血の気が引く。しかし。
(隙を見て逃げるか。あるいは、殴ってでも)
十五年前の、非力な四歳のときとは違うのだ。そう自分に言い聞かせ、拳を固め、棒きれでもないかと周囲を目で探るが、あいにく廊下には何もない。
男は靴を脱いで廊下にあがってくると、佐名の前までやってきた。無表情だが、殺気はない。
子狸は鼻に皺を寄せてぐるるっと唸ったものの、大人しく男に場を譲り傍らに控え、不機嫌そうに男を見上げた。
「目が覚めたか、佐名」
うんともすんとも声が出ずにいると、男は返事を期待していないらしく、淡々と続ける。
「怖がることはない。危害を加えるつもりはない。わたしは、忽那青紀という者だ」
よく知っている名だった。よく知っているからこそ驚き、佐名の舌はようやく動く。
「忽那青紀?」
忽那青紀。
その人物は今、日本で最も有名な作家の一人と言って良かった。幻想小説を得意とし、その幽玄奇怪な描写に惹きつけられて、若い女性がこぞって読み始めた。当初は彼の小説に否定的だった文壇の批評家たちも、人気があがると徐々に論調を変えていき、今では誰もが絶賛している。要するに、当世を代表する人気作家なのだ。
「それが名だ」
「今一番もてはやされている、流行作家の名じゃない。幻想小説で有名な」
「幻想小説を書いているつもりはないが」
男の返事に眉根を寄せる。
(まさか本物?)
以前読んだ雑誌の記事で、忽那青紀が同じことを口にしていたのだ。
それでもと、佐名は疑う。忽那青紀を詐称する準備に、彼に関する記事や小説を、この男が読み込んでいる可能性もある。ただそこまでして、有名作家を騙る意図は不明だが。
警戒心をむき出しにして、佐名は忽那青紀と名乗った彼を睨む。
「わたしをどうするつもり。喰う気なの? 忽那青紀先生」
本物かどうか怪しいものだが、嫌みで呼んでみた。精一杯の虚勢だ。
「喰いはしない。危害を加えるつもりはないと言ったはずだ」
「嘘だ。あなたは十五年前に、わたしを喰おうとした。覚えてるのよ。あなたは、血まみれの姿でわたしを追いかけた。今と変わらない若い姿だった。忽那青紀だなんて誤魔化さないで。あなたは人間じゃない」
男の目が異様に底光りする。背筋が寒くなり一歩後ずさると、伸びてきた男の手が佐名の肩に触れた。触れられた瞬間びくっと体が震えたが、逃げられなかったのは、男の発する威圧感のせいだ。怒鳴るわけでも脅すわけでもないが、見つめられると身が竦む。少しでも動いたら、何かが起こりそうだ。
男の手は肩に乱れかかった佐名の髪を軽く整えた後、頬に触れる。すべすべした手指は意外なほど温かい。安息香の香りが強くなる。間近に見つめられると、容貌の美しさにぞっとすらした。
現実味がないほど綺麗すぎる男だ。細いペン先で描かれた繊細な絵姿が、すうっと紙の上から抜け出してきたかのようだ。頬の線も、さらりとした前髪のかかる額の形の良さも、人形のようなくっきりとした目も。
「そうだな。わたしは人の呼ぶところのあやかし。三百年生きている。この時代には、忽那青紀と名乗っているだけのこと。だが、重ねて言うが、おまえを喰う気で連れてきたのではない」
「喰う気でないなら、あやかしが、わたしになんの用があるの」
「おまえに願いがあって、ここに連れてきた」
「願い?」
意外な言葉に、何度か瞬きした。
「そもそも、ここはどこなの」
「浅草」
「浅草のどこ」
「おまえの家だ」
「わたしには家なんかないの」
あやかし──忽那青紀は淡々と続けた。
「ある。ここは四歳まで、おまえが住んでいた家だ」
呆然とした佐名の表情に、青紀は意外そうな顔をした。
「少しも覚えていないのか。この家のことを」
確かに目覚めて部屋を見たとき、懐かしい感じはした。三層の格子戸を出れば、正面が門だと知っていた。それでも記憶にはない。ただ感覚として、微かな何かがあるのみ。確信があるのは、白い子狐がいたことだけ。その子狐は、佐名の目の前に現れたが。
◆◆◆◆◆◆◆
(ここが、わたしの家だった?)
