一章 喰われる花嫁 三



 血の気が引く。しかし。

すきを見て逃げるか。あるいは、なぐってでも)

 十五年前の、非力な四歳のときとは違うのだ。そう自分に言い聞かせ、こぶしを固め、棒きれでもないかと周囲を目でさぐるが、あいにくろうには何もない。

 男はくついで廊下にあがってくると、佐名の前までやってきた。無表情だが、殺気はない。

 子狸は鼻にしわを寄せてぐるるっとうなったものの、大人しく男に場をゆずり傍らにひかえ、げんそうに男を見上げた。

「目が覚めたか、佐名」

 うんともすんとも声が出ずにいると、男は返事を期待していないらしく、たんたんと続ける。

こわがることはない。危害を加えるつもりはない。わたしは、くつせいという者だ」

 よく知っている名だった。よく知っているからこそおどろき、佐名の舌はようやく動く。

「忽那青紀?」

 忽那青紀。

 その人物は今、日本で最も有名な作家の一人と言って良かった。げんそう小説を得意とし、そのゆうげんかいびようしやきつけられて、若い女性がこぞって読み始めた。当初は彼の小説に否定的だったぶんだんの批評家たちも、人気があがるとじよじよに論調を変えていき、今ではだれもが絶賛している。要するに、当世を代表する人気作家なのだ。

「それが名だ」

「今一番もてはやされている、流行作家の名じゃない。幻想小説で有名な」

「幻想小説を書いているつもりはないが」

 男の返事にまゆを寄せる。

(まさか本物?)

 以前読んだ雑誌の記事で、忽那青紀が同じことを口にしていたのだ。

 それでもと、佐名は疑う。忽那青紀をしようする準備に、彼に関する記事や小説を、この男が読み込んでいる可能性もある。ただそこまでして、有名作家をかたる意図は不明だが。

 けいかいしんをむき出しにして、佐名は忽那青紀と名乗った彼をにらむ。

「わたしをどうするつもり。う気なの? 忽那青紀先生」

 本物かどうかあやしいものだが、いやみで呼んでみた。せいいつぱいきよせいだ。

「喰いはしない。危害を加えるつもりはないと言ったはずだ」

うそだ。あなたは十五年前に、わたしを喰おうとした。覚えてるのよ。あなたは、血まみれの姿でわたしを追いかけた。今と変わらない若い姿だった。忽那青紀だなんてさないで。あなたは人間じゃない」

 男の目が異様に底光りする。背筋が寒くなり一歩後ずさると、伸びてきた男の手が佐名のかたれた。触れられたしゆんかんびくっと体がふるえたが、げられなかったのは、男の発するあつかんのせいだ。るわけでもおどすわけでもないが、見つめられると身がすくむ。少しでも動いたら、何かが起こりそうだ。

 男の手は肩に乱れかかった佐名のかみを軽く整えた後、ほおに触れる。すべすべした手指は意外なほど温かい。あんそくこうかおりが強くなる。間近に見つめられると、ようぼうの美しさにぞっとすらした。

 現実味がないほど綺麗すぎる男だ。細いペン先でえがかれたせんさいな絵姿が、すうっと紙の上から抜け出してきたかのようだ。頬の線も、さらりとした前髪のかかる額の形の良さも、人形のようなくっきりとした目も。

「そうだな。わたしは人の呼ぶところのあやかし。三百年生きている。この時代には、忽那青紀と名乗っているだけのこと。だが、重ねて言うが、おまえを喰う気で連れてきたのではない」

「喰う気でないなら、あやかしが、わたしになんの用があるの」

「おまえに願いがあって、ここに連れてきた」

「願い?」

 意外な言葉に、何度かまばたきした。

「そもそも、ここはどこなの」

「浅草」

「浅草のどこ」

「おまえの家だ」

「わたしには家なんかないの」

 あやかし──忽那青紀は淡々と続けた。

「ある。ここは四歳まで、おまえが住んでいた家だ」

 ぼうぜんとした佐名の表情に、青紀は意外そうな顔をした。

「少しも覚えていないのか。この家のことを」

 確かに目覚めて部屋を見たとき、なつかしい感じはした。三層の格子戸を出れば、正面が門だと知っていた。それでもおくにはない。ただ感覚として、かすかな何かがあるのみ。確信があるのは、白いぎつねがいたことだけ。その子狐は、佐名の目の前に現れたが。


◆◆◆◆◆◆◆


(ここが、わたしの家だった?)

