【第二章 はじめての自由は、蜂蜜と檸檬の味がした】1-1
──かつて、この場所は《死の迷路》と呼ばれていた。
ルーラント大陸五国──アイリオ、ザンザ、ルミナータ、ガラ、ロツェン。その国境を跨ぐように位置し、大陸中の凶悪犯を収容するために建てられた大監獄。
残念ながら詳しい建築方法は残されていないが、どうやら建築材料に《祝素》を混ぜ込む、珍しい技法を用いたらしい。
そして内側からも外側からも、どんな武器を用いても、決して崩すことの出来ない完璧な要塞が出来上がったのだ。
かつて《死の迷路》への収容が決まった凶悪犯は、必ず遺書を書いたと言う。
何故なら、大監獄内部には自分以上の凶悪犯がうじゃうじゃいるのだ。そして、入ったら二度と出られない。迷うか、殺されるか、はたまた争いに負けて飢えるのか……絶望して死を覚悟するのも、無理はないだろう。
そんな世界最悪の大監獄の歴史も、神の崩壊とともに終わりを迎えることとなる。
そこに住んでいた囚人の大部分が、神によって殺されてしまったのだから仕方がない。多くの死に塗れたいわくつきの大監獄は、その後長い間、誰も近づくことのない廃墟として打ち捨てられていた。
……そんな《死の迷路》に、新たな命が吹き込まれたのはいつのこと。
はじまりは、ほんの小さな発見だった。
どこかの国の孤児たちが、雨風凌げる場所を探し求めて、忌み嫌われし廃墟に棲み付いた。もう何十年も、全く管理される事のなかった監獄内部は、驚いたことに、全く劣化していなかったという。
建築資材に練り込まれた《祝素》が、うまく機能したのだろう。
監獄は、建築当時の頑丈さを保ち続けていた。さらに驚くべきことに、そこに残された資材は、どんな無茶な建築も可能とする奇跡の材料だった。普通なら崩れてしまうような建て方でも、決して崩れることがない。
孤児たちは思った。この場所に、はみ出し者だった自分たちの町を作ろう──と。
そこからは早かった。
噂は評判を生み、評判は人を呼び、人は店を作り、一度死んだ大要塞はまるで生き物のように育っていった。店と住居は街となり、街同士は重なり合い、やがて巨大な集合体となり──。
今では《立体城塞都市レジナリオ》と、そう呼ばれている。
***
シキ=カガリヤが《立体城塞都市レジナリオ》へと到達したのは、アイリオ国ガリラド大聖堂広場を後にして、ちょうど十四日目のことだった。
十四日間、エヴィルと二人の順調な旅。幸い天候に恵まれ、敵に出会うこともなかった……が、城塞都市に足を踏み入れる瞬間は、さすがのシキも緊張した。
なぜならここは、立体城塞都市レジナリオ。世界中のはみ出し者が流れ着く、史上最大の無法地帯。旅路では情報収集に努めたが、残念ながら有用な情報は得られなかった。
だからシキは、内心かなりビクついていた。暗がりから暴漢でも飛び出してきて、突然刺されやしないかとヒヤヒヤした。人影を見かければ、凶悪犯か、あるいは死体ではないかとギョッとした。
……しかし結果から言えば、それらは完全に無用な心配だったのだ。
──これが積木のオモチャだったなら、幼い子供だってもう少しマシに作り上げるんじゃないだろうか。
それが《立体城塞都市レジナリオ》をはじめて見た、シキの素直な感想だった。
建物が、路地が、あるいは町そのものが、無造作に積み重なっている。それらは石畳の階段や、あるいは金属製の
上空から威勢のいい掛け声がして、真正面から楽器の音色。左側では、今まさに殴り合いの喧嘩が勃発。それなのに右側からは、楽しげな子供たちの笑い声……様々な音が混じり合い、都市計画とは無縁なこの町を鮮やかに彩る。
流れ込んだ砂の匂い。酸味の強い果物の匂い。殴り合いの血の匂い。焦がしすぎたバターの匂い。色とりどりの匂いが混ざり合い、今この瞬間この場所だけに存在する、特別製の空気を形作る。きらきら、ぱちぱち、輝いている。
音、色、形、匂い。何の統一感もなくグチャグチャで、思わずその場に立ち止まれば、独特の酩酊感に誘われる。ぐるぐると目が回って、酔いつぶれそうになってしまう。
想像を絶する賑わいに、シキはすっかり圧倒されて──大通りの隅に座り込んで、服の袖で冷や汗を拭う。
「……参ったよ」
ならず者たちの行き着く、人生の墓場であると聞いていた。
この世の闇を煮詰めた、無秩序の極みだと聞いていた。
だけれど城塞都市の光景から受ける印象は、無秩序ではなく自由そのもの。
「世界には……こんな場所が、あったんだな」
ふと気が付けば、殴り合いの喧嘩は陽気な歌声へと変化して、子供たちの笑い声は激しい泣き声へと変わっていた。
なんてせわしない。そして、なんて奔放だ。
