あやかしの家の仮主さま　衣がさね　狐と狸と焔の娘

一章　喰われる花嫁　二

　米を炊（た）く温かな香りがする。

（お腹（なか）がすいた）

　米が炊ける香りがするということは、朝ご飯の準備が始まっているのだ。寝（ね）過（す）ごしたのだろう。まずい。早く起きなくてはならないと思うが、どうにも体が重い。

　顔に触れている布団の感触がなめらかで気持ちよく、体全体がぬくぬくとしていて、とても布団から出る気になれない。

　ぐずぐずしていたら奥様が不（ふ）機（き）嫌（げん）になる。それはわかっているが、なかなか目は開かない。

　奥様はきっちりと身なりを整えてから、朝ご飯の席に着く習慣だ。毎日違った装（よそお）いをしたがり、同月の中では、けして同じ装いをしないと決めている。身につけるものを毎朝準備するのが、佐名の役目の一つ。呉（ご）服（ふく）屋の奥様だ。手持ちの衣（い）装（しよう）は、和服から洋服まで幅（はば）広（ひろ）く膨（ぼう）大（だい）だ。その中から奥様に似合うものを選び出し、着こなしを決めて、毎朝揃（そろ）える。

　夫の目を常に気にしている奥様は、自分の身なりについて夫から何か言葉があろうものなら、大変だった。褒（ほ）められれば、佐名の頬を舐（な）め回さんばかりに喜んだし、少しでもけちをつけられれば、恥（はじ）をかかせたと言って佐名に平手打ちを食（く）らわせた。

（早く起きて、今日の奥様のお召（め）し物を準備しなきゃ）

　それでも佐名は、奥様のお召し物の準備が大好きだった。身につける衣装によって奥様の気分が変わり、旦（だん）那（な）様の反応が変わり、その日一日の空気が変わる。今日は奥様も旦那様も機嫌が良（い）いねと、同輩の奉公人たちが笑（え）顔（がお）になれば、嬉（うれ）しかった。

　今朝は何を準備しようか。和服ばかりでは飽（あ）きるので、そろそろ洋服も良い頃（ころ）合（あ）いか。確か昨日も奥様は、黒（くろ）留（とめ）袖（そで）を身につけていた。

　そこまで考えて、はてと不思議に思う。どうして黒留袖だったのだろうか。しかも佐名は、それを準備した覚えがない。

（ああ、そうか。結（けつ）婚（こん）式だったから……結婚式!?）

　唐（とう）突（とつ）に全（すべ）てを思い出し、飛び起きた。

　八畳（じよう）ほどの広い座（ざ）敷（しき）の中央に、佐名は寝（ね）かされていた。

　自分が座っている布（ふ）団（とん）は綿がふかふかで、手（て）触（ざわ）りが良い。

　周囲を見回す。格（ごう）天（てん）井（じよう）には花や鳥（ちよう）獣（じゆう）の絵。部屋の四方を囲む襖（ふすま）絵（え）は、四季折々の花。畳（たたみ）の縁（へり）は桜色に白い花が散る凝（こ）ったもの。贅（ぜい）沢（たく）な部屋だったが、天井の四（よ）隅（すみ）には蜘蛛（くも）の巣があり、全体的にうっすら埃（ほこり）っぽい。ただなぜか懐（なつ）かしい感じがする。

「……どこ、ここ」

　綺（き）麗（れい）な顔をした怖（こわ）い男に捕（つか）まったのは、覚えている。そこから自分の身に何があったのだろうか。身につけているのは堂島邸（てい）を飛び出したときの純白の掛下で、乱れた様子はない。

　起き上がると、音を立てないように襖の一つを開けてみた。

　襖の向こう側は長い廊（ろう）下（か）だった。人の気配はなく、しんとしている。廊下の所々に行灯（あんどん）が置かれ、ぼんやりとした橙（だいだい）色（いろ）の光を放っていた。

（あの男の家？）

　そうだとしたら、逃げなくてはならない。なんの目的で連れて来られたのかはわからないが、きっと碌（ろく）なことにはならない。佐名が寝ていると思って油断しているのだろうから、この隙（すき）に逃げるのが得策だった。

　細く開いた襖の隙間から部屋を出ると、足音を殺して廊下を進み、用心しながら角を曲がる。その先に、四枚の戸からなる格子戸の玄（げん）関（かん）が見えた。

　四枚並んだ格子戸は外へ向かって三層になっている。

　一つ目の格子戸を開けると三歩ほどの距（きよ）離（り）を置いて、また四枚の格子戸があり。そしてさらに三歩進むと、最後の四枚の格子戸があり。この最後の格子戸だけ白い紙が張られて、向こう側が透（す）けて見えない。

