「命と尊厳以外なら、だいたい売り渡してもいいよ」
確かに、佐名はそう口にした。
それは堂島琢磨に嫁げと義父に命じられ、それを承諾した日。十日前のこと。
嫁ぐと知った同僚の奉公人たちは口々に、なぜ断らなかったのかと佐名に訊いた。
「いくら育ての親だといっても、旦那様は横暴すぎる」
「育ての親とは名ばかり、佐名ちゃんはあたしたちと同じ、奉公人としてあつかわれているじゃない。あたしたちがもらう、盆暮れのお小遣いももらえないし。奉公人よりひどい」
「しかも嫁ぐ先が、あの堂島骨董商会の堂島琢磨だろう」
「次々に嫁が死ぬ、あの堂島よ」
「もう五人も嫁が死んでるんだぞ」
「そんなところに嫁ぐのを、どうして承知しちゃったの」
お店の裏庭の井戸端で同僚たちに囲まれた佐名は、水桶を抱えたまま、何でもないことのように答えた。
「だって、断ったらお店を追い出されるよ?」
裸足の足先が冷たくて、足踏みしながら言葉を続けた。吐く息も白い。
「他のお店に奉公するための紹介状ももらえずに、この広い東京市に放り出されたら、飢え死にするか身売りするしかなくなる。だったら新しい奉公先だと思って、お嫁に行く。顔も知らない相手に嫁がされるなんて、普通なんだもの」
佐名は四つのときに浅草で母親に置き去りにされた。身なりが良かったらしく、ちゃんとした家の子どもだろうということで警察に保護されたが、身元はわからずじまい。
結局、篤志家として知られていた、日本橋の呉服屋・筒乃屋の主人に養女として引き取られた。養女といっても、仲間たちも言うように奉公人と変わらない境遇だった。十歳のとき、自分の姓が「野村」で、筒乃屋の主人と同じ姓なのは、自分が戸籍上は主人の娘だからなのだと知って、驚いたくらいだ。
この身の上では義父の命令に逆らえるわけはない。
同僚たちもそれは承知の上で、それでも納得できずに、やんやと騒ぐのだろう。
「それでも、怖くないの?」
「嫌じゃないの?」
「哀しくないの?」
矢継ぎ早に問われた。
さらに井戸端に座って暗い顔をしていた女が、佐名を見上げて憎々しげに言う。
『いい気味。泣きわめけばいいのに』
その女だけは、他の仲間たちとは違って半分体が透けているし、佐名以外の人には見えていない──幽霊なのだ。
(おっと、珍しい。喋ったね)
この女の幽霊は、佐名が四つでこの店に来たときから、ずっとここに座っている。滅多に喋ることはなかったが、口を開けば憎らしいことしか言わない。当初は憎まれ口にもつきあって、あれこれと話しかけていたのだが、そのうちそれも止めた。周囲の者が、佐名を気味悪がりはじめたからだ。それに気づいてからは、なるたけ返事はしないようにしていた。
この女幽霊だけではなく、佐名は亡霊や異形の者、あやかしが見える。
それを怖いと思ったことはない。
なぜなら、物心つく前から彼らが見えるのが当然だったから。この性質は生まれつきのものだろう。見えて当然のものを、いちいち怖がれはしない。しかも彼らは、陰鬱な顔をしてそぞろ歩きするのがせいぜいで、こちらに干渉してくることは滅多にない。だから怖くない。
亡霊や異形の者、あやかしの姿は、佐名にとっては風景の一つ。道行く見ず知らずの人々と同じ。
佐名は女幽霊に聞かせるように、明るい声で答えた。
「怖いし、嫌だし、哀しいけど。生きるためには仕方ない」
運命に絶望し暗い顔をしても、落ち込んでも、神や仏を呪っても、どうしようもない。
どうしようもないことに打ちひしがれて自分を哀れむのは、惨めだ。
自分を可哀相がって、めそめそぐずぐずと泣き言を口にして、暗い顔をして生きていても、誰も救ってくれない。皆自分のことで手一杯なのだから、佐名を救う余裕などない。それはこの十五年で身に染みて知った。
惨めになるのは嫌だ。だから、できるだけ自分を可哀相がらないようにしたい。
だからといって、哀しみも恐怖も感じないわけではない。自分の中にひっきりなしに入ってくるそれらを、宥めていなすことができる、ということなのだ。
自分の心に蓋をする努力は必要だった。
「命と尊厳以外なら、だいたい売り渡してもいいよ」
確かにそう言った。そしてこうも続けた。
「堂島琢磨だって、化け物じゃないでしょう。取って喰われはしないわよ」
しかし。
そう口にした暢気で常識的な自分を、佐名は今、殴り倒したい。