(取り逃がしたか)
しゃんと手にある錫杖を鳴らして石突きで地面を突くと、純有は立ち止まった。
確かに昨日の娘と、あやかし一匹は視界に入っていたはずなのに、路地の角を曲がって彼らの姿が一瞬だけ見えなくなった。すぐに純有も角を曲がったのに、彼らの姿はなかった。忽然と消えた。その先は行き止まりにもかかわらず。
寺院の裏だろう。通りに面して生け垣があり、その向こうには本堂の壁と墓地。道を挟んで逆側には、民家の板塀が連なっている。
(あやかしに拐かされたと思っていたが。実は、あやかしの仲間だったのか、あの娘は)
あの娘が人であるのは間違いない。ただ、人でありながらあやかしの側に身を置く者どもは、古から存在する。人の世に背を向け、あやかしと結託し妖力を蓄える者たちが。
彼女がその一員でないとは言い切れない。そうであれば人間であっても、あやかしと同類と見なし、滅するべき存在。
(ことに、ここは浅草。焔の一族の痕跡がある)
鋭い光が純有の目に宿る。
(あの娘が一族の生き残りであれば)
「足が速いなぁ、坊さんよ」
背後から声をかけられた。その男が純有の後を追っているのには気づいていたので、驚きはしなかったし、ふり返ることもしなかった。
鳥打ち帽を被ったその男は、笑顔で純有に近づいてきた。純有よりも少し年長だろうが、ふらふらといい加減に生きている者のようで、態度が悪く言葉遣いもなっていない。
「あんた、あの娘の知り合い? それとも見ず知らずだが、あの娘と話でもしたいのかな? 一目惚れかい? なんにしても協力してやってもいいぜ。俺はあの娘とはちょいと因縁があってね」
馴れ馴れしく肩に手を置き、男は純有の顔を覗き込む。
「あの娘は何者だ」
「払うもの払ってくれたら、教えてやるよ」
「あなたは、あやかしの下僕か」
「は?」と、男はきょとんとした。
「違うようだな……」
口にしたその瞬間、ぞっと背筋に悪寒が走る。冷たい妖気。太陽の光が明るく降り注ぐ冬の空気が、純有の周囲だけぴたりと動きを凍結させたようだ。
「桂川龍介」
不思議な余韻のある低い声。声の方向を見やると、生け垣の向こうに一人の男が立っていた。黒の二重回しを身につけた青年を見て、純有は息を詰めた。
(恐ろしいほどの妖気。しかし……美しい)
距離は三歩。これほど近付かれるまで気配に気づかなかったのは、周辺の空間全てを自らに同化させるように広範囲に妖力を拡散できるためだ。よほど妖力が強いあやかしでなければ、ここまで力を制御できまい。
「これはこれは。忽那先生」
あやかしから、桂川龍介と呼ばれた男は、大仰に腰を折って芝居がかった礼をする。顔をあげると不敵な笑みを見せた。
「先生を捜していたんですよ。ちょっと、お宅に伺いたくて。家の場所、教えてもらえません?」
「礼金は払った。その先の詮索は無用と言ったはず」
「先生の依頼は終わりましたよ。けれど、俺は商売しているんでね。別の依頼もありまして」
「命が惜しければ、わたしに関する依頼は断るべきだな」
あやかしがうっすら笑うと、龍介の顔が引きつる。
「冗談きついですよ」
「わたしは、冗談は嫌いだ」
それから美しい瞳に純有の姿が映る。
「貴君は、見たことのない顔だ。しかしその殺気には随分昔から覚えがある。代々受け継がれる術の気配だな。妖狩寮の者か」
「帝都に……おまえのような者がいるとは」
「わたしのような者? 言うではないか。わたしが何者かも、わかるまい?」
余裕の笑みで彼は続ける。
「二人とも、わたしには関わらない方がいい」
