女の子は、佐名が寝かされていた布団に寝かせた。茶釜は不満そうで、布団が汚れるとか臭いが移るとか文句を言っていたが、聞かないことにした。
女の子は眠り続けた。
その間に佐名は、茶釜に案内されて家の中を見て回った。
家は大きな母屋と、それにつながった蔵が一つ。周囲は築地塀に囲われている。
長い縁側から庭を見れば、真冬だというのに花が咲いていた。築地塀の近くには菜の花と桜が咲いているかと思えば、少し離れた場所には紫陽花、山法師、そして朝顔。さらに別の一角に目を移せば、桔梗が咲いているといった案配で、四季折々の花が一気に咲いている不可解さ。
さらに不可解だったのは、築地塀の向こう側だ。ぼんやりと、浅草凌雲閣の先端やその足元に並ぶ家並みなど、浅草の風景らしいものは見えるのだが、全体的に薄青い靄がかかっていて、景色そのものが揺らぎ、まるで蜃気楼を見ているようなのだ。
屋敷内の柱時計は三時をさしていた。堂島邸から逃げ出して、丸一日経っているわけはないので、おそらく夜中の三時。それなのに浅草の景色が、青い靄に包まれ揺らいでいるとは言え、暗闇に沈みもせずに見えているのが解せない。ただ青い靄を通しても凌雲閣の上空に目をやれば、ほんのりと星の瞬きが見える。
視線を頭の上にまで引き戻せば、佐名のいる家の上だけは真っ黒な夜空。鋭い星の光は鮮やかだ。
「わたし、こんな家に住んでたの?」
揺らぐ浅草の景色を見つめて困惑する。
幼い頃の記憶はおぼろげで、家の奥座敷でビー玉遊びをしていたことしか、はっきり覚えていない。
「そうみたいですよ。僕は知りませんけど、腐れ外道の青紀様が、そう言ってました」
足元で茶釜が答えた。
「お母さん、どうしてこんな所に住んでたんだろう」
母親は何者だったのか。忽那青紀と知り合いだったのだろうか。そもそも彼は、なぜ佐名をこの家にさらってきて、主になれなどと命じるのか。十五年前は血まみれの姿で、佐名に襲いかかってきたのに。
行方の知れない母親に訊くことはできないので、青紀に訊くしかないだろう。
家の中を見て回ったが、一部屋、青紀の使っているらしい小さな座敷があった。
六畳の質素な座敷には文机があり、原稿用紙と万年筆が転がっていた。そこで佐名は、書きかけの原稿を手に取った。原稿の文体は、佐名の知っている忽那青紀のもの。しかもそれは新聞連載の続きで、佐名が知っている物語の先。
あのあやかしは、忽那青紀本人に違いない。
(人気作家が、あやかしなんて)
作家には個性的な人が多いと聞くが、まさかあやかしまで交じっているとは。
笑うに笑えない。
溜息を一つ吐く。何はともあれ、保護した女の子を回復させて、安全な場所に連れて行く。それが今の最大の目的だ。
「目が覚めたら、まず、あの子にご飯を食べさせてあげないと」
「お料理なら僕がしますけど、材料を買いに出ないといけません。ご主人様、一緒に買い物に行ってください。僕、人間のお金の価値がよくわからなくて」
驚いて茶釜を見下ろす。
「わたし、買い物に出て良いの?」
「ぽん」
「忽那青紀は、家の外に出たら喰ってやるって」
「あれは、逃げようとしたら喰うぞっていう脅しです。外へ出ても、帰ってくるなら平気です。今、青紀様は外出中ですし」
「買い物ついでに、わたしがそのまま逃げ出したら?」
「そしたら帰宅した青紀様に、僕は腹いせに喰われます」
尻尾がしゅんと萎むので、慌てた。
「逃げない! 逃げないから」
眠り続けている幼い女の子と、喰われる子狸を置いて、いくらなんでも逃げ出せない。
逃げないと約束すると茶釜は安心したようで、柱時計が七時をさすのを合図にして、お勝手に行って買い物に出る準備を始めた。
お勝手は広い土間になっていて、竈が二つあり井戸もあった。
茶釜は買い物用の籐籠を持ち出し、風呂敷と財布を入れる。それから後ろ足で立ち上がり、くるっと後方へ宙返り。ぽんっと小気味良い音がすると、そこには七つくらいの男の子が立っていた。木綿の着物は脛から下が出ていて寒そうだが、なぜか首には、ふかふかの狸の毛皮の襟巻きがついている。
「襟巻きは不自然じゃないかな。それ、とったら?」
子狸の変身能力には驚いたが、人間の子どもとしては妙な格好だ。しかし茶釜は怯えた顔をする。
