第二章 元スパイは桜に懐かれる。 8

 小林と別れ、やっとの思いで葉咲家に帰宅すると、時刻はすでに午後四時を回っていた。

 茜色に染まるリビングに足を踏み入れながら、そこでようやく俺は気づく。

「……しまった。昼食を食べていない」

 大村家で飴とクッキーはいただいたが、ちゃんとした昼飯は摂っていなかった。

 意識した途端、腹からグゥ、と情けない音が鳴り始めた。

「なにか軽くツマんでおくか……」

 言いながら冷蔵庫に歩を向けると、ガチャリ、とタイミングよく玄関の扉が開いた。

 鍵は締めていたから、開けられるのは俺以外に四人しかいない。

「た、ただいまー!」

「おかえりだ」

 果たして、帰宅してきたのは桜だった。

 走って帰ってきたのだろうか。ハァハァ、と肩で息をしている。その右手にはストローが差された飲みかけのカップが掴まれていた。

「ご、ゴメン! 待たせちゃったよね? スーパー行っちゃってない?」

「約束したんだから、ひとりで勝手に行くわけないだろう」

 大村家に行くイベントですこし忘れかけていたのは内緒だ。

「そ、そっか。ほんとゴメンね? 友達に色々説明するために学校近くの公園でタピってたら、思いのほか長引いちゃって……」

 申し訳なさそうな桜のそんな発言に、俺はすこしだけホッとする。

 彼女は『桜姫』という、ともすれば揶揄とも取れるようなあだ名をつけられている。

 ゆえに、周囲の生徒たちから疎まれ、敬遠されているのではないかと、今日の教室での騒動を経て密かに心配していたのだ。

 だが、彼女のこの様子を見る限り、その心配はなさそうだった。

 色々な説明というのは、もしかしなくとも俺に関することだろうから、そこは素直に申し訳ないとは思うけれど。

 さておき——そうした危惧を悟られぬよう話題そらしとして、俺は不可解な単語の意味を訊ねることに。

「タピって……すまない、それは日本語なのか?」

「え? ああ、そういえばクロウって外国のひとだったね。それじゃあ知らないか」

 言いながら靴を脱ぎ、こちらに歩み寄ってくると、桜は右手のカップをかかげた。

「この『タピオカミルクティー』を飲むことを『タピる』って言うのよ。だから『公園でタピってた』っていうのは、『公園でタピオカミルクティーを飲んでた』って意味。まあ、最近ではもうあんま使わない言葉だけどねー。そもそも、公園でタピオカミルクティー飲んでたのも、ものすごい久々にこれの露店を見かけたからだし」

「流行り廃りの言語なわけか……しかし、これまた面妖な日本語だな」

「面妖て」

「そのタピオカミルクティーはうまくないのか? 半分以上残っているようだが」

「ううん。おいしいよ? 普通においしいんだけど……これ、すごいカロリーが高くてお腹に溜まるのよ。これ一杯でラーメン一杯分のカロリーがあるんだって。ヤバくない?」

「ほほう。ラーメン一杯分」

 昼食にはちょうどいいカロリーだ。

「では、それはもう飲まないのか?」

「そうね。今日はもうちょっといいかなーって感じ。残りは冷蔵庫に保存して——」

「なら、遠慮なくいただこう」

 桜の言葉も途中に、俺はパクッ、と目の前のストローに口をつけた。

「んなぁッ!?」と驚きに目を見開く桜だったが、カップを下げるようなことはせず、俺が飲み終わるまでの間、程よい位置で固定していてくれた。

 傍から見ると、なんだか餌付けのように見えなくもない。

「——ぷはっ。うむ、急に粒が押し寄せてくる感覚がいまいち慣れないが、味はなかなかうまいじゃないか」

「そ、そう? なら、よかったわ……うん」

「? どうした、桜」

「いや、えっと……か、間接だな、って」

「関節?」

 格闘技のサブミッションの話か?

「な、なんでもない! 鞄置いてくるから、ちょっと待ってて!」

 慌てて空のカップを俺に押しつけ、二階に駆け上がっていく桜。

 なぜか耳まで真っ赤だったが……まあ、おそらくここまで走ってきたせいなのだろう。

 俺は空の容器を洗い、ゴミ箱に捨てると、スーパーに行く準備を始めた。



「……なあ、桜」

「ん、なに?」

「いまのスーパーでもダメなのか? これでもう三軒通り過ぎていることになるが……」

「だ、ダメよ。知り合いに会っちゃうかもしれないでしょ? 友達にクロウと歩いているところを見られたりでもしたら、今度こそ誤魔化せなくなっちゃう」

「……なら、どうして俺と一緒にスーパーに行きたいなどと?」

「そ、それは……」

「そもそも、桜の買いたいものというのはいったい何なんだ? 若い女子高生がスーパーで買いたい代物など、俺には想像がつかんが」

「……う」

「う?」

「う、うるさいうるさーいッ!! 友達には見られたくないし、買いたいものも実はないけど、その、なんか散歩したい気分だったのよ! クロウにはそのボディーガード役としてついてきてもらっただけ! なんか文句あるッ!?」

