結婚式のこの日。
大正十三年。師走に入ったばかりの、酷く寒い日だった。
筒乃屋の養女である野村佐名は、骨董商の堂島琢磨に嫁ぐために、昼過ぎに堂島屋敷に入った。十九歳という年齢にしては小柄で、実年齢よりも二つ三つ幼く見えたし、肩にかかる髪も、ばさついて脂気がない。手も荒れている。堂島家の使用人も家人も、そのことを気にしている様子はなかった。彼女が養女とは名ばかりで、実際は奉公人として十五年間過ごしてきたことは、周知の事実だった。
屋敷の北の離れに案内され、白無垢に着替えさせられた。
その後ようやく佐名は、夫となるべき堂島琢磨と初めて顔を合わせた。
年齢は三十二歳と聞いていた。佐名よりも十三歳も年上だが、それほど老けた感はなく、細面に切れ長の目が冷たそうな印象の男だった。しかし語り口は柔らかく、
「よく来てくれた。これからよろしく頼む」
と、静かに挨拶をした。
娶った妻が五人も立て続けに死んだ男だ。実は妻を殺したのではないか、あるいは、妻が死にたくなるほどの酷い男ではないかと、町の噂は散々だったが。
実際に会ってみると、堂島の印象は悪くなかった。
思ったよりは良さそうな人だとほっとして、「はい」と頷く。堂島は頷き返すと、佐名の控える座敷を後にした。
白無垢姿で、裏庭に面した北の離れの座敷に一人残された。
結婚式が始まるまで待てと言われて、ここに置かれている。
(白無垢って重いな)
掛下と呼ばれる白い振り袖は、純白に花の地模様が織り出された絹で、光沢と肌触りは素晴らしかった。その上に着せかけられている打ち掛けも絹だが、ずっしり重い。地模様のように見える刺繍が、銀糸で隙なくほどこされているせいだ。柄は七宝。
普段は織りの粗い木綿の着物しか身につけないため、絹の感触は慣れない。なめらかすぎて、くすぐったい。
薄く化粧もされた。鏡に映る紅をさした姿は、自分とは思えないほど女らしかった。
(これでわたしは、このお屋敷の人間になるんだ)
純白の衣装は清楚ながらも華麗で、自分の姿を別人のように美しく見せる。しかしその美しさは、覚悟を強いる緊張をはらんでいる。
結婚式は、どんなにめでたいと言われようが祝われようが、厳然とした儀式。人の妻となり、他人の家へその身を生涯置くためにおこなわれる儀式だ。美しく華麗な花嫁衣装も、覚悟を問われる儀式に挑む装い。儀式には装いが必要であり、特別な装いをすることによって儀式に挑む者の心は整う。
自分の姿が美しく見えれば見えるほど、緊張した。
豪華な白無垢は堂島が準備したと聞いたが、大切にあつかわれるのは今日だけだろうと、佐名は考えていた。大店の養女とは言え、実質奉公人だった娘を嫁に取るのだから、堂島が何を求めているかは推して知るべしだ。
(まあ、なんとかなるでしょう)
嫁入り、結婚式と言っても、嫁入り道具は一つもない、身軽なもの。
相手の堂島琢磨はこれで六度目の婚姻。そのため結婚式は堂島家の屋敷内で、身内だけで質素におこなわれることになっていた。
濡れ縁に面した障子は開いており、冷たい風が吹き込んでいる。白無垢を着ているので、寒くはない。頬に当たる冷気は、かえって気持ちいい。
初めて訪れたお屋敷の離れに、一人ぽつんと取り残されてふいに心細くなる。
普通の嫁入りであれば母親がそばにいて、言葉をかけてくれているはずだ。そんなときは、どんな優しい言葉をもらえるのだろうか、どんな眼差しを向けられるのだろうか──。
そんなふうに母親のことを考えそうになって、慌てて自分の心に蓋をする。
(そんなこと考えちゃだめだ。今のわたしには、どうでもいいことよ)
佐名に母親はいない。かつてはいたかもしれないが、もういない。自分を置き去りにした人のことなど、どうでもいい。それらの言葉で気持ちにしっかり蓋を閉めた。幾度も繰り返してきた気持ちの封じ込めは、今ではかなり完璧に近い形で成功するのだ。
それでいつもの自分に戻れた。
(なんとか、なるなる)
しゃんと自分を立て直し、一人頷く。
裏庭の、築地塀の向こうに冬特有の真っ赤で大きな夕日が沈む。日本橋區濱町にある、広すぎるほど広い堂島の屋敷は、裏庭にも松や紅葉が配され、綺麗に掃き清められていた。整えられた裏庭は黄昏に沈もうとしている。
どういうわけか、夕暮れ時の結婚式だった。
妙な風習のある家だと思って視線を室内に戻したとき、閉まっていたはずの正面の襖が開いているのに気がつく。
(あれ? あそこ、開いていたかな?)