「おそろしいこと言わないでください。とれません。これ、僕の尻尾です」
「そこに尻尾?」
「ちょっと、おさめきれなくて」
「うん、まあ。じゃあ仕方ないか」
家を出るときに座敷を覗くと、女の子はよく眠っていた。
格子戸の外は昨夜と同じく滲んだ景色。茶釜が恐れげもなくとことこ出て行くので、佐名も籐籠を手に提げて、ついていく。
一歩敷居から外へ出ると、草履の足元にふわっと青い靄が立つ。気にせず歩を進めると、数歩先に細い格子の戸がつけられた小さな棟門。
門をくぐると、ふっと空気の香りが変わり、突然、ざわざわと雑踏の音が耳に入る。
佐名と茶釜は、浅草の七區辺りとおぼしき、寺の本堂裏の墓地と、長屋の裏塀に挟まれた場所に立っていた。墓地の向こうには商店が並んでいるらしく、その辺りから人の声や往来の物音が響く。
路面電車のベルが聞こえた。視線を巡らせると、南の方向には浅草凌雲閣の先っぽが見える。
ふり返ってみると、出てきた棟門。路地の行き止まりに家の出入り口があるらしい。
(家の門を出た途端に、変な感じがした)
違和感の正体がわからないままに、茶釜にせかされて商店が集まる界隈へ向かう。
「あの子に何を食べさせてあげようか」
茶釜に相談すると、子どもに化けた子狸は、考え深げに腕を組む。
「そうですねぇ。疲れてるみたいなんで、ぎとぎと、ぎらぎらしたものは、美味しく食べられないでしょうから。消化が良くて、温かいものが」
「雑炊かな」
「卵としらすの雑炊にしましょうか。しらすがあるんです。卵と三つ葉があれば。あと、即席漬けなんかを添えたら」
「旬だから、即席漬けは白菜か大根か。柚の皮を刻んで入れたら」
「柚は家の裏に植えてあるのでちょうど良いです。じゃあ、まず八百屋さんですね」
うきうきと跳ねるように歩く茶釜と一緒に、八百屋へ向かう。寒かったがよく晴れていて、気持ちが良い日だった。
(嘘みたいだ)
八百屋の主人の景気よいかけ声を聞きながら、晴れた空を見上げた。
異形の者に出会い、不可解な家に連れて行かれて、まるで悪夢の中にいるような心地だったが。お日様の光の下に出て日常の空気に触れていると、重苦しい気分が去って、自分の置かれている状況が純粋に不思議でたまらなくなる。今こうやって落ち着いた気分で野菜を選んでいるということが、最も不可解と言えば不可解だ。
十五年間の、筒乃屋で過ごした奉公人としての生活とあまりに違う。
悪夢の一晩を抜け出したら、明るい色の銘仙を身につけ、のんびり買い物ができる身分になっているとは。この穏やかさこそが奇妙この上ない。
視線を感じた。茶釜は真剣に大根を選んでいる。誰だろうと思い周囲を見回すと、道路を挟んだ反対側の歩道に、墨染めの衣を見つけた。
(あれは、あのときの)
右目下の泣きぼくろが印象的な、昨夕遭遇した若い僧侶だ。
あのときは佐名に手をさしのべようとしていたふうに見えたが、今、彼が見つめてくる目には警戒と不審が見て取れた。油断ならない者を監視するように。
(怖い目)
友好的な色ではない。
八百屋で三つ葉と白菜、大根を買った後、生卵を買うために店を移動した。僧侶は道路を挟んだ向こうの歩道を、佐名と茶釜を追うようについてきた。
卵を買い終わってから、茶釜が嬉しそうに鼻をひくひくさせる。
「ご主人様、今川焼きを買って帰りましょう。僕、あんこ大好き」
「わたしも好きだけど、早く帰った方が良いかも」
茶釜の背に手を当て、急ぎ足で歩む。
「どうしたんです」
「よくわからないけど。お坊さんに、つけられてるかもしれない」
「え?」
きょろきょろと茶釜が視線を巡らしていると、ふいに横合いから出てきた男とぶつかりそうになった。
「すみません」
茶釜の肩を抱いて引き寄せ謝ると、相手の男はにっと笑う。
「や、すまんすまん。俺こそ、申し訳ない」
癖のある前髪が、毛織りの鳥打ち帽からはみ出していた。若い男だ。フランネル生地のガンクラブチェックの上着。勤め人でも役人でもなさそうだが、商売人という感もない。強いて言うなら遊び人か。がらが悪そうに見えるのは、口の端に火のついていない、ちびた紙巻煙草を咥えているからだろう。
「今日はさすがに掛下じゃねぇなぁ、お嬢さん」
「お嬢さん」という声には聞き覚えがあった。昨日、大通りを逃げる佐名に、「おい、お嬢さん。どうしたんだよ」とかけられた声。その声と同じだ。
