【第二章 はじめての自由は、蜂蜜と檸檬の味がした】1-2

 ……この大馬鹿野郎を信じたのが間違いだった。

 派手なピンク色の看板を見上げながら、シキは呆然と立ち尽くしている。

「……ふわふわ、ぴょんぴょん、わんだーらんど……?」

 店頭には、セクシーな二人組の女性が立っている。

 ウサギの耳を模した頭飾りが、薄暗い路地裏で眩しいほどだ。少女たちがこちらに向かって手招きをすれば、エヴィルは吸い寄せられるように近付いてゆき。

「二人で」

 一切の躊躇なくそう告げて、わざとらしいほどのキメ顔をした。

 呆然としたまま、シキはエヴィルに引きずられてゆく。怪しげな雰囲気の、狭い廊下。少女のお尻で、玉のようなウサギの尻尾が可愛らしく揺れている。フリフリ、フリフリ。

 その動きを目で追いながら、シキはようやく正気に戻る。

「……おい、何だよ、この店!?」

 するとエヴィルは、悪びれもせずに言うのだった。

「ちょっとエッチなお店だが?」

「話が違うぞ! 僕たちには、今すぐにやるべき事が──」

「いやあ、もちろん分かってるよ。でもさ、その前に少しぐらい遊ぼうぜ? せっかく繁華街に来たんだから、エンジョイしないと後悔するぜ? な?」

「そんなワケあるか! だいたい僕たち、金なんて──」

 ──銅貨一枚も無いじゃないか。

 言おうとしたが、エヴィルに口を塞がれた。少年はこちらを睨みつけ、それどころか、なんと小声でキレている。

「馬鹿ッ! そういう事は、女の子の前で言うもんじゃない!」

 間もなく店内に辿り着き、促されるままソファに座った。

 いらっしゃいませと言いながら、両隣にウサギ姿の少女たちが腰掛ける。これが、やたらと距離が近い。豊満な胸が、ぽわんと二の腕に当たっている。甘ったるい匂いがする。

 反射的に腕を引っ込めて、シキは正面に座るエヴィルを見た。

 彼は今、一切の躊躇なく、おっぱいに顔をうずめていた。

「……な、なんだ、これは。君はこんなのが好きなのか、汚らわしい変態め!」

 思わず声が裏返る。顔を上げた少年が、面倒くさそうに首を捻ってこちらを見た。

「はあ? なんだ、お前。潔癖すぎんだろ」

 我慢せずに楽しめよ。そんな事を言いながら、両手でおっぱいを揉んでいる。

「おかしいのは君だ! 少女たちにこんな格好をさせ、サービスを強要するなんて──」

 すると唇に、そっと少女の指が押し当てられる。怒りに満ちたシキの言葉は、あえなく遮られてしまった。

「そんなこと言っちゃ、だめですよ〜。わたしたちは、うさぎちゃんなんです。うさぎはサミシイと死んじゃうから、こうして遊んでもらってるんです〜」

「……そういう設定なだけだろ? 本当は嫌で……」

「だめだめ、おしまいっ! ほら、難しいことはやめにして……お兄さんも私たちと遊びましょうね〜!」

 ぐぐぐ……と両脇から、見知らぬおっぱいが迫って来る。

 肩幅を狭めて、必死に逃げる。おっぱいが迫る。また逃げる。その様子を見ながらエヴィルは、ニヤニヤしながらシキに言う。

「……さてはお前、童貞だな?」

「……それの何が悪い? 恥じることじゃないだろう? だいたい、君だって──」

「イメージトレーニングは完璧だ。お前とは格が違う!」

 キメ顔で断言すると、エヴィルはおっぱいに飛び込んで。

「おっぱいおかわり〜」

 ……限界だった。

「やってられない、僕は帰る!」

 ソファから立ち上がり、群がるおっぱいを押しのけて出口へ向かう。

 エヴィルはぽかんとしながら、シキの背中に声を掛けた。

「帰る? どこにだよ」

「……知らない。君のいないとこ」

 振り返らずに、シキは店を後にする。

 こんな場所にいたら、こちらの知能まで低くなる──緩み切ったエヴィルの顔が、ぽんっと頭に浮かんで消える。