それだけ言うと身を翻す。寺の本堂の陰へ消えた。
龍介はぽかんとしていたが、純有も動けなかった。
あやかしの隙のなさに動く機を逸したのもあるが、それ以上に、あやかしの佇まいと容貌の美しさに驚いたのだ。あれほど、美しい姿のあやかしが存在するとは。古文書の中に残る、伝説のあやかしのようではないか、と。
(あんなものが、まだ、この地に存在するのか)
純有は背後に立つ龍介をふり返った。
「あなたは、あの者が誰か知っているのだな。何者ですか」
問われた龍介は顰め面で答えた。
「忽那青紀だよ」
「忽那青紀?」
聞き覚えのある名だが、どこで聞いたかは思い出せない。龍介は驚いたように声の調子を一段上げる。
「知らないのかい。作家の忽那青紀だ」
「ああ。聞いたことがあります」
流行作家の名だ。純有のような修行三昧の人間にとっては最も縁遠い娯楽世界だが、名だけは時に耳にする。意外な驚きだった。あやかしが人として世に交じり生きることは多いが、世間で名を知られるようにまでなっている者には、滅多に会ったことがない。そうなるには、あやかしとしての妖力以上に、人の世を渡る用心深さと才覚がなければならない。
「作家。そうですか」
「あんたがなんのつもりで、あの娘を追っかけてたかは知らないが。あの先生の様子じゃ、手を出さねぇ方が無難だな。俺も、よけいなことをしない方が良いかもな。おっかないぜ」
唾を吐いて歩き出した龍介の背を見送り、純有は内心で「あなたは、その方が良い」と呟いた。だらしない感じの男だが、勘が鋭そうで、そのおかげで生き残っている種類の人間だろう。
純有は、あやかしが消えた方向に再び目を向ける。
(強大な妖力のあやかしだ。人の形をしているが、本性は、なんのあやかしであろうか)
路面電車が軌道を走る音が、冬空に響いていた。
(忽那青紀、か)
◆◆◆◆◆◆◆
茶釜がお勝手で出汁をとり、雑炊の準備をしている間に、女の子が目覚めた。
眠ったことで元気を取り戻したらしく、茶釜が準備した玉子雑炊をがつがつ食べた。茶釜の作った雑炊はなかなかのものだった。
使い込まれた土鍋に、つやつやぽってりとした軟らかく炊かれた米。昆布出汁で炊いてある。しらすを混ぜ込んでいるので、ほんのり磯の香りがした。それを包むように半熟の溶き卵が表面を覆う。真ん中に、しゃきしゃきとした三つ葉を刻んでのせてあった。
「美味しそうね」
と褒めると、茶釜は三回宙返りして、「それほどでもないですぽん」と、照れていた。
食事の後、女の子を風呂に行かせている間、佐名は蔵へ向かった。女の子の着物があまりにもひどかったので、着替えさせるつもりだった。身なりを変えることで、ぼろぼろで逃げてきたという女の子の気持ちを少しでも明るくできるはずだ。
見つけ出したのは、おそらく佐名が幼い頃に着ていただろう着物。子どもらしいきっぱりした赤地に、白い格子模様。帯は溌剌とした黄色。
風呂上がりにそれを着せ、髪をくしけずると、見違えるほど可愛らしくなった。
頬はふっくらとして、にかっと人なつこく笑うとえくぼが出る。笑顔は、やんちゃそうにすら見えた。
「可愛いおべべ。ありがとう」
女の子はくるくると、畳の上で二回転ほどして、袖がひらひらと揺れるのを楽しむ。
「似合うわ」
「うち、ずっと昔から、赤いおべべが欲しかってん」
疲れがとれて腹も膨れ、清潔になったこともあるだろうが、それ以上に女の子は、赤い着物が嬉しそうだ。頬を上気させている。
「喜んでくれて、よかった」
「うん、うん! 生まれ変わったような気分やわ。可愛いわぁ」
