二章 小さな客人 一



「筒乃屋の奥様のしよう部屋みたい」

 いや、と心の中で言い直す。それよりももっとごうしやさいだ。

 白いしつくいへきの蔵の中には、こうたんところせましと置かれている。

 すずしげにかすかにけるじようみつな花がすそようにびっしりと描かれたぼかしのゆうぜん、深い味わいのあるい色のつむぎ。それらが衣桁にかけられ、いくそうにも重なっている。

 かべぎわに寄せられた洋風の衣桁には、あわやわらかな色味の、水色のローブデコルテ。若草色のビジティングドレス。レースがふんだんに使われた夜会服。

 半分開いた箪笥の抽斗ひきだしからは、しんじゆのネックレスや、金糸銀糸のしゆう帯。レースのショールなどが垂れていた。めいせんの着物が、ぎっしりまった抽斗もあった。

 色彩やこうたくが、空間をかざり立てる。空気のつぶが、きらきらと光るようなさつかくすら覚えた。

(素敵だ)

 目眩めまいがするほどたくさんの美しい衣装。どれを身につけようかと選ぶだけで、一日が終わってしまいそうだ。

「この家のあるじの衣装部屋です。ご主人様が好きに使ってください」

「あの、もっと普通の着物はないのかな?」

 抽斗を開けながら、茶釜に問う。

「普通?」

ほうこう人が着るような普通の和服で、もっとこう、目立たない」

 開ける抽斗、開ける抽斗、いろあざやかで上質なものばかり入っているのだ。佐名が身につけ慣れているような織りのあらい、地味ないろがら綿めんの着物は、一枚も見当たらない。

「ありません」

「そうか。仕方ないよね」

 迷いに迷って、佐名は銘仙の花模様の着物を選んだ。佐名にとってはぜいたくでも、かくてき安価で、中流家庭の若いむすめならば身につけてもおかしくないものだ。水色とこんしゆと緑。それらを取り混ぜた、色の多いだいたんな花模様を選ぶ。はなやかなものを着慣れていないので、照れくさい。

(子どものとき以来)

 毎朝奥様のお召し物を準備していたくせで、華やかな柄を目にすると、ついはんえりに凝ってしまう。半襟は黒のからくさ模様にして、帯もそれに似た色を合わせる。寒いので羽織も着た。羽織にはがく模様の地模様が織りこまれていた。

 乱れたかみは簡単に整え、抽斗の中にあったリボンでわえた。

 姿見の前に立ってみると、いつもの自分ではない誰かがそこにいる。

 いつもより自分が、幸せそうに見えた。

 身なりというのは不思議だ。身につけるもので人のふんは随分変わるし、身につけた人自身の気持ちも変わる。華やかな色柄の着物を身につけると、こんなじようきようにもかかわらず、姿見の前でくるりと一回転してみたくなった。

 もしも母親に置き去りにされなかったら、この家でこんなふうに育っていたのだろう。

(ああ、だめ。また考えた)

 かんだ「もしも」を、佐名はあわてて心の中から消す。

「もしも」を想像するのは、つらい。しかも無意味だ。

 母親なんて、いまさらどうでもい。なぜ置き去りにしたのかとか、母親は何を考えていたのかとか、そんなことを考えるのさえ、とっくの昔にめてしまったのだから。

 慣れたもので、すぐに心にふたができた。

 とにかく今は、忽那青紀を名乗るあやかしからげ出して、自分が生きる方法を見つけなければならない。

 堂島から追われる身となったので、上方に逃げようか。ぐずぐずしていたら、連れもどされて異形の者のじきになるか、え死にするか身売りするかしかない。

 青紀の命令通りこの家にとどまれば、当面は生きられるのかもしれない。ただそれで、いつまで無事でいられるのか。あやかしが佐名を、ずっと生かしておくとは限らない。

 人でさえ──母親でさえ信用できないのに、あやかしなど信用できるはずもない。

(逃げるに、しくはなし)