 母親と住んでいた、あの家なのだろうか。

 毎朝母親に髪をくしけずって編んでもらい、はなやかな着物を身につけていた。時々客人が来て、奥のしきでお客様と母親の楽しげな会話を遠く聞きながら、ビー玉を転がしていた。

 あの家なのだろうか。

(じゃあ、お母さんは)

 どこ? と。そう続きかけた心の中の問いを、佐名は急いで追いはらった。ぴしゃりとふたをして、心の声をふうじる。

「知らない。覚えてない」

 かたい声で答えた。

「なぜ」

「なぜって言われても困る。わたしは四歳のときにお母さんに置き去りにされて、それからずっと筒乃屋の奉公人だったんだもの。四歳以前なんて、そんな小さなころのことを覚えている人のほうが少ないわよ」

「これだから人間はめんどうだ」

 かいそうに青紀は言う。

「覚えてなくとも、ここはおまえの家だ。だから、おまえがあるじとなるしかない。主として、この家に住め。それが願いだ」

 ますますこんわくした。

 あやかしにさらわれて来たのは、かつて自分が母親と過ごした家。さらにこの家に主として住めと、このあやかしは要求しているのだ。なぜそんなことをお願いされるのか理由がわからないし、そもそもなぜ佐名がかつて住んだ家に、あやかしやしやべたぬきがいるのだろう。

「どうして?」

 様々な疑問が、ただ一言になって口から出る。しかしそれに答えはなく、あったのは命じる一言。

「ここに住め」

「嫌」

「逃げてきたのだろう?」

 反射的なきよぜつに対して、うすら笑いで青紀が言った。

 痛いところをかれたのが表情に出たらしく、彼の目がさらに細まる。美しい顔にかぶじやあくみは、この青年があやかしだというしようのよう。

「連れもどされたくはないのだろう。にもかかわらず、行くあてもないのだろう。そうなのであれば、ここに住むしかないのでは?」

 言葉にまると、青紀はかさにかかって言葉を続ける。

「おまえは身寄りもなく、たよれる人もなく。力もなく、金もなく、しんらいも信用もない、ちりに等しいむすめだろう。誰もおまえのことなど助けてくれない。必要としない。ひとりぼっちだ」

 くやしいがその通り。佐名はひとりぼっちだ。ほうこう先で平手打ちされても、なぐさめてくれる仲間はいても、誰も助けてはくれない。それはみんな自分の身が可愛かわいいから当然のことで、慰めてくれるだけやさしいし思いやり深い。

 母親に置き去りにされ、捨てられた佐名はきっと、塵みたいに不要な存在。ずっと、ひとりぼっち。そんなことは知っている。けれどそれをいなして、見ないふりをして、自分をあわれみたくないのに。このあやかしは、なんとずけずけと事実を口にするのか。

「自分の身の上を理解したなら、なおに『ここに住む』と言ってみろ」

「意地悪!」

 思わず口を衝いて出た。

「あなたは底意地が悪い。意地悪よ、すごく」

「意地悪?」

 意外なことを言われたように青紀はまゆをつり上げたが、佐名のひとみに光るに、はっとした顔をする。だぬきの茶釜が「青紀様は意地悪! 意地悪! 意地悪、ごくあく、最悪!」と、うれしそうにぴょんぴょんねる。

