「筒乃屋の奥様の衣装部屋みたい」
いや、と心の中で言い直す。それよりももっと豪奢で多彩だ。
白い漆喰壁の蔵の中には、衣桁や箪笥が所狭しと置かれている。
涼しげに微かに透ける上布、緻密な花が裾模様にびっしりと描かれたぼかしの友禅、深い味わいのある濃い色の紬。それらが衣桁にかけられ、幾層にも重なっている。
壁際に寄せられた洋風の衣桁には、淡く柔らかな色味の、水色のローブデコルテ。若草色のビジティングドレス。レースがふんだんに使われた夜会服。
半分開いた箪笥の抽斗からは、真珠のネックレスや、金糸銀糸の刺繍帯。レースのショールなどが垂れていた。銘仙の着物が、ぎっしり詰まった抽斗もあった。
色彩や光沢が、空間を飾り立てる。空気の粒が、きらきらと光るような錯覚すら覚えた。
(素敵だ)
目眩がするほどたくさんの美しい衣装。どれを身につけようかと選ぶだけで、一日が終わってしまいそうだ。
「この家の主の衣装部屋です。ご主人様が好きに使ってください」
「あの、もっと普通の着物はないのかな?」
抽斗を開けながら、茶釜に問う。
「普通?」
「奉公人が着るような普通の和服で、もっとこう、目立たない」
開ける抽斗、開ける抽斗、色鮮やかで上質なものばかり入っているのだ。佐名が身につけ慣れているような織りの粗い、地味な色柄の木綿の着物は、一枚も見当たらない。
「ありません」
「そうか。仕方ないよね」
迷いに迷って、佐名は銘仙の花模様の着物を選んだ。佐名にとっては贅沢でも、比較的安価で、中流家庭の若い娘ならば身につけてもおかしくないものだ。水色と紺と朱と緑。それらを取り混ぜた、色の多い大胆な花模様を選ぶ。華やかなものを着慣れていないので、照れくさい。
(子どものとき以来)
毎朝奥様のお召し物を準備していた癖で、華やかな柄を目にすると、つい半襟に凝ってしまう。半襟は黒の唐草模様にして、帯もそれに似た色を合わせる。寒いので羽織も着た。羽織には幾何学模様の地模様が織りこまれていた。
乱れた髪は簡単に整え、抽斗の中にあったリボンで結わえた。
姿見の前に立ってみると、いつもの自分ではない誰かがそこにいる。
いつもより自分が、幸せそうに見えた。
身なりというのは不思議だ。身につけるもので人の雰囲気は随分変わるし、身につけた人自身の気持ちも変わる。華やかな色柄の着物を身につけると、こんな状況にもかかわらず、姿見の前でくるりと一回転してみたくなった。
もしも母親に置き去りにされなかったら、この家でこんなふうに育っていたのだろう。
(ああ、だめ。また考えた)
浮かんだ「もしも」を、佐名は慌てて心の中から消す。
「もしも」を想像するのは、つらい。しかも無意味だ。
母親なんて、今更どうでも良い。なぜ置き去りにしたのかとか、母親は何を考えていたのかとか、そんなことを考えるのさえ、とっくの昔に止めてしまったのだから。
慣れたもので、すぐに心に蓋ができた。
とにかく今は、忽那青紀を名乗るあやかしから逃げ出して、自分が生きる方法を見つけなければならない。
堂島から追われる身となったので、上方に逃げようか。ぐずぐずしていたら、連れ戻されて異形の者の餌食になるか、飢え死にするか身売りするかしかない。
青紀の命令通りこの家にとどまれば、当面は生きられるのかもしれない。ただそれで、いつまで無事でいられるのか。あやかしが佐名を、ずっと生かしておくとは限らない。
人でさえ──母親でさえ信用できないのに、あやかしなど信用できるはずもない。
(逃げるに、しくはなし)
決意を固めて蔵から出た。茶釜はとことこと佐名についてくる。
「お腹すいてませんか、ご主人様。僕、何か作ります。でもそのためには、お買い物に行かないとならないんです。今、材料も調味料も切れているものが多くて」
「ありがとう。でもわたしはこの家を出て行くから、必要ないわ」
「へー。そうですかぁ。だったら……えっ!」
玄関までやってきた佐名は、大島石の玄関に草履を見つけた。黒の女物だったので借りることにした。それを履いて一つ目二つ目と、次々と格子戸を開けていく。
茶釜は佐名に追いすがり、着物の裾にしがみついた。
「待ってください、ご主人様。そんなひどい」
「わたしを誘拐した忽那青紀の方が、ひどいでしょう」