 決意を固めて蔵から出た。茶釜はとことこと佐名についてくる。

「おなかすいてませんか、ご主人様。僕、何か作ります。でもそのためには、お買い物に行かないとならないんです。今、材料も調味料も切れているものが多くて」

「ありがとう。でもわたしはこの家を出て行くから、必要ないわ」

「へー。そうですかぁ。だったら……えっ!」

 げんかんまでやってきた佐名は、大島石の玄関にぞうを見つけた。黒の女物だったので借りることにした。それをいて一つ目二つ目と、次々とこうを開けていく。

 茶釜は佐名に追いすがり、着物のすそにしがみついた。

「待ってください、ご主人様。そんなひどい」

「わたしをゆうかいした忽那青紀の方が、ひどいでしょう」

「そりゃもうひどいです。あくです。あつです。けど出て行かないで」

「昔ここに住んでいたから、主になれって言ってるみたいだけど、今更わたしは必要なの? ここにはあなたたちが住んでるんだし、わたしなんか必要ないはず」

「必要ありありです」

「そうは思わない」

「あるんです。だってこの家の存在は、あなたなしでは成り立たないんです! もう、ぎりぎりなんです。ご主人様がいなくなれば、近いうちにこの家は消えてしまう」

 最後の格子戸に手をけた佐名は、茶釜の必死の言葉に動きを止める。今、だぬきみようなことを言った。

「消える? 家が?」

「ぽん!」

 茶釜が、こくこくうなずく。

「家が消えるってどういう意味?」

 こつこつと格子戸が鳴った。格子戸のしんどうにはっとし、手を放す。

 再び、格子戸のさんたたく音がして、か細い女の子の声が向こう側から聞こえた。

「開けて。中に入れて」

 こつこつ、こつこつと音が続く。

「開けて、開けて」

 まどっていると、声に泣き声が混じる。

「開けて。お願い。中に入れて、お願い。うち、もうつかれたの。お腹もぺこぺこ。もう、動けへんの」

 関西なまりのある幼い声。佐名と茶釜は顔を見合わせた。

だれか来たわ、茶釜」

「お客様です」

 こくりとつばを飲みん張り、茶釜はきんちようしたおもちで格子戸に対する。

「お願い。開けて」

 声は弱々しく、あわれだ。

「格子戸を開けないの? 茶釜。お客様なのに」

「この家の主人は、ご主人様なんです。だからお客様が来たときには、ご主人様しか戸を開けられないんです」

「わたしは主人になった覚えはない」

「この家の中にいれば、ご主人様はこの家の主なんです」

「そんなこと言われても」

 しくしくと戸の向こうで、女の子は泣く。

「やっと逃げて来たんや。うち、もうくたくた。あんたが堂島しきを逃げたから、あいつはあんたを追いかけて屋敷をちょっとはなれたんよ。せやからその隙に、うちもやっと逃げられたん」

「堂島!? 逃げてきたって」

 そうと聞いては放置もできず、思わず格子戸を開く。

 そこには佐名のこしの位置までしかたけのない、小さな女の子が立っていた。年は、五つか六つくらいだろうか。おかっぱ頭に、紺のしまかすりの着物とちやいろのちゃんちゃんこ。裸足はだしだ。手足はどろよごれ、ほおにも茶や黒の得体の知れない汚れがこびり付いている。

 女の子の目線までしゃがむ。

だいじよう? 堂島から逃げてきたって」

「うん」

 なみだぬぐいながら、女の子は頷く。何年もおに入っていないかのように、体からえたにおいがする。着物もちゃんちゃんこもあかじみていて、みやほつれが目立つ。

「ひどい」

 いかりにまゆをひそめた。子どもにこんな仕打ちをするとは、堂島家はいったいどうなっているのか。この子は何者だろうか。堂島ていほうこうしている、使用人の子どもだろうか。それとも親族の子か。まさか堂島琢磨の子ではあるまいが。

「中に入れて。お願い。もう歩けへん。休みたいのん」

 女の子の体は不安定にぐらついていて、今にもたおれそうだ。すぐにでも休ませる必要がある。

「どうしよう。ここに……」

 今まさに、佐名は家を出ようとしているのだ。

 当てもなく出て行くのだから自分の身すらあやういのに、堂島邸から逃げてきたという、ぼろぼろに疲れた様子の子どもを連れて行っても守れない。かといって、この子だけをこの家に置いて出て行くのも躊躇ためらわれた。あやかしとしやべる子狸の住むみような場所に、無責任に小さな子どもを一人残して、自分は知らないとそっぽを向くことはできない。

「わぁ、ひどい臭い。このお客様、すぐに洗った方が良いですよ。僕、お風呂を準備します」

 子狸が、無礼にも鼻をつまんで言う。

「この子、家の中に入れても良いの?」

「ご主人様が良いなら、良いんですよ? この家のあるじはご主人様ですから」

 子狸は基本的に害がなさそうだし、あやかしの忽那青紀も、今すぐ佐名を取ってう気はない。ただ、あやかしを信用することもできないので、すぐにでも逃げ出したかったのだが。

(でも、でも)

 女の子はふらついて、ことりと佐名の胸にもたれかかる。

「ああっ! ええい、もう! 仕方ない。茶釜。この子をかせる部屋は、どこを使ったら良いか教えて」

 女の子をいて、佐名は立ち上がった。格子戸に背を向け家の奥へと向かう。

(喰われたら、もうそのときよ)

 かくを決めた。

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