二章 小さな客人 二



 女の子は、佐名が寝かされていたとんに寝かせた。茶釜は不満そうで、布団が汚れるとか臭いが移るとか文句を言っていたが、聞かないことにした。

 女の子はねむり続けた。

 その間に佐名は、茶釜に案内されて家の中を見て回った。

 家は大きなおもと、それにつながった蔵が一つ。周囲はついべいに囲われている。

 長いえんがわから庭を見れば、真冬だというのに花がいていた。築地塀の近くには菜の花と桜が咲いているかと思えば、少し離れた場所には紫陽花あじさい、山法師、そして朝顔。さらに別の一角に目を移せば、きようが咲いているといった案配で、四季折々の花が一気に咲いている不可解さ。

 さらに不可解だったのは、築地塀の向こう側だ。ぼんやりと、浅草凌雲閣のせんたんやその足元に並ぶ家並みなど、浅草の風景らしいものは見えるのだが、全体的にうすあおもやがかかっていて、景色そのものがらぎ、まるでしんろうを見ているようなのだ。

 屋敷内の柱時計は三時をさしていた。堂島邸からげ出して、丸一日っているわけはないので、おそらく夜中の三時。それなのに浅草の景色が、青い靄に包まれ揺らいでいるとは言え、くらやみしずみもせずに見えているのがせない。ただ青い靄を通しても凌雲閣の上空に目をやれば、ほんのりと星のまたたきが見える。

 視線を頭の上にまで引きもどせば、佐名のいる家の上だけは真っ黒な夜空。するどい星の光はあざやかだ。

「わたし、こんな家に住んでたの?」

 揺らぐ浅草の景色を見つめてこんわくする。

 幼いころおくはおぼろげで、家のおくしきでビー玉遊びをしていたことしか、はっきり覚えていない。

「そうみたいですよ。僕は知りませんけど、くさどうの青紀様が、そう言ってました」

 足元で茶釜が答えた。

「お母さん、どうしてこんな所に住んでたんだろう」

 母親は何者だったのか。忽那青紀と知り合いだったのだろうか。そもそも彼は、なぜ佐名をこの家にさらってきて、主になれなどと命じるのか。十五年前は血まみれの姿で、佐名におそいかかってきたのに。

 行方ゆくえの知れない母親にくことはできないので、青紀に訊くしかないだろう。

 家の中を見て回ったが、一部屋、青紀の使っているらしい小さなしきがあった。

 六じようの質素な座敷にはづくえがあり、げん稿こう用紙と万年筆が転がっていた。そこで佐名は、書きかけの原稿を手に取った。原稿の文体は、佐名の知っている忽那青紀のもの。しかもそれは新聞れんさいの続きで、佐名が知っている物語の先。

 あのあやかしは、忽那青紀本人にちがいない。

(人気作家が、あやかしなんて)

 作家には個性的な人が多いと聞くが、まさかあやかしまで交じっているとは。

 笑うに笑えない。

 ためいきを一つく。何はともあれ、保護した女の子を回復させて、安全な場所に連れて行く。それが今の最大の目的だ。

「目が覚めたら、まず、あの子にご飯を食べさせてあげないと」

「お料理なら僕がしますけど、材料を買いに出ないといけません。ご主人様、いつしよに買い物に行ってください。僕、人間のお金の価値がよくわからなくて」

 おどろいて茶釜を見下ろす。

「わたし、買い物に出ていの?」

「ぽん」

「忽那青紀は、家の外に出たら喰ってやるって」

「あれは、逃げようとしたら喰うぞっていうおどしです。外へ出ても、帰ってくるなら平気です。今、青紀様は外出中ですし」

「買い物ついでに、わたしがそのまま逃げ出したら?」

「そしたら帰宅した青紀様に、僕は腹いせに喰われます」

 尻尾しつぽがしゅんとしぼむので、あわてた。

「逃げない! 逃げないから」

 眠り続けている幼い女の子と、喰われるだぬきを置いて、いくらなんでも逃げ出せない。

 逃げないと約束すると茶釜は安心したようで、柱時計が七時をさすのを合図にして、お勝手に行って買い物に出る準備を始めた。

 お勝手は広い土間になっていて、かまどが二つありもあった。

 茶釜は買い物用のとうかごを持ち出し、しきさいを入れる。それから後ろ足で立ち上がり、くるっと後方へ宙返り。ぽんっと小気味良い音がすると、そこには七つくらいの男の子が立っていた。綿めんの着物はすねから下が出ていて寒そうだが、なぜか首には、ふかふかの狸の毛皮のえりきがついている。

