海がしまったとばかりに慌てて起き上がり。

「ち、ちげえよ! いまのはちげえからッ!! ただの言い間違いだから気にすんな!」

「そうか、間違いだったか」

「み、水サンキューな! ありがたくいただくぜ!」

 誤魔化すようにして水を奪い取り、ガブガブ飲み干していく夏海。

 この調子なら、二日酔いはそこまで悪くならなそうだ。

 コップが空になったところで、コップと取り換えるようにして俺は弁当箱を手渡した。

「え、なんだこれ?」

「昨夜のお詫びだ。夏海も今日は大学だろ? 昼食にでも食べてくれ。安心安全。痺れ薬なんて混入していない、ちゃんとした弁当だぞ」

「わけのわかんねえアピールが逆に怖えけど……うわ、マジか。普通にうれしい、ありがとな! あたし、弁当大好きなんだよ」

 二日酔いの辛さも忘れて、無邪気に喜ぶ夏海。すこし意外な反応だ。

「弁当が好きなのか? 珍しいな」

「珍しいかな? だって弁当だぜ? なんか遠足みてえでワクワクすんじゃん。だから、運動会のときとかもオカンの弁当がすげえ楽しみで——あ」

 そこまで話して、じっと見つめてくる俺の存在を思い出したのだろう。勢いよくソファから飛び起きると、夏海は弁当を抱えたままリビングを後にしてしまった。

「と、とにかく! ありがたくもらっとくわ! マジサンキューな、クロウ!」

「どういたしまして。慌てて食べて喉に詰まらせるなよ」

「そこまでガキじゃねえよ!」

 言いながら、夏海は騒がしく二階に戻っていった。

 さて。残るは桜のみだ。



 が。肝心の桜はなかなかリビングに降りてこなかった。

 秋樹が登校し、夏海が気怠げに家を出たあともなお、一階に降りてくる気配はない。

「……まだ寝ているのか?」

 時刻は午前八時十分。かな高校までの登校時間を考えると、遅刻ギリギリの時間だ。

 二階は三姉妹の領域なのであまり足を踏み入れたくはないんだが……ここは、家政夫として起こしに行くべきだろう。

 そう思い、階段に向かって歩を進め始めた、そのとき。

「——やばいやばいやばいやばい、ほんとにやばいッ!!」

 ドタドタドタ! 階段を踏み鳴らして、桜が全速力で一階に降りてきた。

 綺麗なセミロングの髪はボサボサで、制服も至る箇所が乱れに乱れてしまっている。

 起きて三十秒で支度しました、と言わんばかりの、それは雑な身なりだった。

 リビングにも寄らず玄関先に走る桜を追って、俺は弁当箱片手に話しかける。

「おはよう桜。聞いてくれ。実はな、今日は早起きしてみんなに痺れないコレを作——」

「ああ、クロウ! ゴメンね! ほんと時間ないから、用はまた帰ってからにして!」

「い、いや、帰ってからでは意味がな——」

「それじゃあ、いってきまーすッ!!」

 俺の言葉も馬耳東風。目にも留まらぬスピードで扉を開け、桜は出ていってしまった。

 台風のように騒々しい冬子の血縁者であることを、しみじみと実感した瞬間である。

「さすがは台風の娘……って、感心している場合ではない」

 このままでは、桜のために作った弁当が無駄になってしまう。

 なんとしてでも、桜に渡してやらねば!

「こうなったら直接、学校に届けるしかないな」


   □


 トートバッグに弁当を入れ、スーツの上着を颯爽と羽織ると、俺は家の駐車場に置いてあった自転車——別称ママチャリにまたがり、叶画高等学校目指してペダルを漕ぎだした。

 スーツでママチャリというのも、なんだかシュールな画である。

 このとき、すれ違う近所の主婦たちへの挨拶も忘れない。

 それは、葉咲家のイメージを下げないためでもあるし、元スパイとしての『悪癖』からでもあった。

 ……まあ、笑顔で挨拶するたび、主婦のみなさまがバタバタと倒れていくのが、すこし気がかりだったけれど。

「ん?」

 そうして住宅街を走行していた最中。叶画公民館の掲示板に、『みなさまへのご連絡』と題された張り紙があることに気づいた。この町に住む者として確認しないわけにはいかない。甲高いブレーキ音をあげて停車し、サッと張り紙の内容に目を通す。

「……ふむ」

 ここ最近、この町で不良たちが何度も目撃されている。よって、町内の治安維持のため、自治会管理の下、住宅街の電信柱に『防犯カメラ』を設置する、といった内容だった。

 こうしてわざわざ貼り出しているあたり、町民への理解は元より、その不良たちへの牽制も兼ねているのだろうが……そうか、そんなに治安が悪かったのか、この町は。

「まあでも、昼間からギャングが闊歩するあの国よりはマシだが」

 肩がぶつかっただけで拳銃を取り出す国も存在する。そこに比べれば日本は天国みたいなものだ。

 もちろん、そんな天国でも気をつけるに越したことはないけれど。



 十月下旬の冷たい風を切り裂き、狭い住宅街の道路を抜けて、四車線の大道路へ。

 朝から多くの車が忙しなく往来していた。海外で主流の右側通行ではなく左側通行なのはその昔、侍たちが刀を左腰に帯刀していたから、というのは本当なのだろうか? 日本の歴史の中でも侍好き、そして忍者好きの俺としては、実に興味深い情報である。

 スパイというのはある意味、忍者のワールド版みたいなところがあるしな。

「……っと、観光に来たわけではないんだった」

 大道路から視線を切り、いったん自転車を停めると、俺はポケットから一枚のメモを取り出した。依頼書に記載されていた叶画高校の住所を、紙媒体にメモしてきたのだ。

 電柱に記されている番地によると、この大道路を東へ向かえば到着するらしい。

「よし。待っていろ、桜」

 気合を入れなおし、俺は立ち漕ぎで自転車を走らせた。

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