第二章 元スパイは桜に懐かれる。 1
翌朝。朝もやが漂う午前六時。
冬間近の凍えた冷気を吸い込み、俺はリビングのソファから起き上がった。
間抜けなあくびをもらしつつ、就寝中ずっと右手に握りしめていたボールペンをコトン、とテーブルに置く。万が一、不法侵入者が現れたときのための防犯対策だ。
こんなチャチなボールペンでも、思い切り突き刺せば立派な凶器になる。元同僚の暗器使いのスパイに教わった知識だ。
まあ、正当防衛であれなんであれ、日本でそんなことをすれば過剰防衛などで一発逮捕なのだろうが……うん、使わずに済んでなによりである。
猫よろしく背骨を伸ばしたあと、緩慢とした動作で布団をたたみ、カーテンを開く。
「……むぅ」
網膜を焦がすまぶしい朝日に、思わず顔をしかめる。
脳の半分がまだ眠りに落ちていた。海外との時差の関係で、眠りが浅くなってしまったようだ。身体が猛烈に睡眠を求めている。
このままでは家事もままならない——そう思った俺は洗面所に向かい、眠気覚ましに思い切って頭に冷水をぶっかけた。
「~~ッ、な、なかなかにクールじゃないか……」
カチカチと歯を震わせながら、洗面台に突っ込んだ頭をひっこめ、蛇口を閉める。
思ったより冷たかった。やめておけばよかった。
冷たすぎて顔の筋肉がこわばっている。スパイは冷静沈着かつ大胆であれ、とはボスの言葉だが、これは思い切りがよすぎた。冷水で冷静を保てない。やめておけばよかった。
「き、今日はこのぐらいにしといてやる」
負け惜しみと共に濡れた髪をタオルで拭き、そそくさとリビングに戻る。
後悔ばかりの冷水目覚ましだったが、その甲斐あってか脳は完全に起きてくれたようで、先ほどまでの眠気は綺麗サッパリ消えていた。
時刻は午前六時二十分。
電線で揺れる小鳥と新聞配達のバイク音が響く中。俺はワイシャツの袖をめくり、意気揚々と台所に入った。
「よし。それでは——三姉妹の弁当作り、開始だ!」
言わずもがな、この弁当作りは汚名返上、昨日の三連続失敗を払拭するためのものだ。弁当を作り終わったら、三人分の朝食も用意する予定である。
家政夫であれば雇い主の食事を用意するのは当たり前だし、そもそも、それで三姉妹が俺を見直してくれる保証はないけれど、やらないよりは断然マシだろう。
「すこし安直すぎる気がしないでもないが……」
不安を抱えつつも、昨晩確認しておいた食材を冷蔵庫から取り出し、調理を開始する。
——料理とスパイの関係は根深い。
人間は、食事の瞬間に気を緩める。食物を口に頬張るとき、アルコールを摂取するとき……人間は、警戒心を解いて無防備になりやすい。
これは、隠れて食事をする動物の生態を見ても明らかだ。スパイはその本能的な『隙』を突き、様々な機密情報を盗み出す。
だから、スパイはよくパーティー会場などに潜入するのだ。食事と酒で緩んだ
スパイ映画で、スーツ姿のスパイがパーティーにまぎれ込む、なんて場面をたびたび目にするが……奇しくもあれは、現実のスパイを模した、理に適ったシーンなのである。
任務中に食事の機会がなさそうなときは、こちらで強引に食事を用意することもある。スパイの必須スキルのひとつに『料理』というのが含まれているが、これはその機会作りのためだ。
それほどまでに、食事というのはスパイにとって重要な行為なのである。
……と、まあ。
長々と語って、つまりなにが言いたいのかというと。
これといった特技も趣味もない俺だが、スパイの必須スキルのおかげで料理はそこそこできるんだぜ、ということが言いたいのだ!
「で、できた……」
陽射しが強まり始めた、午前七時十分。
ついに、三姉妹の弁当が完成した!
からあげ、春巻、ポテト、卵焼き、タコさんウィンナー、プチトマト、レタス、海苔を敷いたご飯……初回ということで、冷蔵庫にある食材をふんだんに詰め込んでみた。
半分は冷凍食品だが、これがなかなかにおいしそうな出来上がりになった。恐ろしい、自分の料理スキルが(倒置法)。
「食材を買い込んでいた冬子に感謝だ。足りなかったら真夜中にコンビニエンスストアへ行かなければならなかったからな……さて、次は朝食の用意を始めよう!」
三つの自信作を綺麗に布で包んだあと、弁当作りのゴミを捨て、朝食作りに入る。
それから十分ほど経った頃。午前七時二十分。
「んー……ねむい」
一番はじめに起きてきたのは、三女の
寝巻き姿のまま、フラフラと眠たげな顔でリビングに入ってくる。
三つ編みを解き、眼鏡も外しているせいで、まったくの別人のように見えた。
面接映像で見たときにも思ったが、やはり秋樹も美少女然とした顔立ちをしている。その豊満な体形と相まって、まるで美人モデルの休日のような風格があった。
俺は朝食の調理の手をとめ、台所から秋樹に声をかける。
「おはよう、秋樹。よく眠れたようだな」
「おはようごじゃいます……ん、え、だれ……?」
「ああ、眼鏡がないから見えないのか。俺だ、家政夫の野宮クロウだ」
台所を出て近寄りながらそう言うと、秋樹は目を凝らしてこちらを見つめた。直後、眠たげな半目を思いっきり開眼して、背筋をピンと伸ばした。
「~~ッ、あ、えっと、おはようございますッ! さ、昨晩は、わたしのような人間の胸部を押しつけてしまい、大変申し訳ございませんでした!!」
「いきなり謝罪ッ!? いや、俺のほうこそすまなかった。あのときは、もっと距離を空けて話すべきだったよ——それでな? 秋樹」
これ以上、昨夜の話を引きずっても、秋樹が委縮してしまうだけだ。
俺は早々に話を切り上げ、キッチンに戻ると、秋樹にあるものを手渡した。
温かなソレを手にした秋樹が、驚いた表情でこちらを見上げてくる。
「え……こ、これって」
「弁当だ。昨日のお詫びと言ってはなんだが、よかったら今日のお昼にでも食べてくれ」
「あ、ありがとうございます……え、本当にいいんですか?」
「もちろん。日本の子供が好きであろう食材を詰め込んだから、思う存分食べてくれ……まあ、日本人に合う味付けができたかどうかはすこし自信がないが、痺れるような心配は絶対にないから安心してくれ」
「わたしたちのために、お弁当を……」
と。驚いた顔を緩やかに氷解させていくと、秋樹はふんわりとやわらかな笑みをたたえ、弁当箱をそっと抱きしめた。
「ありがとうございます。大事に食べさせていただきます」
「ああ、残さず食べてくれ。残されると悲しくなるからな」
「ふふ。はい。それじゃあ悲しませないよう、ちゃんと食べきりますね」
「そうしてくれると助かる——さて、それじゃあ朝食にしよう。あともうすこしでできるから、テーブルに座って待っててくれ」
「はい。ありがとうございます」
素直にうなずいて、テーブルにつく秋樹。
朝食はまだだというのに、本能的に気が緩んでいるのか。秋樹の口はうれしそうに緩み、視線はずっと手元の弁当箱に向けられていた。