（あそこを出たら、真っ直（す）ぐ正面に門がある）

　そう思った自分が不可解だった。どうしてそう思ったのか、と。

（わたしは、この家を知ってる？）

　三層になった格子戸には、どこか見覚えがある。

　ふいに、一番外側の格子戸が開いた。

　驚（おどろ）いて飛び上がりそうになったが、開いた隙間から顔を覗（のぞ）かせたのは、木（も）綿（めん）の着物を身につけた、いがぐり頭の見知らぬ少年。彼は、きょときょと珍（めずら）しげに中を覗いている。その視線が廊下の奥へ向かい、佐名と目が合った。しかし彼はそのまま視線を外して、佐名を無視し、そろそろと格子戸を開いて一歩踏（ふ）み込んでくる。

「誰（だれ）か、いませんか」

　少年は怖々といった様子で細い声を出す。佐名は首を傾（かし）げた。

「坊（ぼう）や」

　声をかけたが、少年の視線は佐名に向かない。それどころか、無言で二つ目三つ目の格子戸を開き近づいてくると、履（は）いていた草（ぞう）履（り）を脱（ぬ）ぎ廊下にあがってきた。

「なんだ？　この家……。こんな家、近所にあったかな？」

　少年はぶつぶつ言いながら、玄関をふり返り天井を見上げる。どうやら迷い込んできたらしい彼は、佐名の数歩手前で足を止め、周囲を見回しながらまた言う。

「誰かいませんか」

　少年には、佐名が見えていない。

「ねぇ、坊や」

　そのことが気味悪くなり、一歩踏み出して少年の肩（かた）に触（ふ）れた。少年が、ひゃあっと声をあげて尻（しり）餅（もち）をつく。

「誰かいるのか！」

「あの、ねえ。わたしのこと見えないの？　声は？」

　少年の手に触れると、彼はまた悲鳴をあげた。さらにぴょんと跳（と）び上がって、脱（だつ）兎（と）のごとく逃げ出すと、草履を履くのももどかしいのか、手に掴（つか）む。そのまま家の外へ飛び出してしまった。

　あっけにとられて見送った。

　少年には、佐名の声も聞こえず姿も見えていなかったらしい。

（どういうこと）

　まさか自分が幽（ゆう）霊（れい）になったわけではあるまい、とは思うが、確信はない。あの男に自分は既（すで）に殺されていて、今の自分は幽霊だとしてもなんの不思議もない。

「参ったなぁ。死んでたら、どうしよう。どうしようもないけど」

　とにかくこの家を出て、自分が生きているのか死んでいるのか、そこから確かめなくてはならない。立ち止まっていても埒（らち）があかない。

（頑（がん）張（ば）れ、自分）

　己（おのれ）を叱（しつ）咤（た）する。今まで散々やってきた、自分を励（はげ）ます行（こう）為（い）だ。

（とりあえず生きてるときと今は、あんまり変わらないよ。大（だい）丈（じよう）夫（ぶ）、大丈夫。とにかく逃（に）げなきゃ）

　ずいぶんな激（げき）励（れい）だと自分自身でも呆（あき）れるが、その程度しか励ましの言葉が見つからない。無（む）理（り）矢（や）理（り）に、「うん、その通りだ」と心の中で自分に頷（うなず）き返していると、手の甲（こう）を温かく柔（やわ）らかい何かがかすめた。

　目に飛び込んできたのは、真っ白な、ふわふわの生き物。

　佐名の目の前にちょこんと座っているのは、くりくりした黒い瞳（ひとみ）の、真っ白い毛皮の子（こ）狐（ぎつね）だった。尻尾（しつぽ）がいやにふさふさしているのは、不思議なことに尻尾が九つあるから。ふわんふわんと、尻尾が揺（ゆ）れている。

　濡（ぬ）れたような黒い瞳は心配そうに佐名を見つめていた。

（この子……見覚えがある。まさか）

　曖（あい）昧（まい）な四歳以前の記（き）憶（おく）の中に、この白い子狐がいた。ビー玉で遊ぶ佐名の傍（かたわ）らにいた子狐によく似ている。九つも尻尾があったかどうかは、覚えていない。ただ姿形はよく似ている。しかしあれは十五年以上前の記憶だ。普（ふ）通（つう）であれば、とっくに成（せい）獣（じゆう）になっているはずだった。

　おそるおそる手を伸（の）ばし身をかがめると、子狐がちょんと、佐名の鼻先に自分の鼻をくっつけてきた。

「……あ」

　この子狐の仕草には覚えがある。間（ま）違（ちが）いない。

「あなたなの？」

　幼い佐名の唯（ゆい）一（いつ）の友だちだったあの子狐に違いない。懐かしさがこみあげて、思わず子狐の頭を撫（な）でると、甘い香（かお）りがふわっと香った。安（あん）息（そく）香（こう）だ。その香りに佐名は、はっとして立ち上がった。白い子狐は佐名の怯（おび）えた目を見ると、身を翻（ひるがえ）し、開きっぱなしになっていた玄関の外へと飛び出していく。