 無性にイライラしたので、足元の小石を蹴り飛ばした。

 ……とりあえず、時間がない。今は一人で効率的に行動しよう。置きざりにしたあの馬鹿は……まあ、勝手にどうにかするだろう。


   ***


 城塞都市を彷徨い歩き、夕方ようやく辿り着いたのは、こぢんまりとした建物だった。

 表の掲示板には、ベタベタとポスターが貼られている。比較的新しいものから、紙が擦り切れて読めないほど古いもの。どうやら、どれも仕事の依頼のようだったが……。

「……詳細は店内で! ……か。なるほど、職業斡旋場……みたいなものか?」

 しばらく考え、シキは中に入ることを決意する。考えれば考えるほど、とにかく金が必要だった。金が無ければ、最低限の衣食住すら整わない。

 少し緊張しながら扉を押すと、キィと軋んだ音を立てて簡単に開いた。入ってすぐの場所に、木製のカウンターがある。その奥に、どうやら受付嬢らしき少女がいる。

 ウェーブの掛かったブロンドを、すっきりとポニーテールに結った女の子だ。椅子に腰かけて、すやすやと寝息を立てている。大きな本を枕にして、むにゃむにゃと寝言まで言っている。

 声を掛けるが、起きやしない。仕方がないので、軽く三回肩を揺すった。少女はハッと目を覚まし、キョロキョロと辺りを見回すと「……やばっ」と小さく呟いて。

 枕にしていた分厚い本を、慌てた様子でぱらぱら捲る。どうやら目的のページが見つかったらしく、その一部分を凝視しながら。

「……ようこそお越しくださいました! 収集、雑用、その他もろもろ……各種依頼、受け付けております。ミドル・クローネへの登録も、大歓迎受付中ですよ♪」

 にこっ。取り繕うように顔を上げ、笑顔を浮かべた。

 セリフ自体は完璧だが、それ以外はいただけない。明らかなマニュアル棒読み。さらに営業スマイルの口元には、よだれの跡までついている。

 真新しい名札には〝ヒューカ=マロイ”と書かれていた。

「表に貼ってあった、ポスターについて詳しく知りたいんだけど……」

「あ、ハイッ! ですがお仕事のご紹介は、クローネメンバー限定となっておりまして……クローネへの新規登録をご希望ですか?」

「……いや。ちょっと何言ってるか分かんないんだ。最近、この都市に来たばかりでさ……もうちょっと詳しく、教えてもらえる?」

 戸惑いながら返事をすると、ヒューカはすっかり困ったような顔になる。

「え、詳しく? えーと、そんなのどこに書いてあったっけ……えっと、えっと……あ、あった! ……季節に合わせた厳選素材を使用しているため、イメージイラストと異なる場合がありますが、ご了承ください♪」

「……それ、たぶん参照ページ間違ってるぞ」

「え!? ……あっ、やば。全然関係ないとこ読んじゃったよ」

 焦りながら、ヒューカはマニュアルを捲ってゆく。

 しかし、なかなか見つけることが出来ないらしい。少女はしゅんと肩を落としながら、言い訳をする子供のような目でシキを見上げる。

「いや、だって……あたしも、つい昨日登録したばっかなんよ」

「昨日、登録?」

「うん。とにかくお金が必要でさ……メンバー登録しようと思って、あんたと同じようにここに来たの。そしたら職員がさ、いかにもやる気無さそ〜に話してるわけ。そろそろ休暇が欲しいね、でも登録所を空けるのはマズいよね……んで、たまたまそこに居たあたしに聞くの。キミ、文字読める? ……って」

 溜息を吐きながら、少女はばんばんっとマニュアルを叩く。

「あたしが頷いたらさ、ちょうど良かった〜とか言ってんの。そんでマニュアルだけ渡されて、あとヨロシクって……ありえなくない? あたしだって被害者なんよ。大目に見てもらえないと、困るってゆーか」

