【第二章 はじめての自由は、蜂蜜と檸檬の味がした】1-3
「……まあ、出来なくても気を落とさんで? これ、出来る人間の方が、圧倒的に少ないんよ。ぶっちゃけ挑戦させて、ブラッド・エーテル代で荒稼ぎするためのもんだから」
「──静かに……集中する」
シキは呟き、掌上のコマを凝視した。鈍色のそれには、見た目以上の重量がある。
(体内の死素……消化管に落ちた液体が、吸収され、血液に溶け、全身を巡る……)
マニュアルで得た知識から、シキはイメージを膨らませる。
(……粒子の形状を変化させ、掌に開口する微細な管から、魔力の流れを形成する。コマの底面に、意識を繋ぐ──移植する)
ふるふると細かく揺れながら、コマがゆっくりと起き上がる。
(……固まった魔力柱に……また、新たな……紐状の意識を、絡めてゆく。きっちりと、ぴったりと、全周性に絡め終えたら……そのまま一気に、意識を引き抜く!)
びゅん──小さな風が、掌を撫でる感覚がして。
起き上がったコマは、ゆっくりと震えながら動き出し……やっとのことで一回転。そのままコテンと倒れると、一切動くことはなくなった。
ただ集中しイメージを膨らませていただけなのに、疲労感は想像を絶した。立っていることも出来なくて、シキはカウンターにもたれ掛かって荒い呼吸を繰り返す。
「……今の僕には、これが限界だな」
あいつなら──伝説の英雄が遺した祝素体さえ使いこなせるエヴィルなら、このコマをギュンギュン回せるんだろうな。そんなことを思うと、少し悔しい心地がして。
「いや、でも、たぶん合格……だと思う」
ヒューカが、マニュアルと睨めっこしながら口を開く。
「どんなに不格好でも、コマが一回転すれば……第三種祝素体適性あり、だって。お、やるじゃん! ……ただいま条件に適合する依頼を探しますので、少々お待ちください♪」
「え……本当に?」
第三種祝素体適性。これはシキにとって、少々意外な結果だった。
魔法時代。一般市民に広く開かれた祝素体は、いわゆる「第四種」と呼ばれるものだった。これは大気中に祝素さえ存在すれば、ほぼ全ての人間が、不自由なく利用できるレベルに調整された汎用祝素体だ。
しかし「第三種」ともなれば、少し意味が違ってくる。これは一部の専門職などが使用していた祝素体で……簡単に言えば、魔法時代全盛期ですら限られた人間にしか扱えなかった道具なのだ。
(……たしかガリラド大聖堂で、聖水を作るための祝素体も「第三種」だったな。そうか……僕にも、その程度の力があったのか)
ヒューカは懸命に、散らばった書類の束を漁っている。条件に見合った依頼を、どうにか探そうと頑張ってくれているのだ。
「あっ! これなんて、なかなか良さそうだと思わん?」
探し当てた依頼用紙を、シキは受け取る。紙はかなり古びていたが、目を凝らせばどうにか読める。シキは、依頼に目を通した。
「……依頼者、ガボット=レイン。城塞都市第一層北部、ホニット=レイン大図書館での司書業務。日当一万リッツ、第三種祝素体適性必須、明るく元気な少年希望……?」
自分が「明るく元気な少年」である自信はないが、図書館というのは魅力的だ。ここを拠点にすればかなり効率良く、城塞都市の情報を入手することが出来るだろう。
ヒューカに聞けば、報酬も良い方であると言う。司書に「第三種祝素体適性必須」である意味は不明だが……それはそれで、楽しみでもある。
「うん、この依頼受けてみる」
「え、ホント? わあ、やった! なんかオススメしたのが気に入られるって……すっごい爽快なことなんね!」
予想外に嬉しそうな顔をして、少女はにっこり微笑んだ。
「……それじゃ、次は所属クローネについてだけど……」
ヒューカがそう切り出すと同時──背後でキィとドアが開いた。
次の瞬間。目が覚めるほど元気な声が、部屋いっぱいに響き渡る。かすれているのに底抜けに明るい、独特な印象の声だった。
「こんにちはーっ! 依頼、受け取りにきましたーっ! カメリア・クローネ所属、魔法適性なし! だけどプラチナ等級が自慢! 安心と実績のロティカ=マレですっ!」
振り向けば、そこに一人の少年がいた。
快活そうなショートカットが似合う、秋風のように爽やかな印象の子だ。巨大なバッグには葉や木枝が突き刺さり、ホットパンツから伸びる細い両脚は、擦り傷だらけの泥だらけ。イバラを模った特徴的な
「……キミ、すごいねえ! さっき渡した依頼、もう全部こなしたん?」
受付台のヒューカが、驚いたような声を上げる。すると少年──ロティカは、得意げに胸を張るのだった。
「もちろんですっ! 圧倒的な素早さ自慢のロティカ=マレですのでっ!」