「意地悪をしたつもりはない」

「いいえ、意地悪だ」

 言い張る佐名に困惑したように、青紀は視線をらす。

「とにかく……この家の主になれ」

「なるもんか」

 そくに拒絶すると、青紀は鼻白んだように背を見せた。そのまま無言でげんかんを出て行こうとし、去りぎわにふり返って、さらに意地の悪いことを言った。

「逃げようなどと思わないことだな、佐名。この家の外に出たら命は保証しない。それこそ、役に立たないおまえなど喰ってやる」

 後ろ手にこうを閉め、青紀の姿は見えなくなった。佐名はくちびるむ。

 あやかしの男に対するきようよりも、腹立たしさのほうが大きくなっていた。

(あんな意地悪なやつの命令に、だれが従ってやるもんか)

 いかりに背を押されるように、さらに強く決意を固める。

げてやる、絶対)

 ぴょこんぴょこんと、茶釜が跳ねた。

「ご主人様、すごい! あの極悪非道のけものを追い払った!」

 勢い余って胸に飛び込んできた茶釜をき留めた。温かい毛皮のぬくもりに、佐名はようやくほっと息をつく。

「もしかして茶釜は、あの人にここに閉じ込められているの?」

「いいえ。青紀様から仕事をもらったので、喜んでここに住んでます。僕の仕事はこの家の修理や雑用と、お料理なんです」

「じゃあ、あの人の手下?」

「手下なんかじゃありませんが、極悪非道のじゆうは命の恩人です」

「あの人のこときらいなの?」

「ぽん! そんなめつそうもない!」

「じゃあ、好きなのね」

反吐へどが出ます! 感謝してます!」

「……えっと……」

 追求する気力がせるほど、きらきらした丸い目で答える茶釜の返答は、ぜつみようにおかしい。「反吐が出ます」と「感謝してます」を、同じ嬉しげな調子で口にされると混乱する。

 なんとなく察したのは、茶釜は忽那青紀から仕事をもらい、命の恩人だと感謝しているらしいのだが──心底虫が好かないのだろう、ということ。

 自分がかつて住んだ家だとしても、ここはみような場所にちがいない。記憶にないのだから愛着も、しゆうちやくもない。逆に、記憶があったらさぞやりきれないだろう。自分を置き去りにした母親と住んだ場所など、負の感情がうずくに違いない。現に、家の記憶がない今でも、母親と暮らした家と聞かされると、逃げ出したい思いは加速した。

 出て行くにしても、身なりをどうにかする必要がある。かけした姿ではさすがにまずい。

「ねぇ、茶釜。わたしがえられるような、だんの着物はある?」

「ありますとも」

 佐名の胸から飛び降りると、茶釜は「ついてきてください」と、ろうの先を歩く。

「嬉しいなぁ。ようやくこの家も、ご主人様をもてるんですね」

 それに佐名は答えなかったが、茶釜は独りてんして、「嬉しいな、嬉しいな」と言っている。丸っこい尻尾しつぽをごげんにふりふりする茶釜に、申し訳ない。佐名は身なりを整えたら、すぐにでも家を出ようと考えているのに、何も言わないのは茶釜をだましているのと同じ。

 だが正直にはなれない。この子狸は悪いものではなさそうだが、忽那青紀の仲間なのだ。

 黒光りする廊下を真っぐ奥へと進み、それから角を曲がり、佐名がかされていた部屋とは逆方向に進む。

 廊下の左右には延々とふすまが並び、それぞれった襖絵がえがかれている。しよぐるま、山野、深山、川。あるしよにはごくなども。それら襖絵が行灯あんどんに照らされ、ぼんやりと行く手をいろどる。

 ずいぶん大きな家だった。堂島ていおもも大きかったが、その比ではないだろう。

 廊下のさいおうは蔵に続いていた。分厚い観音開きの蔵戸前は開かれている。板戸の引き戸は閉じていた。

 板戸も分厚く重そうだったが、茶釜が前足でちょいとすきさわると、するすると開く。

「この中から、好きなものを選んでおしになってください、ご主人様」

 先に中に入った茶釜が、すんすんと鼻を鳴らすと、鼻先にぽっと小さなほのおが浮かぶ。これはきつねならぬ、狸火だろうか。

 狸火はその小ささにもかかわらず、蔵の中をほどよく明るく照らす。

「すごい」

 蔵の中を目にして、思わず声が出た。

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