 ……確かに、それは気の毒な話である。シキは同情の目を向けながら、必死にマニュアルと奮闘するヒューカを見守る。

 それから五分ほどが経っただろうか。ついに少女は開き直ったようにマニュアルを投げ捨て、シキに向かってこう言った。

「あー、ダメ。全然見つからんし! しょーがないから、あたしが知ってること教えてあげる。まあ合ってる保証は全然ないけどさ……で、質問って何だっけ?」

 いまいち頼もしさに欠ける受付嬢だが、いないよりはずっとマシだろう。

「……クローネ、だっけ? それって、どういうものなんだ?」

「うんとねえ……フリーの依頼請負人たちで作ったグループ、みたいな? 数人から数十人で作ったミドル・クローネを、ここで統括して、ちょうどいい仕事あげてんの」

 いずれにせよ、まずはそのクローネとやらに登録しなければならないらしい。

「……分かった。僕もクローネに登録する」

「あ……入る? わかったよ、しょうがないなあ」

 シキがそう伝えると、少女はめんどくさそうにマニュアルを拾った。

 せわしなく動いていた少女の手が、やがて『クローネメンバー登録希望者への対応について』と書かれたページでぴたりと止まる。

「あ、あった! ……えーと……あなたの……あなたの特技を教えてください♪」

「特技……か」

 言葉に詰まり、シキは黙る。

 暗殺、なんて言えるはずもない。もしかしたら暗殺や、類似の依頼があるかもしれないけれど……そんな血生臭い依頼を、ヒューカに紹介してもらいたいとは思えなかった。

「……薬草の扱いを、少々」

「へえ〜、なるほど……うん、うん。悪くなさそう……な気がする」

 その後もヒューカは、次々に名前や年齢などを聞いてきた。いまいち気の抜けた相槌を打ちながら、手元の羊皮紙に情報を書き留めてゆく。

「それじゃ、次は……ご自身の祝素体適性について、何か証明するものは?」

「祝素体適性? 魔法を使うような依頼も、あるってことか?」

「ん? まー、そりゃ城塞都市だし……それなりに祝素体が発掘されるわけで。祝素体適性の高い人材が有利なのは、仕方ないんじゃないんかねえ」

 ひとつページを捲って「確かめてみますか?」と少女は続ける。

「……簡易的な適応試験をご用意しております。ブラッド・エーテル代金として、別途初任給の十%を頂戴しておりますが……結果次第では、より幅広い仕事を紹介出来るのでおススメですよ♪」

「ブラッド・エーテル? ……ああ」

 それは恐らく《死獣》の血を加工した、祝素体起動に欠かせない薬品のことだろう。

 かつて全ての祝素体は、ノルの吐息に含まれる《祝素》によって起動していた。だからロスト=ゼロ以降、魔法は完全に失われたと考えられていたのだが……突如出現した異形の怪物死獣の体液に、祝素と構造の似た《死素》が含まれていることが発見されたのは、人類にとって福音だったに違いない。

 とはいえ《死素》も完璧ではない。その代謝スピードは体質に依存し、多くの人間にとっては毒となる。かつて生活必需品として民衆に開かれていた“魔法”は、ごく一部の、非常に限られた人間だけの特権となった。

「試してみる」

 シキが答えると、ヒューカは口では「かしこまりました♪」と言いながら、面倒くさそうに顔をしかめた。

 マニュアルを参照しながら、背後に設置された戸棚を漁る。あーでもない、こーでもないと呟きながら、やっと目的の物を探し当て。

「……それでは、まずはこちらの液体を飲んで下さい」

 差し出された液体は、アイリオ国で“神の血”と呼ばれていたものだった。

 白色不透明、とろみがある。高品質な処理を施されたものならば、匂いは完全に消えているのだが……これは、それなりの質のようだ。飲めないほどではないけれど、独特なオイル臭がほのかに香る。

「……次に、掌を、こちらに向かって差し出して」

 言われるままに差し出すと、掌にちょこんと何かが置かれた。

 鈍色に輝く、小さなコマだ。

「回してください」

「え?」

「体内の、死素の流れを意識して、えーと……うわ、めんどくさ。もう自分で読んでもらった方がええと思う」

 どさっとマニュアルを広げて置いて、ヒューカは大きなあくびをした。

 マニュアルには、なかなか高度な死素運用理論が書かれていた。これを読み解き、この場で魔法を使えとは……かなり困難なことを、強いられている気がしないでもない。

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