見れば奥の壁には、等級に関する説明文が掲示されている。
等級とは年齢・魔法適性に関わらず、依頼をこなした件数・その成果によって認定されるものであるらしい。要はメンバー個人の信頼性を、客観的に表したものということだ。
登録したばかりの新人は
このロティカという少年は、かなりやり手のメンバーであるようだ。
「……また同じような依頼になっちゃうんだけど、いいかねえ? いろんなレストランから、競うように
「あー、最近ブームですからねえ……どんとこい、です! 採集大好き!」
「助かるー。そんじゃ、これを……」
そう言いながら、ヒューカは机から依頼書束を取り出した。あらかじめ用意してあったのだろう、表紙にはすでに『カメリア・クローネ専用』と書かれていて。
「……ん?」
彷徨っていたシキの視線が、ロティカの背中でぴたりと止まる。
背中に何かがくっついている。ぺったりとくっついている。
それはどうやら、人間であるらしかった。ロティカのシャツをぎゅっと掴んで、居心地悪そうにもじもじしている。
「あっ、サタにも依頼来てるよ! 良かったねえ、一緒に行こう!」
ロティカの声に反応し、背中のくっつきむしがほんの少しだけ顔を上げる。
顔立ち自体は整っているが、野暮ったいおさげのせいで暗い印象が拭えない。身長はロティカよりも高いのに、その振舞いのせいでずいぶんと小さく感じられる。誰とも目を合わせようとせず、いかにも気弱そうな少女だった。
腰には鎖がベルトのように巻かれていて、そこから瓶が三本ほど下げられている。飲み水携帯用の瓶のようだが、かなりサイズの大きなものだ。細い体と相まって、随分とアンバランスに感じられる。
「……やんない。採集きらい。あの葉っぱ、カメムシみたいな匂いするし」
「そんなこと言ったら、レストランに来てる人たちが悲しむよ! ……ほら見て、サタ。
「……やんない。仕事きらい。お仕事なんかしなくても、ロティカが飼ってくれるもん」
「いや、そりゃ捨てたりはしないよ? でもさあ……」
ロティカは、困ったように肩をすくめる。それでもサタは譲らない。
「……今日付いてきただけで、褒めてほしい。いっぱい褒めてほしいのに……今日のロティカ、厳しい。ひどい……超死にたい」
「わかった、わかったよ! うん、サタは偉いっ! ごはん食べて偉い! お風呂入って偉い! 呼吸してて偉い! 生きてるだけで最高に偉い!」
結局はロティカが完敗し、際限なくサタの存在を褒めちぎって場が収まる。
するとサタは満足したように、再びロティカの背中に顔をうずめた。ロティカは困り果てたような溜息を吐いて、ヒューカにそっと問いかける。
「あのー……ちっちゃい死獣の討伐依頼とか、出てないですか? この子、死獣狩りにはそこそこ自信があるみたいで……」
「いやー。さすがに死獣が出たら、こんなに悠長な募集してられんよー。そーゆーのは常設依頼ってやつだからさ、詳しい事はこれを読んで……あっ、お読みくださいね♪」
思い出したように受付嬢口調になりながら、ヒューカは机上の説明文を指差した。
都市の治安を乱すトラブルに関して、その解決に携わった協力者には、その働きによって自警団から報奨金が支払われる──そういう仕組みであるらしい。
「やっぱり、そうだよねえ……でも最近、死獣なんて……」
「ここの資料を見る限り、何年も確認されてないみたい。まあ、平和で良いことだとは思うけどねえ。そもそも、この都市では《厄死の子》が……」
その後も二人はしばらくの間、死獣に関する会話をしていた。
やはり城塞都市の人々は《死道標》や《死予言》という事柄に関して、それなりに正しい知識を持ち合わせているようだった。ノルの悪性化や、かつて神を殺した《六英雄》の存在まで、当たり前のように理解している。
改めて、アイリオ国がどれほど異常な存在であったかを、シキは強く実感した。
この城塞都市の存在は、アイリオ国にとって極めて目障りだったはずだ。ここの自由な文化や思想が、ふとした瞬間に城壁を越え、あの国に流れ込んでしまったら──アイリオ国が必死に築き上げた統治体制は、おそらく一瞬のうちに崩壊の危機へと晒される。
だから、あれほど規制が厳しかったのだ。
悪い噂を誇張して、城塞都市がこの世の地獄であるかのように吹聴した。どんなに探してもまともな情報に行き着かなかったのは、決して偶然などではなかったのだ。
「うーん……わかった! それじゃ、また来るねーっ!」
依頼書をバッグにしまい込み、ロティカが大きく手を振った。
同時にサタも、ほんの少しだけ顔を上げる。金属めいた琥珀色の瞳、うっすらとグレーがかった独特の髪色。どこかで見たことのあるような、その色に──。