母親と住んでいた、あの家なのだろうか。
毎朝母親に髪をくしけずって編んでもらい、華やかな着物を身につけていた。時々客人が来て、奥の座敷でお客様と母親の楽しげな会話を遠く聞きながら、ビー玉を転がしていた。
あの家なのだろうか。
(じゃあ、お母さんは)
どこ? と。そう続きかけた心の中の問いを、佐名は急いで追い払った。ぴしゃりと蓋をして、心の声を封じる。
「知らない。覚えてない」
硬い声で答えた。
「なぜ」
「なぜって言われても困る。わたしは四歳のときにお母さんに置き去りにされて、それからずっと筒乃屋の奉公人だったんだもの。四歳以前なんて、そんな小さな頃のことを覚えている人のほうが少ないわよ」
「これだから人間は面倒だ」
不愉快そうに青紀は言う。
「覚えてなくとも、ここはおまえの家だ。だから、おまえが主となるしかない。主として、この家に住め。それが願いだ」
ますます困惑した。
あやかしにさらわれて来たのは、かつて自分が母親と過ごした家。さらにこの家に主として住めと、このあやかしは要求しているのだ。なぜそんなことをお願いされるのか理由がわからないし、そもそもなぜ佐名がかつて住んだ家に、あやかしや喋る狸がいるのだろう。
「どうして?」
様々な疑問が、ただ一言になって口から出る。しかしそれに答えはなく、あったのは命じる一言。
「ここに住め」
「嫌」
「逃げてきたのだろう?」
反射的な拒絶に対して、薄ら笑いで青紀が言った。
痛いところを衝かれたのが表情に出たらしく、彼の目がさらに細まる。美しい顔に浮かぶ邪悪な笑みは、この青年があやかしだという証拠のよう。
「連れ戻されたくはないのだろう。にもかかわらず、行くあてもないのだろう。そうなのであれば、ここに住むしかないのでは?」
言葉に詰まると、青紀はかさにかかって言葉を続ける。
「おまえは身寄りもなく、頼れる人もなく。力もなく、金もなく、信頼も信用もない、塵に等しい小娘だろう。誰もおまえのことなど助けてくれない。必要としない。ひとりぼっちだ」
悔しいがその通り。佐名はひとりぼっちだ。奉公先で平手打ちされても、慰めてくれる仲間はいても、誰も助けてはくれない。それはみんな自分の身が可愛いから当然のことで、慰めてくれるだけ優しいし思いやり深い。
母親に置き去りにされ、捨てられた佐名はきっと、塵みたいに不要な存在。ずっと、ひとりぼっち。そんなことは知っている。けれどそれをいなして、見ないふりをして、自分を哀れみたくないのに。このあやかしは、なんとずけずけと事実を口にするのか。
「自分の身の上を理解したなら、素直に『ここに住む』と言ってみろ」
「意地悪!」
思わず口を衝いて出た。
「あなたは底意地が悪い。意地悪よ、すごく」
「意地悪?」
意外なことを言われたように青紀は眉をつり上げたが、佐名の瞳に光る怒気に、はっとした顔をする。子狸の茶釜が「青紀様は意地悪! 意地悪! 意地悪、極悪、最悪!」と、嬉しそうにぴょんぴょん跳ねる。
「意地悪をしたつもりはない」
「いいえ、意地悪だ」
言い張る佐名に困惑したように、青紀は視線を逸らす。
「とにかく……この家の主になれ」
「なるもんか」
即座に拒絶すると、青紀は鼻白んだように背を見せた。そのまま無言で玄関を出て行こうとし、去り際にふり返って、さらに意地の悪いことを言った。
「逃げようなどと思わないことだな、佐名。この家の外に出たら命は保証しない。それこそ、役に立たないおまえなど喰ってやる」