立場が宙ぶらりんのこの都市は、現状どこの国の警察組織も介入できないし、街中に無免許の医者が
ふと顔を上げてみれば、狭く細い通路を横切るように何本ものロープが張られている。とても手の届かない、高い、高い位置で、たくさんの真っ白なシャツがはためいている。
まるで、自由を祝う祭り飾りのように。
そのまま宙を仰げば、四角く切り取られた青空がある。立体城塞都市は、厳密に言えば密室ではない。隣接する国とは頑丈な門で隔てられているが、遥か上空に開かれた空とはいつでもしっかり繋がっているのだから。
「……やっと着いたぜ〜!!」
エヴィルは歓声を上げながら、ボロボロの木箱に腰を下ろした。
その華奢な両脚は、ガバッと豪快に開かれている。少しでも風が吹いたなら、スカートの中身が見えてしまうに違いない。
「おい、ちょっとは慎めよ」
シキは慌てて、彼のスカートの裾を引く。
その正体が「少年」であると知っていても、思わずドキリとしてしまう。何故なら彼は黙っていれば、完璧なまでに美しいのだ。それはまるで流氷細工の人形か……あるいは冬湖の妖精のように、どこか人間離れしているほどの美しさ。
断言しよう。ただ黙ってさえいれば──エヴィル=バグショットとは、世界最高の美少女に違いない……のに。
「おっ、シキ! 見て! でっかいカタツムリ!」
「……はあ」
大きな溜息をつきながら、シキは隣のエヴィルを見遣る。
世界最高の美少女が、掌にカタツムリを乗せてはしゃいでいる。キラキラ瞳を輝かせ、嬉しそうに殻をちょんちょん突いている。
「おい、すげえよ! こいつ、目がカラフルに光ってるんだ。見てるだけで、なんだかテンション上がって来たぜ!」
「……見たことない種類だな。そうか、この場所には大陸中の生物たちがいるんだよな」
毒薬暗殺者という職業柄、シキは虫の扱いに慣れている。触ることも、解剖することも朝飯前だ。しかし別に、決して虫が好きなわけではない。むしろ造形は気持ち悪いと思っているし、出来る事なら触れたくない。
「……あまりベタベタ触るなよ。陸生巻貝には寄生虫がいることが多いんだから……っておいバカ! 無理矢理殻を取ろうとするな、死んじまうだろ」
「え……!? そ、そうなのか……!?」
ショックを受けた顔をして、エヴィルは殻を引っぱる手を止める。
「ちょっと! ちょっと触るだけだから!」
「……まあ、後でちゃんと手を洗うなら……」
シキが渋々認めると、エヴィルは満面の笑みになる。精巧に作られた人形のようなその顔に、およそ不釣り合いなほどの輝きが生まれた。
何がそんなに嬉しいのか知らないが、エヴィルはすっかりご機嫌だった。頭にカタツムリを乗せて喜ぶ少年を横目で見ながら、シキは銀細工の飾りできゅっと髪を一本に結ぶ。
この動作は何かを深く考えるときの、シキにとってお決まりの儀式だ。
(……さて、どうしたものか……)
シキは静かに息をつき、包帯を巻いた左腕を見下ろした。
この腕に刻まれるは、死した神の置き土産。
愚かな人間の行動を操り、世界を破滅に導くための──邪神の武器だ。
《
ペイシェント・ゼロは何らかの「願い」を持っていて、その肉体には、《死予言》と対になる呪い《
《死道標》とはいわば破滅のレシピで、それに従い行動を起こせば、いとも簡単に願いは叶い、それと引き替えに世界に悲劇が齎される……という仕組みである。
(あの日──僕はノルに願ってしまい、この身に《死道標》を刻まれた。好奇心に突き動かされ、ノルを疑うこともなく……それを完遂してしまった)
過去の光景を思い出せば、胸の奥がきりりと痛む。
『海の向こうに行ってみたい』
それは他愛のない、子供じみた願いだった。平穏退屈な毎日に、突如として齎された非現実的な《死道標》は、幼いシキにとって麻薬のように甘美だった。
更なる刺激を求めてしまった。深く考えることをしなかった。ただ《死道標》に従うだけで与えられる素晴らしい経験──煌めく帝都の地を踏んで、尊敬すべき青年と出会い、美しい夢を語り合う──そんな日々を知らされて、浮足立たないわけがない。
シキはノルにそそのかされ、三つの物を捨て去った。故郷、自尊心、忠誠心。捨てるのに勇気は必要だったが、惜しくはなかった。
その果てに素晴らしい未来が待っていると、愚かにも信じていたからだ。
(……だけど僕が“捨てる”たびに、呪いは進行してたんだ。僕の知らないところで……ゆっくりと確実に、弟の肉体を蝕んで……)
フラッシュバック。かつての光景が、鮮烈に脳裏に蘇る。
痙攣する筋肉、捻じれた四肢、破裂する眼球。剥がれた皮膚を拾い上げれば、そこにはびっしりと文字が刻まれていて。