きっちりと閉まっていたはずだと思い、襖の隙間から向こうの薄闇を見つめる。
ふっと、いやな臭いが漂ってきた。
(何、これ。臭い)
臭いに気づくと同時に、見えてしまった。流水を描いた襖の隙間にいる、異形の者の姿が。
ふーす、ふーす、と。肉が腐ったような吐息を吐き出しながら、異形の者は笑いを含んだ嫌らしい目でこちらを見ていた。
隙間から見えるのは、ぶよぶよした質感の巨大な丸い顔。ぱんぱんに膨れあがったその顔は、畳の上から天井に届く巨大さで、顔だけで襖二枚分はある。体はあるのかないのか、わからない。とにかく顔しか見えない。ふやけた大きな目玉が、ぎょろっと動く。
にたっと笑いの形に歪んだ口には、小粒な歯が並ぶ。
異臭がすさまじい。腐敗臭が座敷に漂う。
『ああ、美味しそうねぇ』
べろりと真っ赤な舌が現れた。ざらざらと畳を舐め、伸びてくる。
『いつ喰おうか。今、喰おうか』
唄うようにねっとりした声が言う。
『目玉だけを今喰って、すこおしずつ、すこおしずつ、指の先から毎日一本喰っていこうか』
正座した膝に置いた手指が、震える。
恐怖のあまり悲鳴もあげられず、喉がひくひく痙攣する。
(何、これ)
襖の隙間からこちらを見る異形は、とてつもなく恐ろしい。
(これが……これが原因だ)
これが、堂島の妻たちが次々に死んだ原因だとすぐにわかった。
(このお屋敷には、こんなものが取り憑いている)
邪悪なものだ。
こんな異形の者がこの世に存在すると、佐名は想像したことすらない。
佐名が普段目にする亡霊や異形の者、あやかしたちは、陰鬱にそぞろ歩くばかりが常。井戸端の女幽霊のように、憎まれ口をきくのがせいぜいで。彼らはただ道行く人々と同じで、佐名には見えているけれど他の人には見えていないというだけの、風景の一つで──。
(殺される)
それを悟った。
嫁入りすれば佐名も、間違いなく殺される。肌に触れる空気でわかった。
(『取って喰われはしないわよ』じゃない、莫迦! これは喰われるわよ!)
十日前の自分を、震えながら佐名は内心罵倒していた。
(堂島琢磨は確かに化け物じゃない。けれど、けれど。このお屋敷には化け物がいる!)
逃げなければ殺される。いや、喰われる。
全身から血の気が失せていた。
『ああ、とっても美味しそう。若いわねぇ。ゆっくり、ゆっくり喰ってあげる。堂島の妻になってこのお屋敷に入ったら、もうわたしのもの。逃げられやしない』
ざらざらざらと、舌が畳を這ってくる。
近づいてくる。
(逃げる機会は今しかない。結婚式が終わってお屋敷に入ってしまったら、終わり)
これほどの異形の者が住む屋敷に、妻という形をもって入り込んだら最後。家と縁を結んだ呪縛が異形の者に有利に働き、搦め捕られ、逃げ出すことは不可能になるはず。
覚悟の嫁入りだった。命と尊厳を取られなければ、耐えて夫に仕えようと決めていた。
しかし。
(このままじゃ、確実に命を取られる)
命を捧げるつもりは、はなからない。
(嫌だ。死ぬのは、嫌だ。そうだよ。わたしは命や尊厳を捨てる気はない)
真っ赤で大きなぶよぶよの舌が、佐名の膝を舐めそうになる。
(嫌!)
跳ねるように、咄嗟に立ち上がって後ずさりした。恐怖に突き動かされ、綿帽子を取り打ち掛けを脱ぎ捨て、掛下だけになって庭に飛び降りた。
(逃げなきゃ。このお屋敷から!)