「……君、出身は?」
反射的に、シキは訊いた。
顔を上げたサタは、驚いたようにこちらを見る。見れば見るほど、その色は──アイリオ国で最も一般的な……通称〝純血の色彩”と呼ばれるものに、間違いなくて。
「え……あっ……」
だらだらと冷や汗をかきながら、サタはあからさまに動揺した。
瞬間、シキは警戒を強める。純潔の色彩、死獣狩り──もしかしたら彼女は、アイリオ国から送られた密偵かもしれない……瞬時にそう、思ったからだ。
ならば彼女を試すまで。シキは懐から、
アイリオ国関係者であるならば、これを粗末に扱われて黙っていられるはずもない。
そのまま、床に時計を叩きつけようとした──その瞬間。
「さ……サタを、殺しに来たのっ……? でも、サタは……もう、の、ノルの……」
怯えたような声がして、ぐびぐびっと、激しく喉を鳴らす音がした。
サタが水を飲んでいる。腰に下げていた大瓶を、一気に流し込むように飲み干した。その異様な光景に、シキがあっけに取られていると。
「の、の、ノルの手先には……戻らないって決めたんだもん! ……てーいっ!」
裏返った雄叫びを上げ、少女はシキに飛び掛かる。
「……やめとけ」
錯乱気味の少女の手首を、シキは的確に掴んで止めた。
サタはさっと青ざめて、口をぱくぱくしながら震えている。
「あ……あうぅ……」
「安心しろ。別に、君を殺しに来たわけじゃないよ」
その場でぺたんと座り込んだ少女に、シキはそう語り掛ける。
どうやら彼女は、間違いなくアイリオ国出身であるらしい……が、スパイというわけではなく、むしろ境遇の似た亡命者であるようで。
「ど、どうしたのサタ!? 突然殴りかかるなんて……すみませんっ! この子、いつもは大人しいんです……」
ロティカはすっかり仰天して、ぺこぺこと何度も頭を下げた。
「いや……僕も悪かったよ。ごめんな、驚かせて」
「……うぅう……ひどいことしないなら、ゆるすぅ……」
蚊の鳴くような声で呟くと、少女はカラカラになった喉を潤すように、ぐびぐびっと水を飲み干した。
それと同時にカウンターのヒューカが、何かを思いついたような声を上げる。
「……あっ……そうだ! シキさん、シキさん!」
ロティカ、サタ、シキは同時にヒューカの顔を見た。どこか自信ありげな表情のヒューカはマニュアルを目で追いながら、すらすらと言葉を紡いでゆく。
「ご案内です♪ そちらの方々が所属する、カメリア・クローネに入る……というのは、いかがでしょう?」
「えっ、えっ? きみ、うちのクローネに、入ってくれるの?」
ロティカは驚いたような声を上げ、シキの手を取りぴょんと跳ねる。そして丸い瞳を輝かせ、嬉しそうに微笑むのだ。
「すごく助かります〜。うちのクローネ、メンバーがぼくたちしかいないから……」
「え、二人? 二人しかいないの?」
思わずシキが驚くと、ロティカは困ったように肩をすくめた。
「そうなんです……各クローネには、メンバーが生活するための生活棟が、それぞれ与えられるんですが……」
それは多くの場合、監獄時代の独房棟を改装したものであると言う。
「……改装前の“カメリア独房棟”が、まあ……飛び抜けて汚い場所でして。内部はそれなりに綺麗なんですよ? ただ外観が、あまりにひどいから……」
全然、人気がないんです。
そう言ってロティカは、残念そうに肩を落とした。途中で何人かメンバーが入ったが、全員怯えて逃げてしまい……気付けばロティカとサタの二人だけが、不人気クローネに取り残されてしまったのだと。
「だからメンバー加入、大歓迎ですよっ! 外観は最悪ですが……中には珍しく、温泉なんかもありますし!」
「……温泉……?」
「あ、知らないか。お湯が沸いてて、そこで水浴びすることが出来るんですよっ!」
いや、知らないはずがない。
懐かしい響きに、シキの胸は人知れず躍っていた。
祖国では当たり前のように沸いていた温泉が、アイリオ国には存在しないと知った日は落ち込んだものだ。アイリオは気温の高い国だから、寒さに困ったことはないけれど……それでもゆったり湯に浸かる心地よさを、忘れたわけでは決してない。
「……分かった。入るよ、君たちのクローネに」
「ええ!? 本当ですか! やったあ、言ってみるものですね! 今後の参考にしたいので聞きたいんですが、どこが決め手だったんですか?」
「……人数かな。人が多いのは、苦手なんだ」
そんなことを言いながら、シキは軽く肩をすくめた。
単純すぎて恥ずかしいので、本当の気持ちは胸の奥にしまっておくことにする。
決定打が温泉だなんて……とても言えるはずがない。