(……あれが《死予言》だったんだ。僕の《死道標》と、繋がった……)
死予言の刻まれた
彼らは呪いの完遂──《
その運命を切り開く術は、《死予言》を覆す以外にあり得ない。
より具体的に言うならば──それは世界のどこかに潜む《ペイシェント・ゼロ》を探し出し、その息の根を止めるという事であり。
(……やってやるさ。僕はまだ、死ぬわけにはいかないんだ)
冷え切った決意とともに、シキは左腕の包帯を睨んだ。
今、この肉体には《死予言》が刻まれている。愚かな願いに酔わされ《死道標》を刻まれた、かつてのシキ=カガリヤはもういない。
立場はぐるりと逆転し、シキは《ペイシェント・ゼロ》を狙う暗殺者となったのだ。
エヴィルと話して確信したが、この大陸の人間は、ほとんどが《死予言》や《死道標》の存在を理解している。
つまり《ペイシェント・ゼロ》たちは、それがどれだけ恐ろしい代物かを知っている。その願いが、どれだけの惨劇を引き起こすか知った上で……ノルに魂を売ったのだ。
シキはひとつ息を吐き、自らの《死予言》に想いを馳せる。
(今回のペイシェント・ゼロが《死の迷路》にいることは……たぶん間違いないけれど)
ただ、そこから先が問題だった。
生まれてはじめて訪れた《死の迷路》こと《立体城塞都市レジナリオ》は、想像よりも遥かに広大な場所だった。死の迷路にさえ辿り着ければ、何かの偶然でペイシェント・ゼロに行き着くかも……なんて甘い期待は、早々に打ち砕かれてしまっていた。
しかも事態は深刻である。シキは左腕を宙に掲げ、ぽつんと小さく呟いた。
「……進行、してるんだよな」
それは、つい三日ほど前のこと。長く沈黙を保っていたシキの腕に、新たな変化が生じていた。それは紛れもないノルの筆跡で、はっきりとこう刻まれていた。
──今宵ペイシェント・ゼロは“未来”を捨てて歩み始めた。ついに爆発した感情は、もはや誰にも止められない。ペイシェント・ゼロは彷徨い歩き、果てに利己的な協力者を手に入れる。そして、ついに彼らは実行する。美しき、無数に零れる星屑のもとで──。
それは《ペイシェント・ゼロ》が、ついに動き始めたということ。それは同時に、シキ=カガリヤの命のリミットが、急速に刻まれ始めたことを意味している。
シキは眉をひそめながら、文字列の意味を考える。しかしそれはとても曖昧で、はっきりと対象を示しはしない。
(……利己的な協力者、か。つまりペイシェント・ゼロには仲間がいる……?)
それは想定外の事態であり、シキにとっては不都合極まりない仮説だった。
協力者がいる。しかも下手をすれば、複数人。彼らの行動が、思惑が、縦横無尽に絡み合い……やがて悲劇へ、到達する。
(……だけど、自分の“未来”を捨ててまで……こいつは一体、何を願ったんだ?)
何もかもが不可解だった。考えれば考えるほど、泥沼に嵌っていくようで。
暴走する思考の奔流を断ち切ったのは、意外なことにエヴィルだった。
「……やっぱり、情報が必要だよな」
いつの間にか、少年はカタツムリを手放していた。
いつになく落ち着いた顔つきで、まっすぐに瞳を見つめてくる。藍白の瞳に、困惑するシキの姿が映っている。
「情報を制する人間が、戦いに勝つ。戦いってのは、考えるのをやめた方が負けなんだ。行動の前に、俺たちには情報が必要だ。なあシキ、そうは思わないか?」
「? ……どうした、熱でもあるのか?」
いつものエヴィルらしくない発言に、シキは戸惑いの声を上げる。
しかしエヴィルは静かに首を振るだけで、決して何も答えない。
何かがヘンだとは思ったけれど、彼があまりにも真剣で、しかもその主張は十分すぎるほど正しかったので、深く突っ込むのはやめておいた。
「……分かった、情報な。でも、どこで──」
シキの言葉を、エヴィルは手を上げて遮った。
その手には、いつの間にかチラシのような紙切れが握られている。
「何それ──」
中身を覗き込もうと首をひねるが、瞬間、くしゃっと握り潰されてしまい。
「情報屋のチラシだ。この広い城塞都市の情報が、全てここに集まるんだぜ」
「……本当に? そんな都合良いことが……」
「大丈夫。俺を信じて、付いて来るんだ」
エヴィルはサッと立ち上がり、足早に“情報屋”へと向かって歩き出す。
その足取りは堂々としていて、迷いなんて一切ない。巨大な旗を括り付けた、小さな背中が頼もしい。
(……まあ、行ってみるか。他に目指す場所も、ないわけだしな)
少年を追いかけながら、シキは思う。
すっかり破天荒な人間だと思い込んでいたけれど……もしかしたらエヴィル=バグショットとは案外理性的で、出来るヤツなのかもしれないな……なんて。