庭づたいに裏木戸に向かい、堂島邸を飛び出す。
草履もはかず、足袋のまま。しかも掛下という、純白の振り袖姿は異様なほど目立つ。それでもとにかく逃げたい一心で、道行く人の好奇のまなざしの中を走った。
人目の少ない路地を選び、北に向かう。
あてがあったわけではない。南に下れば奉公先の筒乃屋があるし、見知った人も店も多いので、無意識にそれを避けただけ。とにかく今はあのお屋敷──堂島邸から逃げなければ、必ず殺されるだろう、と、その恐ろしさばかりで駆けていた。
堂島邸のある日本橋區を抜け、柳橋を渡って浅草區へ。
息があがる。
縄暖簾をかけた、間口の狭い店が並ぶ細い路地に入った。人通りはまだ少ない。
(どこまで走ればいい!? どこへ行こう。筒乃屋には帰れない)
このままどこへ逃げるのか。逃げた後どうするのか。恐怖と一緒に、不安が押し寄せる。
「待て!」
鋭い声がした。ふり返ると、三人の男たちの姿が見えた。尻っ端折りした着物は紺のお仕着せで、堂島骨董商会のもの。堂島邸の使用人たちだ。
逃げ出したことを気づかれたらしい。
(連れ戻される。あの座敷に連れ戻されたら)
異形がいる、異形に喰われる。そんな世迷言を誰も信じはしない。無慈悲に連れ戻された佐名は堂島の嫁になり、あの屋敷で異形に喰われて六人目の犠牲者になるに違いない。
(追いつかれる)
目についた路地に飛び込み、さらにまた別の路地へと走る。
追っ手をまこうと試みるが、掛下姿は目立ちすぎた。男たちは道行く人に、白い着物の娘はどちらへ行ったと鋭く問い、問われた者が思わず指さす先へと走り、追ってくる。
どこをどう走ったかは、わからない。あちこち曲がって、曲がって、路地に入り込み、また曲がって。
路地から飛び出した先は大通りだった。
日が沈みかけていたが、路面電車の軌道が敷かれた大通りには多くの人々がいた。掛下姿の佐名に驚き、周囲の者が足を止める。
「おい、お嬢さん。どうしたんだよ」
親切に声をかけてくれる人もいるが、助けを求められない。
結婚式の直前に、逃げ出したのは佐名なのだ。しかもその理由が「嫁ぎ先のお屋敷の化け物に喰われるから」だ。説明したところで、誰も納得しないだろう理由。ここで下手に助けを求めたら、逆に堂島邸に連れ戻されるのは確実。非は佐名にある、と。
「なんでもありません。お願い、通して」
集まった人をかき分け、別の路地に飛び込もうとした佐名の左手首を誰かが握った。
「本当に、なんでもないんです。放してください……っ!」
息が止まるかと思った。
佐名の手を握ったのは、黒い二重回しと黒い三つ揃いを身につけた青年。顔は陶器人形のように白く整い、くっきりとした綺麗な目が佐名をとらえていた。
動揺のあまり、視界が一瞬ぶれる。
どくんと心臓が鳴った。
(そんなはずない)
この顔には見覚えがあった。
生臭い鉄に似た臭いと一緒に、四歳の佐名の前に現れた男だ。あれは十五年も前のこと。
しかし青年は十五年前と変わらない、若々しく美しい顔立ちのまま。年を取っていない。
(嘘だ)
どく、どく、どく、と。心臓がさらに速く打つ。
「佐名」
不思議な余韻のある声で呼ばれた。
(わたしの名を知っている)
ぞっとした。間違いない。この男は、十五年前の男だ。
反射的に佐名は、男の手を力任せに引っ掻いた。驚いたらしい男の力が緩むその隙に、相手の肩を突き飛ばし、路地に駆け込む。
(何が、どうなってるの!?)
