【第二章 はじめての自由は、蜂蜜と檸檬の味がした】2-1
ヒューカから渡された依頼書を手に、シキ=カガリヤは城塞都市を進んでゆく。
ホニット=レイン大図書館は、立体城塞都市レジナリオ第一層北部に位置していると言う。この入り組んだ都市で、迷子になったら笑えない。
だから何度も、しつこい程に道順を確認しながら歩みを進めた……はずなのだが。
「……ここは、どこだ……?」
シキは今、ぽつんと大自然に立ち尽くしている。
目の前に広がるは、見渡す限りの巨大な湖。
なぜ城塞都市に、当たり前のように湖が存在するのか?
そんな些細な事は、この際大した問題ではない。ここは自由の街、立体城塞都市レジナリオ。もはやその程度のことでは驚かない。
「どこで間違えたんだ、僕は……?」
戸惑いながら、シキは必死に記憶を辿る。
生まれつきの、方向感覚の乏しさは自覚している。でも、だからこそ、必要以上に地図を確認したではないか。そうだ。自分は間違いなく、この地図通りに歩いて来た。
……ならば考えられるのは、渡された地図自体が間違っていたということだ。
ならば、もはや打つ手なし。こんな事になるならば、意地など張らず、土地勘のあるロティカにでも道案内を頼めば良かった──シキが肩を落とした、そのとき。
「よーお! お前さんが新入りかーい?」
慣れ慣れしい口調のおっさんが、ぬっと視界に現れた。
そのまま流れるように肩を組んできたものだから、シキはとっさに振り払い。
「違います」
即答するが、おっさんは退かない。
「オイオイ照れるなって。お前さん、シキだろ? シキ=カガリヤ。噂通り、真面目そうな坊っちゃんじゃねえか。ちと元気が足りないがな」
「…………」
面食らって、シキは思わず黙り込む。このまま無視を決め込もうと思った矢先、はっきりと本名を呼ばれてしまった。つまり……。
シキは恐る恐る、ヒューカから聞かされていた名前を口にする。
「……ホニット=レイン大図書館館長……ガボット=レイン?」
「おうおう、そうよ! 新入りが来るのなんて、久しぶりでよう……昨日は楽しみで眠れなかったんだコンチクショウめ!」
ニコニコ顔のおっさんに小突かれながら、シキは困惑を隠せない。
つまり、このおっさんも寝不足で道を間違ってしまったということか? 知らない場所で、迷子のおっさんと二人きり……なんて絶望的な光景だろう。
「……お前さん。沈没図書館を見るのは、初めてか?」
「沈没図書館?」
聞き慣れない言葉に、シキは眉をひそめて訊き返す。するとおっさんは、心底嬉しそうに目を輝かせ。
「そうかあ、初体験か! よし、こっちに来い来い! シキに見せたる」
そんな事を言いながら、スキップで湖へと向かってゆく。湖のほとりには釣竿が一本、置かれていて。
……そしておっさんは、唐突に釣りを始めるのだった。
細い目をさらに細め、集中した様子でじっと水面を眺めている。
突然どうしてしまったのだろう。まさか寝不足が限界に達して、目を開けたまま寝てしまったのか? それなら今のうちに、そっと帰ってしまうのも一つの手だが……。
「……“キョニュウ・ドリーム”」
「はあ?」
シキは顔を上げ、おっさんの顔をまじまじと見つめる。おっさんは真面目そのものだった。鋭い職人の目付きで、釣り糸の動きを見極めながら──。
「キョニュウ・ドリームッ!」
思い切り叫んで、釣竿を引いた。
ざばん。
「……本?」
釣竿の先には、一冊の本がぶら下がっていた。
そのタイトルは『キョニュウ・ドリーム』……なるほど、おっさんが叫んでいたのは、この本のタイトルだったというわけか。
本を受け取り、恐る恐るページに触れる。
湖から釣り上げられたというのに、その本は濡れてなどいなかった。まるで普通の本のように、ぱらぱらと捲ることが出来るのだ。
「魔法……」
……そうだ、はじめから言われていたではないか。
この図書館での司書業務には、第三種祝素体の適性が必須であると。
「……大監獄時代、ここは普通の図書室だった」
おっさんが、ゆっくりと語り出す。
「大陸各地から集められた、そりゃもうたくさんの本が……きっちり書架に押し込められてたんだってよ。それが真面目過ぎてつまんない場所だって、囚人たちには大不評で」
そこでおっさんは、本を手に取りニヤリと笑う。
「とびきりのアホが、妙な魔法をかけたんだ。図書室はまるごと湖に沈んで、世にも珍しい“沈没図書館”が出来上がった……アホの名前は、ホニット=レイン。オレの、偉大なご先祖様よ」
ホニット=レインの働きにより、ここは監獄有数の名スポットに生まれ変わった。
ロスト=ゼロが発生し、世界からほとんどの魔法が失われた後も──壁そのものに祝素が練り込まれた城塞都市内部には、この奇妙な光景が、奇跡的に残り続けていたと言う。
「……まあ……誰でも釣れるってわけじゃないのが難点だが」
肩をすくめ、残念そうにおっさんはぼやく。
「この釣竿自体が、第三種祝素体なのさ。釣竿の数はたくさんあるが……今の時代、これを使いこなせる人間は、そう多くねえ」
つまり多くの人間にとって、ここはただの湖だ。
