お母さんは毎日、隙のない美しい身なりをしていた。
そしてわたしにも毎朝、「今日はこのお着物にしようね。素敵なものを身につけるとね、楽しくて素敵な気分になるからね」と言って、銘仙の花柄や幾何学模様の、色とりどりの着物を着せてくれた。
色半襟や刺繍半襟、時にはレースの半襟を合わせて、可愛らしく華やかに。明治という古い時代を脱ぎ捨てた、大正当世風のモダンな着こなしが、毎日を彩ってくれた。
自分が派手派手しいものは身につけないぶん、娘のわたしの着物で遊んでいたのだろう。いつもお母さんはきっちりと清楚な装いで、そうする必要がある、とも言っていた。
お客様をお迎えするためだ、と。
うちには時々、ふいに客人が来た。どんなお客様か知らないが、お客様が来るとわたしは必ず、家の奥で静かにしているように言いつけられて、お客様と顔を合わせないようにしていた。
可愛らしい鮮やかな着物を着て、お客様とお母さんの、さざめくような楽しい笑い声を奥の座敷で聞きながら、畳の上でビー玉遊びをするのが好きだった。
そんなときにはいつも一緒に、真っ白なふわふわ毛皮の子狐がいた。
子狐はビー玉にじゃれることもなく、ただじいっと、わたしの手元を見つめていた。
子狐がいてくれると安心した。真っ黒い瞳は落ち着いていて、わたしの言葉も思いも、全て分かっているような顔をしていたのだ。
うまく転がらないビー玉に焦れて、ふて腐れて畳の上に転がると、子狐がわたしの顔を覗き込む。あんまり近くに寄ってくるものだから、ふと悪戯心で鼻先と鼻先をくっつけてみた。子狐がきょとんとした目をしているので、わたしは面白くなってけらけら笑った。子狐の黒いビー玉みたいな目が、綺麗だった。子狐が心配そうにわたしを覗き込むたびに、そうやっていたように思う。そして子狐はわたしのことが心配になると、顔を覗き込み、自分から鼻をくっつけてくるようになっていた。
どんなにふて腐れていても、子狐の冷たくて濡れた鼻がわたしの鼻先に触れると、ふっと笑い出したくなって気持ちが晴れていた。子狐はわたしの唯一の友だちだった。可愛くて大好きだった。
◆◆◆◆◆◆◆
冬の夜、浅草の盛り場に置き去りにされた。
置き去りにしたのは、お母さん。
いつもは家から出ないようにと言っていたのに、その日のお母さんは、そわそわとわたしを家から連れ出して浅草の盛り場を引っ張り回した。すっかり暗くなる頃、四歳だったわたしは疲れて寒くて、「もう歩けない。おうちに帰りたい」と泣き言を口にした。
するとお母さんはわたしを、浅草公園四區の、池の畔にある石に座らせた。
「ここで待っていて」
それだけ言うと、妙に急いだ様子でその場から立ち去った。
池の向こう側には、空に挑むような背高のっぽの浅草凌雲閣。
この寒空、宵の口にも人波は途切れず、それどころか派手派手しい着物に白粉の香りが強い女たちの姿が、多くなってきた。彼女たちはわたしに見向きもせず、道行く男の人に声をかけていた。男の人たちも彼女らに声をかけ、笑顔で言葉を交わし、連れだってどこかへ行く。
夜でも寂しくないとほっとしていたが、さすがに真夜中になると誰もいなくなった。
怖くて、寒くて、わたしは泣き出した。
お母さんが戻って来ない。わたしは待っているのに。
心の中で、誰かが意地悪く囁きはじめた。
『お母さんは、待っていてと言っただけで、戻ってくるとは言わなかったよ?』
と。
ますます怖くなって泣いた。
冷え切った足先も指先も頬も、感覚がないほど。雪もちらつきだし、凌雲閣の灯りも消えて、闇が濃くなる。俯いたわたしの頬を伝う涙だけが熱かった。
泣き疲れた頃に足音がした。
やっとお母さんが戻ってきたと思って笑顔で顔をあげると、目の前に見知らぬ若い男の人がいた。
黒い二重回しと、同じく黒のサキソニー生地の三つ揃い。綺麗な顔をした男の人だった。陶器人形のようにするりとした白い肌に、軽く耳にかかる柔らかそうな髪。くっきりとした二重まぶたの目が、わたしを見つめていた。
見惚れるほど美しい人だったが、わたしは思わず、袖で自分の鼻と口を押さえた。
その人からは生臭い血の臭いがした。
よく見れば、スタンドカラーの白襟に、どす黒い血がべっとりついている。それだけではない。三つ揃いもマントも黒く濡れているのは、血ではないだろうか。
おののき、瞬きすらできないわたしにその人は近づき、手を差し出した。白い指先にある爪の隙間が、黒っぽい赤に染まっていた。こびり付いた血だ。
「おまえの母親はもう、帰って来ない」
低く落ち着いた声。氷の上を水晶玉が転がるような不思議な余韻のある声だったが、それが恐ろしかった。この世ならぬ者の声のような気がして。
「おまえは、一人だ」
真夜中の町に、一人きり。助けはいない。怖い──喰われる。なぜかそう感じた。
「佐名」
さらに一歩、その人が踏み出した瞬間。わたしは座っていた石から飛び降り、彼の傍らを駆け抜けていた。
「待て!」
鋭い声と素早い手が、わたしの襟首を掴もうとしたが、身を低くして横に跳んでかわし、全速力で駆けた。
怖い。怖い。怖い。逃げなきゃ。
降り続く雪をかき分けるようにして、闇の向こうへ、懸命に走った。