結婚式のはずだった。
義父に決められた相手と粛々と結婚するだけで、多少不安はあるものの、新しい奉公先に入るのと同じはずだった。
そうだったはずなのに──堂島邸には恐ろしい異形の者がいた。命惜しさに闇雲に逃げ出したら、どういう巡り合わせか、幼い頃に会った怖い男と遭遇するとは。
しかもその男は年を取っていない。
悪い夢でも見ているようだった。
気がついたら、筒乃屋の奉公人部屋に敷かれた布団の中で寝ていて、隣に寝ている同輩に「寝ぼけてたわよ」と笑われるのかもしれない。そうであってほしいのに、足袋が蹴る地面の感触は硬く冷たく、痛い。これが現実と知らしめるように。
路地の左右は煉瓦の外壁で、背の高い建物が密集している。
口で息をして走っていると、冷たい空気が喉を刺す。
(夢なら醒めて)
「待て」という、堂島の男たちの声が路地に響く。
逃げる方向を探して視線をあげると、建物の角に黒い影がある。さっきの男かとぎょっとするが、よく見れば墨染めの衣をまとい、脚に脚絆を巻いた僧侶だった。
騒がしさに気づいたらしい僧侶はこちらに顔を向け、目が合う。澄んだ目をしていた。
若い僧侶だ。右目の下にある泣きぼくろが目につく。錫杖を手にした彼の周囲は、不思議なことにぼんやり仄明るい。彼を中心に、その場の空気が浄化されているかのように。僧侶は佐名の姿と背後の男たちを交互に見て、眉をひそめ、つっと手を差し出すような仕草をした。
「こちらへ」と、その口が動いたような気がした。
その救いの手を取るべきか、取らざるべきか。
迷いが生じるよりも先に、横合いから飛び出してきた誰かに抱きすくめられた。強い力で抱きしめられ、全身を甘い香りが包む。これは安息香だ。
驚き、自分を抱く者をふり返り、全身がそそけ立つ。
黒の二重回しと黒の三つ揃い。白い肌と、整った目鼻立ち。あの男だ。
(わたしを喰う気だ。十五年前に喰いそこねたから、今、喰う気だ)
この男、間違いなく人ではない。
(わたしなんて、そんなに美味しくないよ)
そう口にして哀願をしたかったが、恐怖のあまり声にならない。
「十五年もかかった。やっとつかまえた、佐名」
耳元で囁かれると意識が遠のく。耳朶をかすめる吐息は甘く、ぞくぞくした。
(ああ、わたしは喰われるんだ)
そう思ったのを最後に、暗闇に落ちる。
◆◆◆◆◆◆◆
掛下姿の少女を抱き、彼は十五年ぶりの安堵感を覚えた。
「これで、わたしは約束を守れる」
気を失っている少女の頬に軽く触れ、ふと眉をひそめた。
「これは」
この少女が佐名であるのは間違いない。彼女の気配を覚えている彼には、間違いなく佐名だという確信がある。何しろ彼女の気配は、彼が記憶しているままなのだから。
しかし。それこそが問題だった。
「……こんなことが」
身につけていてしかるべきものを、この少女は身につけていない。愕然とした。
◆◆◆◆◆◆◆
若い僧侶は険しい顔で路地を見つめていた。大通りのほうから、掛下姿の娘を追ってきた三人の男たちも、唖然と僧侶と同じ場所を見ている。
掛下姿の娘は三人の男たちに追われて路地に飛び込み、僧侶のほうへ走ってきた。
追っている者たちの形相と、切羽詰まった娘の顔を見比べ、僧侶──純有は、娘に手を貸すことに決めた。
事情は様々あるのだろうが、若い娘を、大の男が三人がかりで追いかけることそのものが、純有にしてみれば非道だ。
かばってやろうと娘に声をかけた瞬間、白い影が娘に向かって走った。娘は白い影に包まれると、その場から忽然と消えた。
左右は煉瓦造りの壁。逃げる道も身を隠す場所もない。
「あやかしか」
純有は呟く。
現れる気配すら見せず、痕跡も残さず、まるで疾風のように去った鮮やかさ。よほど妖力の強いあやかしだろう。
純有は浅草のざわめきに耳を澄ます。悲鳴は聞こえない。
目の前であやかしが人をさらったことに、純有は少なからず衝撃を受けていた。自分がそのような場に居合わせ、しかも指一本動かせなかったとは。表情はさざ波一つない湖面のように穏やかだが、内心は忸怩たる思いだった。
「浅草には、よほどのあやかしが住むと見える」
懐から鈴を出し、一つ鳴らして目を閉じる。
(あの娘、助かれば良いが)