後ろ手に格子戸を閉め、青紀の姿は見えなくなった。佐名は唇を噛む。
あやかしの男に対する恐怖よりも、腹立たしさのほうが大きくなっていた。
(あんな意地悪な奴の命令に、誰が従ってやるもんか)
怒りに背を押されるように、さらに強く決意を固める。
(逃げてやる、絶対)
ぴょこんぴょこんと、茶釜が跳ねた。
「ご主人様、すごい! あの極悪非道の獣を追い払った!」
勢い余って胸に飛び込んできた茶釜を抱き留めた。温かい毛皮のぬくもりに、佐名はようやくほっと息をつく。
「もしかして茶釜は、あの人にここに閉じ込められているの?」
「いいえ。青紀様から仕事をもらったので、喜んでここに住んでます。僕の仕事はこの家の修理や雑用と、お料理なんです」
「じゃあ、あの人の手下?」
「手下なんかじゃありませんが、極悪非道の野獣は命の恩人です」
「あの人のこと嫌いなの?」
「ぽん! そんな滅相もない!」
「じゃあ、好きなのね」
「反吐が出ます! 感謝してます!」
「……えっと……」
追求する気力が失せるほど、きらきらした丸い目で答える茶釜の返答は、絶妙におかしい。「反吐が出ます」と「感謝してます」を、同じ嬉しげな調子で口にされると混乱する。
なんとなく察したのは、茶釜は忽那青紀から仕事をもらい、命の恩人だと感謝しているらしいのだが──心底虫が好かないのだろう、ということ。
自分がかつて住んだ家だとしても、ここは妙な場所に違いない。記憶にないのだから愛着も、執着もない。逆に、記憶があったらさぞやりきれないだろう。自分を置き去りにした母親と住んだ場所など、負の感情が渦巻くに違いない。現に、家の記憶がない今でも、母親と暮らした家と聞かされると、逃げ出したい思いは加速した。
出て行くにしても、身なりをどうにかする必要がある。掛下姿ではさすがにまずい。
「ねぇ、茶釜。わたしが着替えられるような、普段着の着物はある?」
「ありますとも」
佐名の胸から飛び降りると、茶釜は「ついてきてください」と、廊下の先を歩く。
「嬉しいなぁ。ようやくこの家も、ご主人様をもてるんですね」
それに佐名は答えなかったが、茶釜は独り合点して、「嬉しいな、嬉しいな」と言っている。丸っこい尻尾をご機嫌にふりふりする茶釜に、申し訳ない。佐名は身なりを整えたら、すぐにでも家を出ようと考えているのに、何も言わないのは茶釜を騙しているのと同じ。
だが正直にはなれない。この子狸は悪いものではなさそうだが、忽那青紀の仲間なのだ。
黒光りする廊下を真っ直ぐ奥へと進み、それから角を曲がり、佐名が寝かされていた部屋とは逆方向に進む。
廊下の左右には延々と襖が並び、それぞれ凝った襖絵が描かれている。御所車、山野、深山、川。ある箇所には地獄絵なども。それら襖絵が行灯に照らされ、ぼんやりと行く手を彩る。
随分大きな家だった。堂島邸の母屋も大きかったが、その比ではないだろう。
廊下の最奥は蔵に続いていた。分厚い観音開きの蔵戸前は開かれている。板戸の引き戸は閉じていた。
板戸も分厚く重そうだったが、茶釜が前足でちょいと隙間を触ると、するすると開く。
「この中から、好きなものを選んでお召しになってください、ご主人様」
先に中に入った茶釜が、すんすんと鼻を鳴らすと、鼻先にぽっと小さな炎が浮かぶ。これは狐火ならぬ、狸火だろうか。
狸火はその小ささにもかかわらず、蔵の中をほどよく明るく照らす。
「すごい」
蔵の中を目にして、思わず声が出た。