昨日声をかけてきた男と、今日も偶然出会う。そんな都合の良いことを佐名は信じない。
(この人、何者)
茶釜を背後にかばう。
「どちら様ですか」
「そう、警戒しなさんな。怪しい者じゃないから。ほれ」
彼が胸ポケットから取り出したのは名刺。受け取ると、そこにはこう書かれていた。
探偵 桂川龍介
「……………………探偵」
職業が突飛すぎる。佐名は名刺を突き返す。
「めちゃくちゃ怪しいです」
「ひでぇなぁ、おい」
言いながら男、桂川龍介は、突き返された名刺を胸にしまう。
「俺は忽那青紀に頼まれて、あんたの居所を捜してやったんだぜ。ちゃあんと報酬も頂いた。あんたを忽那青紀に引き合わせてやった、いわば恩人だ。そうじゃなきゃあんたは、妻五人殺しの堂島琢磨の嫁になって、六人目の被害者になってただろうよ」
「探偵さんに頼んでまで捜してた?」
そこまで執念深く佐名を捜していたのも驚きだったし、あやかしである彼が、人間の手を借りなければならなかったというのも意外な驚きだった。あやかしも万能ではないのだろう。
「昔から捜しているが、手がかりがないってことでね。俺を頼ったわけさ。忽那先生はあんたを捜し出して、近くに置くんだと言ってたよ。でもって特別優秀な俺が、見つけてやったわけ。ただあんたを見つけたのが結婚式の前日でね。いちおう先生には知らせたが、あんたに接触できやしねぇ。こりゃ、どうしようかと思ってるうちに、あんたは堂島邸に入っちまうし。堂島に入ったら死んだも同然じゃねぇか。俺も忽那先生の手前、ちょっと焦ったんだが」
そこで龍介は、にやりと口の端をつり上げた。
「まさか、結婚式直前に逃げ出すとは畏れいった。あの後、忽那先生と落ち合ったんだろう? 俺の知らない間に、事前に示し合わせたんだな。そもそもあんた、忽那先生の何だい」
「わたしは、あの人の何でもありません。示し合わせてもいません。わたしは、わたしの意志で逃げ出したんです。それで、恩人の優秀な探偵さんが何のご用ですか」
「別にたいしたことじゃない。あんた今は忽那青紀と一緒にいるんだろう。奴の家の場所を教えてくれないかな」
「探偵さんなら、流行作家の家くらい知ってるでしょう」
「それが、わからないのさ」
にやにやしている彼の目に、油断ならない光が灯る。
「高名な作家先生なのに、あいつの家は、出版社の編集者だって知らないんだよ」
「それを知ってどうするんです」
「あんたには関係ないことだ」
茶釜が佐名の袖を引く。
「ご主人様」
不安そうな声。
忽那青紀はあやかしだし、佐名を無理矢理さらったのだから、別に義理立てする謂われはない。ただこの桂川龍介なる探偵が、あやかし以上に面倒な人間でないとは言い切れない。
(面倒と言えば)
ちらりと佐名は、道の向こう側を見る。そこには僧侶の姿。立ち止まってこちらを見ている様子から、間違いなく佐名と茶釜を追っているとわかった。
僧侶と探偵。妙な人間に目をつけられているものだ。
佐名はそろりと茶釜の体を抱き寄せ、身をかがめ囁く。
「逃げよう、茶釜。走るわ」
頷いたのを確認し、佐名は茶釜の手を握って駆けだした。
「おい!」
桂川龍介の脇をすり抜け、走る。視界の端で、若い僧侶も駆けだしたのを認めた。
(逃げ切れる!?)
まともに走っているだけではすぐに追いつかれるので、路地に入り、彼らをまこうと試みる。しかし男の足は速い。ぐんぐん追いつかれていると感じた。
(どうしよう)
焦ったそのとき、佐名が手を引いていた茶釜がぴょんと跳ね、前に出て、今度は佐名を引っ張るように走った。足元にふわっと青い靄が見えた。ふり返ると町の音が遠い。
また視線を前に戻すと、いつの間にか家の棟門の前にまで来ていた。
歩調を緩め、茶釜が笑顔でふり返る。
「良かった。逃げ切りましたね」
「うん。ありがとう、茶釜」
門の内側に入ると、茶釜は宙返りして子狸の姿に戻った。
茶釜が道案内をしてくれたから、逃げ切れた。それにしてもよく簡単に、大の男を二人も振り切れたものだ。敷地内に入ると立ち止まり、あがる息を整えた。
門の向こうを見て不安な気持ちになった。
あの僧侶は何者か。
そして探偵だという桂川龍介という男は、何を目的にして忽那青紀の家を探しているのか。