安心と心地よさを手に入れた上で、さらに重ねられた喜びを感じて、佐名も嬉しくなる。女の子の仕草も表情も、見違えるように溌剌としていた。
(たかが身なり、されど身なりね。表情まで違うもの)
自分が選んだ着物が女の子に似合っていることに、満足した。
「馬子にも衣装ですね!」
茶釜が、褒めているのか貶しているのかわからないことを口にする。
「あ、茶釜……。その、この子は」
子狸が喋り出したら、女の子は驚いて飛び上がるのではないか。佐名は慌てて女の子をふり返ったが、彼女は驚きもせず、にっこりした。
「この子、喋れるんやね。偉い子狸やな。玄関でも喋っとった気もするけど、うち、あんときはふらふらやったさかい、こんな偉い子やと思わへんかった」
「喋れるどころか、料理もお掃除もします。ちなみに雑炊を作ったのも僕です」
後ろ足で立ち上がりふんぞり返る茶釜に、女の子は「そら、おおきに」と頭を下げた。
「驚かないの?」
佐名の方が、女の子の反応に驚いた。
「うん、別に。だって狸は化けたり化かしたりするのが普通やん」
そんな剛胆なことを言う。
廊下側の襖が開く。青紀が来たのかと身構えたが、細く開いた隙間からするりと入ってきたのは、真っ白な九尾の子狐だった。茶釜が嫌そうな顔をしたが、子狐は茶釜など無視して佐名と女の子の傍らに来て、ちょこんと座る。
「この子、この家の子なのよね、茶釜」
訊くと茶釜は、鼻の付け根に皺を寄せる。
「品のない、可愛らしくもなんともない、ぽんこつ狐は、この家に住んでます」
「仲悪いの?」
「狐ですよ!? 兎よりはましですけど。僕、兎を見るとどんな兎でも、泥舟にくくりつけて川に流してやりたくなるんです」
「かちかち山ね……気持ちはわかるけど、やっちゃだめだよ」
女の子は畳に正座すると、子狐に向かって深々と三つ指をつく。
「お邪魔しております」
◆◆◆◆◆◆◆
なぜか丁寧な挨拶をする。応えるように子狐が、ふぁさふぁさ尻尾を振る。
佐名は子狐を抱きあげて、胸に抱えた。茶釜が、ますます嫌そうな顔をして「ご主人様。毛まみれになって、ばっちいです」と注意する。
「ありがとう。この子にもご挨拶してくれて」
「当然やん」
顔をあげた女の子の前に、子狐を膝に抱いて座る。背を撫でられる子狐を横目で見て、茶釜が「嫌らしいなぁ」とぶつくさ言っていたが、子狐はつんと澄まし顔だ。しかしあまりにも茶釜の不平たらたらの呟きがうるさかったのか、すぐに佐名の膝を下りて廊下へ出て行った。
「昔から狸と狐は仲悪いて決まってる、相場通りやな」
女の子は面白そうに、きゃらきゃら笑う。
「あなた、名前はなんていうの?」
「童って呼ばれとるよ」
「それは名前じゃないよね。『坊や』とか『お嬢ちゃん』って呼ばれるのと一緒だから。あなた自身の名前は?」
「名前は、ない」
「そうなの? お父さんとお母さんは? 堂島邸にいつからいたの?」
「お父ちゃんもお母ちゃんも、知らん。ずうっと昔にはいた気もするけど、覚えてへん。堂島屋にはな、昔から住んでたんや。堂島が上方にいた時から一緒にいて、東京にも一緒に来たから」
「上方?」
堂島家の先祖は江戸時代には堂島屋と号し、大阪で小間物の商いをしていたと聞いている。それが御維新とともに東京に移り、骨董商となり、明治末期に堂島屋から堂島骨董商会に屋号を改めた。
この女の子は、上方から堂島と一緒に東京に来たと言う。しかも堂島家の屋号を、今は誰も使わない堂島屋と呼ぶ。
さらに喋る子狸に驚きもせず、当然のように受け止めた。
(まさか)
佐名は目の前の女の子を見つめる。