「そりゃもうひどいです。悪魔です。悪鬼です。けど出て行かないで」
「昔ここに住んでいたから、主になれって言ってるみたいだけど、今更わたしは必要なの? ここにはあなたたちが住んでるんだし、わたしなんか必要ないはず」
「必要ありありです」
「そうは思わない」
「あるんです。だってこの家の存在は、あなたなしでは成り立たないんです! もう、ぎりぎりなんです。ご主人様がいなくなれば、近いうちにこの家は消えてしまう」
最後の格子戸に手を掛けた佐名は、茶釜の必死の言葉に動きを止める。今、子狸は妙なことを言った。
「消える? 家が?」
「ぽん!」
茶釜が、こくこく頷く。
「家が消えるってどういう意味?」
こつこつと格子戸が鳴った。格子戸の振動にはっとし、手を放す。
再び、格子戸の桟を叩く音がして、か細い女の子の声が向こう側から聞こえた。
「開けて。中に入れて」
こつこつ、こつこつと音が続く。
「開けて、開けて」
戸惑っていると、声に泣き声が混じる。
「開けて。お願い。中に入れて、お願い。うち、もう疲れたの。お腹もぺこぺこ。もう、動けへんの」
関西なまりのある幼い声。佐名と茶釜は顔を見合わせた。
「誰か来たわ、茶釜」
「お客様です」
こくりと唾を飲み四肢を踏ん張り、茶釜は緊張した面持ちで格子戸に対する。
「お願い。開けて」
声は弱々しく、哀れだ。
「格子戸を開けないの? 茶釜。お客様なのに」
「この家の主人は、ご主人様なんです。だからお客様が来たときには、ご主人様しか戸を開けられないんです」
「わたしは主人になった覚えはない」
「この家の中にいれば、ご主人様はこの家の主なんです」
「そんなこと言われても」
しくしくと戸の向こうで、女の子は泣く。
「やっと逃げて来たんや。うち、もうくたくた。あんたが堂島屋敷を逃げたから、あいつはあんたを追いかけて屋敷をちょっと離れたんよ。せやからその隙に、うちもやっと逃げられたん」
「堂島!? 逃げてきたって」
そうと聞いては放置もできず、思わず格子戸を開く。
そこには佐名の腰の位置までしか背丈のない、小さな女の子が立っていた。年は、五つか六つくらいだろうか。おかっぱ頭に、紺の縞の絣の着物と焦げ茶色のちゃんちゃんこ。裸足だ。手足は泥に汚れ、頬にも茶や黒の得体の知れない汚れがこびり付いている。
女の子の目線までしゃがむ。
「大丈夫? 堂島から逃げてきたって」
「うん」
涙を拭いながら、女の子は頷く。何年もお風呂に入っていないかのように、体から饐えた臭いがする。着物もちゃんちゃんこも垢じみていて、染みやほつれが目立つ。
「ひどい」
怒りに眉をひそめた。子どもにこんな仕打ちをするとは、堂島家はいったいどうなっているのか。この子は何者だろうか。堂島邸に奉公している、使用人の子どもだろうか。それとも親族の子か。まさか堂島琢磨の子ではあるまいが。
「中に入れて。お願い。もう歩けへん。休みたいのん」
女の子の体は不安定にぐらついていて、今にも倒れそうだ。すぐにでも休ませる必要がある。
「どうしよう。ここに……」
今まさに、佐名は家を出ようとしているのだ。
当てもなく出て行くのだから自分の身すら危ういのに、堂島邸から逃げてきたという、ぼろぼろに疲れた様子の子どもを連れて行っても守れない。かといって、この子だけをこの家に置いて出て行くのも躊躇われた。あやかしと喋る子狸の住む奇妙な場所に、無責任に小さな子どもを一人残して、自分は知らないとそっぽを向くことはできない。
「わぁ、ひどい臭い。このお客様、すぐに洗った方が良いですよ。僕、お風呂を準備します」
子狸が、無礼にも鼻をつまんで言う。
「この子、家の中に入れても良いの?」
「ご主人様が良いなら、良いんですよ? この家の主はご主人様ですから」
子狸は基本的に害がなさそうだし、あやかしの忽那青紀も、今すぐ佐名を取って喰う気はない。ただ、あやかしを信用することもできないので、すぐにでも逃げ出したかったのだが。
(でも、でも)
女の子はふらついて、ことりと佐名の胸にもたれかかる。
「ああっ! ええい、もう! 仕方ない。茶釜。この子を寝かせる部屋は、どこを使ったら良いか教えて」
女の子を抱いて、佐名は立ち上がった。格子戸に背を向け家の奥へと向かう。
(喰われたら、もうそのときよ)
覚悟を決めた。