「襟巻きは不自然じゃないかな。それ、とったら?」

 子狸の変身能力には驚いたが、人間の子どもとしてはみような格好だ。しかし茶釜はおびえた顔をする。

「おそろしいこと言わないでください。とれません。これ、僕の尻尾です」

「そこに尻尾?」

「ちょっと、おさめきれなくて」

「うん、まあ。じゃあ仕方ないか」

 家を出るときに座敷をのぞくと、女の子はよく眠っていた。

 こうの外は昨夜ゆうべと同じくにじんだ景色。茶釜がおそれげもなくとことこ出て行くので、佐名も籐籠を手にげて、ついていく。

 一歩しきから外へ出ると、ぞうの足元にふわっと青い靄が立つ。気にせず歩を進めると、数歩先に細い格子の戸がつけられた小さなむねもん

 門をくぐると、ふっと空気のかおりが変わり、とつぜん、ざわざわとざつとうの音が耳に入る。

 佐名と茶釜は、浅草の七區辺りとおぼしき、寺の本堂裏の墓地と、長屋の裏塀にはさまれた場所に立っていた。墓地の向こうには商店が並んでいるらしく、その辺りから人の声や往来の物音がひびく。

 路面電車のベルが聞こえた。視線をめぐらせると、南の方向には浅草凌雲閣の先っぽが見える。

 ふり返ってみると、出てきた棟門。路地の行き止まりに家の出入り口があるらしい。

(家の門を出たたんに、変な感じがした)

 かんの正体がわからないままに、茶釜にせかされて商店が集まるかいわいへ向かう。

「あの子に何を食べさせてあげようか」

 茶釜に相談すると、子どもに化けた子狸は、考え深げにうでを組む。

「そうですねぇ。つかれてるみたいなんで、ぎとぎと、ぎらぎらしたものは、美味おいしく食べられないでしょうから。消化が良くて、温かいものが」

ぞうすいかな」

「卵としらすの雑炊にしましょうか。しらすがあるんです。卵と三つ葉があれば。あと、そくせきけなんかをえたら」

しゆんだから、即席漬けは白菜か大根か。ゆずの皮を刻んで入れたら」

「柚は家の裏に植えてあるのでちょうど良いです。じゃあ、まず八百屋さんですね」

 うきうきとねるように歩く茶釜と一緒に、八百屋へ向かう。寒かったがよく晴れていて、気持ちが良い日だった。

うそみたいだ)

 八百屋の主人の景気よいかけ声を聞きながら、晴れた空を見上げた。

 異形の者に出会い、不可解な家に連れて行かれて、まるで悪夢の中にいるような心地ここちだったが。お日様の光の下に出て日常の空気にれていると、重苦しい気分が去って、自分の置かれているじようきようじゆんすいに不思議でたまらなくなる。今こうやって落ち着いた気分で野菜を選んでいるということが、最も不可解と言えば不可解だ。

 十五年間の、筒乃屋で過ごしたほうこう人としての生活とあまりに違う。

 悪夢の一晩をけ出したら、明るい色のめいせんを身につけ、のんびり買い物ができる身分になっているとは。このおだやかさこそがみようこの上ない。

 視線を感じた。茶釜はしんけんに大根を選んでいる。だれだろうと思い周囲を見回すと、道路を挟んだ反対側の歩道に、すみめのころもを見つけた。

(あれは、あのときの)

 右目下の泣きぼくろが印象的な、昨夕そうぐうした若いそうりよだ。

 あのときは佐名に手をさしのべようとしていたふうに見えたが、今、彼が見つめてくる目にはけいかいしんが見て取れた。油断ならない者をかんするように。

こわい目)

 友好的な色ではない。

 八百屋で三つ葉と白菜、大根を買った後、生卵を買うために店を移動した。僧侶は道路を挟んだ向こうの歩道を、佐名と茶釜を追うようについてきた。

 卵を買い終わってから、茶釜がうれしそうに鼻をひくひくさせる。

「ご主人様、今川焼きを買って帰りましょう。僕、あんこ大好き」

「わたしも好きだけど、早く帰った方が良いかも」

 茶釜の背に手を当て、急ぎ足で歩む。

「どうしたんです」

「よくわからないけど。おぼうさんに、つけられてるかもしれない」

「え?」

 きょろきょろと茶釜が視線を巡らしていると、ふいに横合いから出てきた男とぶつかりそうになった。

「すみません」

 茶釜のかたいて引き寄せ謝ると、相手の男はにっと笑う。

「や、すまんすまん。俺こそ、申し訳ない」

 くせのあるまえがみが、毛織りの鳥打ちぼうからはみ出していた。若い男だ。フランネルのガンクラブチェックの上着。勤め人でも役人でもなさそうだが、商売人という感もない。いて言うなら遊び人か。がらが悪そうに見えるのは、口のはじに火のついていない、ちびたかみまき煙草たばこくわえているからだろう。

「今日はさすがにかけしたじゃねぇなぁ、おじようさん」

「お嬢さん」という声には聞き覚えがあった。昨日、大通りをげる佐名に、「おい、お嬢さん。どうしたんだよ」とかけられた声。その声と同じだ。

 昨日声をかけてきた男と、今日もぐうぜん出会う。そんな都合の良いことを佐名は信じない。

(この人、何者)