「い、いや、文句はないが……」

「じゃあそれでいいじゃない! この話は終わり! ほら、いいから行くわよ!」

 そう強引に言い放って、怒りのせいかなんなのか、桜は顔を赤らめて歩く速度を速める。

 学校で言っていたこととはチグハグというか、だいぶ矛盾してしまっている気がするが……どうあれ、俺は雇い主の命令に従うだけだ。

 それに、この叶画市の地理を把握する目的だと考えれば、遠出の散歩も悪くない。まあ、散歩にしてはあまりに長距離にすぎるけれど。

 そうして。

 四軒目、五軒目のスーパーも通り過ぎ、六軒目のスーパーにたどり着いた頃には、俺たちは叶画市の隣、おりふで市の郊外にまで足を伸ばしていた。

「うん、ここならさすがに誰も来ないかな? ここにしましょう、クロウ」

「了解だ。無駄にいいウォーキングをしたから、今夜はおいしい夕飯を作れそうだ」

「なにか言った?」

「いえなにも」

 白々しく答えて、自動ドアの横に積まれた買い物カゴを取り、店内に入っていく。

 何気に、日本のスーパーに来るのはこれがはじめてだった。

 海外のソレよりは手狭だが、並んでいる食材はどれも高品質だと一目でわかる。日本の食に関する衛生面は世界トップレベルだと聞いていたが、どうやらそれは真実のようだ。

 と。艶のある青果を眺めていると、桜が「ねえねえ」とこちらの顔を覗き込んできた。

「今夜はなにを作るつもりなの?」

「まだ決めていない。桜はなにが食べたい?」

「そうねえ……昨日カレーだったから、サッパリしたものがいいかな?」

「サッパリか。では、白身魚のフライなどはどうだ?」

「わあ、おいしそう! それでいこー!」

「了解した。では、白身魚を物色しに行こう」

 スキップまじりの桜と共に、鮮魚コーナーに向かう。

 白身魚にも色々あるが、真っ先に目についたのがタラだったので、タラをカゴに放る。

「あとはタルタルソースの材料か……、あ」

 そこまで考えたところで、大事なサラダを買い忘れていることに気づいた。

 昨今の日本では、若者の大腸に関する病気が増大しているという。その一因として野菜摂取不足が関連しているのだそうだ。

 三姉妹の健康管理も一任されている身として、食卓のサラダを欠かすことは許されない。

「桜。すまないが、青果コーナーに戻ってレタスとトマトを持ってきてくれないか? できるだけ色と艶のいいものを頼む」

「任せたまへー」

 俺に付き添うだけで暇だったのだろう。気怠げだった背筋をピシッと伸ばし、小走りで青果コーナーに戻っていく桜。自分で言い出してついてきた買い出しなのに暇そうにするとは、これいかに。

(……もしかして桜の奴、俺と一緒にいたかっただけなのでは?)

 なんて、すこし自意識過剰気味なことを考えていると、目の前のお惣菜コーナーに手をつないでいる親子連れが見えた。

 母親と子供。しっかりと手をつないだまま離れないように歩き、商品を見て回っている。

 ……ふむ、なるほど。

 微笑ましくありながらも、実に効率的な買い物方法だ。

 そこへ、タイミングよく「ただいまー」と桜が隣に帰ってきた。

「レタスとトマト、持ってきたわよ。買い物カゴにドサドサー……って、どうしたの? クロウ。私の顔じっと見ちゃって」

「桜。手を出してくれ」

「? こう?」

 無防備に差し出された左手を、俺は自身の右手でしかと握りしめた。

「んなッ……え、はあぁッ!?」

「先ほど親子連れがこうしていたんだ。これなら、同行者がさらわれる心配もなく買い物ができる。実に効率的だろ?」

 スパイが最も怖れる事態は、依頼主を敵にさらわれることだ。任務失敗の危機にもつながるし、なにより、依頼主が俺たち組織の情報を漏洩する危険性がある。可能であれば、依頼主には依頼直後から金庫の中にでも隠れていてほしいほどだ。

 さておき。図らずも、これで桜の望んだボディーガード役を果たせる、というわけだ。

 まあ、しつこく言うように、俺はもうスパイではないのだけれど。

「い、いや……でも、これじゃあまんまカップル……」

「では、買い出しを再開しようか。桜」

 買い物カゴに野菜が追加されたことを確認して、ソースの材料集めに店内を回る。

 つないだ桜の手は温かく、まるで熱でもあるかのような高温だった。事実、うつむいた桜の耳元は、店内の暖房のせいじゃない、うっすらと朱色に染まってしまっていた。

 と。その最中。

「……えへへ。まあでも、これはこれで」

 桜はひどくうれしそうにそうつぶやき、手を握る力をキュッ、と強めてきた。

 そこまで強く握らずとも、俺が桜を離すことなどないというのに。意外と心配性な奴だ。

 しかしまあ——はじめて会った昨日に比べ、随分と懐かれたものである。

 もしかしたら桜は、子供の頃からこんな風に人懐っこい女の子だったのかもしれないな。

 なんて、好々爺よろしく頬を緩めた、その直後だった。

 俺の背中に突き刺すような、抜身のあの感覚が去来した。

「ッ——、……」

「どうしたの? クロウ。買い忘れ?」

「……いや、なんでもない」

 辺りを入念に見回すが、それらしき人影はない。俺は視線を切り、桜の手を引いていく。

 まさか、な。


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試し読みは以上です。


続きは2020年12月1日(火)発売

『元スパイ、家政夫に転職する』

でお楽しみください!


※本ページ内の文章は制作中のものです。実際の商品と一部異なる場合があります。

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