湖の底に沈んでしまった、世界各国の貴重な書物たち。それらは意志を持って祝素体を使いこなす人間がいて、はじめて世界に浮上することが出来るのだ。
「つまり、ここでの司書の仕事は……」
「ああ、そうとも。魔法適性を持たない客の代わりに、この竿を使って、目的の本を釣り上げてやることさ」
どこか誇らしげなおっさん──ガボット=レインは、懐っこい笑顔を浮かべながらシキへと告げる。
「一見地味だが、名誉ある仕事だ。今日から頼むぜ、新入りくん!」
***
分厚いリストを渡された。黄ばんだ紙に、文字がびっしりと書かれている。
書かれているのは、どうやら本のタイトルのようだ。その横に、発行国、年代……それから殴り書きの文字で埋められた備考欄が並んでいる。
(……何千……いや、何万か? 物凄い量だ)
静かに圧倒されながら、シキはリストを捲ってゆく。
昔から、本を読むのは好きだった。幼い頃にお下がりで貰った帝国教書は、それこそ擦り切れるほどに読んだものだ。
本は、いつだってシキに新しい世界を教えてくれた。この世界には、まだ、こんなにも未知の書物が存在する。シキはすっかり圧倒されて、同時に胸が高鳴った。
するとガボット=レインが、ぐいっと顔を寄せてきて。
「……興味ある本、どれだ?」
聞かれたので、シキはしばらく吟味したのち、一つのタイトルを指差した。
「おお、天体図か」
おっさんは、意外そうな声をあげる。
「そんなのが好きなのか。お前さん、見かけによらずロマンチストだな。なんだ? さては、流れ星を見せてやりたい女でもいるんだな?」
ニヤニヤ顔のおっさんが小突いてくるので、シキは努めて無視をした。
シキが選んだのは、西の大国・ガラ共和国で記された『大陸における流星群の活動について』という本だった。
もちろん、流れ星を見せたい相手がいるわけではない。全ては、この身に刻まれた《死予言》を読み解くための手段なのだ。
死予言の言葉はいつだって曖昧で、はっきりと《ペイシェント・ゼロ》の正体を示しはしない。しかしそこには、確かに真相に近づくためのヒントが隠されているのだ。
(……たしか、次に《ペイシェント・ゼロ》が行動を起こすのは“無数に零れる星屑のもとで”……だ)
無数に零れる星屑──これは恐らく、流星群の活動を意味している。
つまり流星群が発生する時期さえ分かれば、それに合わせて行動計画を練ることが出来るのだ。
釣竿を手に取り、シキはおっさんに目を向ける。
「……釣り糸垂らして、タイトルを呼べば良いんですよね?」
先程、彼はそんな風にして本を釣り上げた。その真似をすれば、自分でも簡単に釣り上げることが出来るだろうと思っていた。しかし……。
「おい待て待て! まだ餌がないだろ」
慌てたようなおっさんの言葉に、シキは眉をひそめて立ち止まる。
今、餌と言ったか。本とは、餌を喰うものではないだろうに。
「……餌、ですか?」
「おう。リストの右端に、備考欄があっただろうが」
おっさんの言葉を受け、シキは再びリストに目を落とす。
ミミズのような走り書き。初見では汚くて読むことを諦めていたが、しかし集中して凝視すれば、少しずつ内容が見えてくる。
「……トゲアサ82%、ヒイロヤシ13%……」
「その本に使われてる、紙の原料さ。紙ってのはよ……作られた国や時代によって、かなり特徴が変わってくるんだ」
得意げに言いながら、おっさんは木箱を取り出した。底が浅く、内側に正方形の仕切りが沢山ついた箱だった。仕切りの中には、おがくずのような物が詰まっている。
「世界各国から集めた、木材の屑だ。こっちがトゲアサ、こっちがヒイロヤシだな」
白っぽい木屑と、その右下にある赤茶の木屑を指差しながらおっさんは続ける。
「これを正しい割合で混ぜてから、湖の水でよーく練るんだ。よーくよーく練り込めば、そのうち固まって立派な“
シキが選んだ本には、比較的高品質な紙が使われているのだと彼は言った。
「ガラ共和国ってのは、ルーラント大陸随一の科学国だからな。そのぶんガラの紙は値が張るが……可愛い新入りの成長のためだ、惜しみはしねえよ。そのぶん、今日は存分に練習してくれよ。オレからのサービスだ、釣れた本はタダで貸したる」
「ほんとですか?」
シキにとって、それは願ってもない申し出だった。
流星群のこと、六英雄のこと……それから、世界に刻まれた呪いのこと。シキには知りたいことが山ほどあって、それらは今、この湖の底に眠っている。
「……
さっそく調合を始めようと、シキはおっさんに声を掛ける。しかし彼は首をかしげ、意外なことを言うのだった。
「秤……? いや、そりゃあ使ったことねえな」
「え? それじゃあ、割合って……」
「勘だよ。指先の、絶妙な感覚を信じるんだ」
そんなやりとりをしている最中にも、何人かの客が沈没図書館を訪れた。
客からの注文を受けたおっさんは、リストを見ることもなく材料を選び抜き、指先の感覚だけで
「……ふうん」
シキは、少しだけおっさんを見直した。
そして心に火が付いた。薬遣いの端くれとして、負けていられないと思ったのだ。