 茶釜を背後にかばう。

「どちら様ですか」

「そう、警戒しなさんな。あやしい者じゃないから。ほれ」

 彼が胸ポケットから取り出したのはめい。受け取ると、そこにはこう書かれていた。

 たんてい かつらがわりゆうすけ

「……………………探偵」

 職業がとつすぎる。佐名は名刺をき返す。

「めちゃくちゃ怪しいです」

「ひでぇなぁ、おい」

 言いながら男、桂川龍介は、突き返された名刺を胸にしまう。

「俺は忽那青紀にたのまれて、あんたの居所をさがしてやったんだぜ。ちゃあんとほうしゆうも頂いた。あんたを忽那青紀に引き合わせてやった、いわば恩人だ。そうじゃなきゃあんたは、妻五人殺しの堂島琢磨のよめになって、六人目のがいしやになってただろうよ」

「探偵さんに頼んでまで捜してた?」

 そこまでしゆうねん深く佐名を捜していたのもおどろきだったし、あやかしである彼が、人間の手を借りなければならなかったというのも意外な驚きだった。あやかしもばんのうではないのだろう。

「昔から捜しているが、手がかりがないってことでね。俺をたよったわけさ。忽那先生はあんたを捜し出して、近くに置くんだと言ってたよ。でもって特別ゆうしゆうな俺が、見つけてやったわけ。ただあんたを見つけたのがけつこん式の前日でね。いちおう先生には知らせたが、あんたにせつしよくできやしねぇ。こりゃ、どうしようかと思ってるうちに、あんたは堂島ていに入っちまうし。堂島に入ったら死んだも同然じゃねぇか。俺も忽那先生の手前、ちょっとあせったんだが」

 そこで龍介は、にやりと口の端をつり上げた。

「まさか、結婚式直前に逃げ出すとはおそれいった。あの後、忽那先生と落ち合ったんだろう? 俺の知らない間に、事前に示し合わせたんだな。そもそもあんた、忽那先生の何だい」

「わたしは、あの人の何でもありません。示し合わせてもいません。わたしは、わたしの意志で逃げ出したんです。それで、恩人の優秀な探偵さんが何のご用ですか」

「別にたいしたことじゃない。あんた今は忽那青紀といつしよにいるんだろう。やつの家の場所を教えてくれないかな」

「探偵さんなら、流行作家の家くらい知ってるでしょう」

「それが、わからないのさ」

 にやにやしている彼の目に、油断ならない光がともる。

「高名な作家先生なのに、あいつの家は、出版社の編集者だって知らないんだよ」

「それを知ってどうするんです」

「あんたには関係ないことだ」

 茶釜が佐名のそでを引く。

「ご主人様」

 不安そうな声。

 忽那青紀はあやかしだし、佐名をさらったのだから、別に義理立てするわれはない。ただこの桂川龍介なる探偵が、あやかし以上にめんどうな人間でないとは言い切れない。

(面倒と言えば)

 ちらりと佐名は、道の向こう側を見る。そこには僧侶の姿。立ち止まってこちらを見ている様子から、ちがいなく佐名と茶釜を追っているとわかった。

 僧侶と探偵。みような人間に目をつけられているものだ。

 佐名はそろりと茶釜の体を抱き寄せ、身をかがめささやく。

「逃げよう、茶釜。走るわ」

 うなずいたのをかくにんし、佐名は茶釜の手をにぎってけだした。

「おい!」

 桂川龍介のわきをすり抜け、走る。視界の端で、若い僧侶も駆けだしたのを認めた。

(逃げ切れる!?)

 まともに走っているだけではすぐに追いつかれるので、路地に入り、彼らをまこうと試みる。しかし男の足は速い。ぐんぐん追いつかれていると感じた。

(どうしよう)

 焦ったそのとき、佐名が手を引いていた茶釜がぴょんとね、前に出て、今度は佐名を引っ張るように走った。足元にふわっと青いもやが見えた。ふり返ると町の音が遠い。

 また視線を前にもどすと、いつの間にか家のむねもんの前にまで来ていた。

 歩調をゆるめ、茶釜ががおでふり返る。

「良かった。逃げ切りましたね」

「うん。ありがとう、茶釜」

 門の内側に入ると、茶釜は宙返りしてだぬきの姿に戻った。

 茶釜が道案内をしてくれたから、逃げ切れた。それにしてもよく簡単に、大の男を二人もり切れたものだ。しき内に入ると立ち止まり、あがる息を整えた。

 門の向こうを見て不安な気持ちになった。

 あの僧侶は何者か。

 そして探偵だという桂川龍介という男は、何を目的にして忽那青紀の家を探しているのか。

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