【第二章 はじめての自由は、蜂蜜と檸檬の味がした】2-2
……ようやく本が釣れたのは、三時間後のことだった。
毒薬暗殺者としての経験が幸いして、
「おお、やるじゃないかシキ! さすがオレの見込んだ男だぜ!」
おっさんは、それはもうメチャクチャに褒めてくれた。満面の笑みでシキの頭をぐりぐりと撫でながら、「お前さんは天才かもなあ」などと繰り返している。
「……おおげさですよ」
ぼそりと呟きながら、シキは湖へと向き直る。
はしゃぎ続けるおっさんは、少しうざかったけれど、悪い気持ちはしなかった。
そうして技術をマスターしたシキは、さっそく沈没図書館新米司書としての仕事を任されることになった。それはつまり、客に代わって本を釣り上げるという重要な役目だ。
客の要望に合わせて、シキは何度か本を釣った。目的の本を調べ、それが書かれた時代や国に合わせて
客足が途絶えれば、自分に必要な本を釣ってゆく。
六英雄についての本などは、アイリオ国を除いた全ての国で数多く出版されていた。
おおまかな内容は同じだが、細部は少しずつ異なっている。どうやら伝承や創作が、どれも少なからず混じっているようだ。
「……でも、六英雄が活躍したのって……ホニット=レインが図書館を沈めた時期より、ずっと後のことですよね?」
疑問に思い、シキは問う。それなら何故、この湖から釣れるのかと。
「ああ、そりゃそうだ。良い所に気が付くな。まあ、なんて説明するのが正しいか……この湖は、世界中の書架と繋がってるんだよ」
「世界中の……?」
「まあ、いくつか制限はあるんだけどな。他にも、すごいのが……」
おっさんが目を輝かせ、何かを話しかけた──その時。
「──竿を」
凛とした声が耳に響いて、シキはハッと顔を上げる。
カウンターの向こうに立っていたのは、二十代半ばほどの青年だ。
切れ長な目元が印象的で、見上げるほどに背が高い。金のボタンで留められた、仕立ての良いロングコートがよく似合う。
髪や瞳は、夜明けの空を感じさせる
「竿を──貸して頂けるか」
そう青年は繰り返し、静かに手を差し出した。
それにしても、不思議な雰囲気の青年だった。線が細くて儚げなのに、その存在感は圧倒的。超然としていて近寄りがたく、それなのに目を奪われる。
「釣竿なら、一日使って二千リッツだぜ。釣りの代行が必要なら、そこに上乗せで──」
おっさんの言葉に、青年はゆっくりと首を振って二千リッツだけを手渡した。
代行はいらない、という意味らしい。
「……ああ、ありゃ……」
釣竿を抱え、青年は湖に向かって歩く。
その後姿を眺めながら、ガボット=レインは呟いた。
「たぶん、魂狙いだな」
「……魂?」
聞き慣れない言葉に、シキは戸惑う。ガボットは「……まあ、シキには信じがたい事かもしれないけどよ」と前置きしながら、この湖に眠る本の魂について教えてくれた。
「人類が誕生して、今日に至るまで──多くの本が書かれ、その大部分が焼失してきただろう? だけど、この湖には……そいつらの魂までもが、奥深くに眠ってる」
「……この世から消えた本を、釣り上げられるってことですか?」
「簡単に言えば、そうだ。でも、まあ……これがメチャクチャ難しい。
「絆……ですか」
釣り上げに成功した例は、ここで長く働くガボットですら見たことがないと言う。
それから日が落ちて営業終了するまでの数時間──先程の青年は、湖のほとりで静かに釣り糸を垂らし続けていた。
***
一刻も早くカメリア・クローネに帰宅して、本を読みたかった。
せっかく様々な本を借りたのだ。六英雄や、天体の動きに関する本もある。限られた時間を、少しでも有効に使いたかった。
しかしガボットが譲らなかった。
一日頑張ったご褒美だ、奢ってやるから、オレのあとに付いて来い……と。そう言い張って聞かないのだ。正直気乗りはしなかったが、厚意を無下には出来なかったので、シキは黙って彼の背中に付いて行った。
今から思えば、それが間違いだったのだ。
「……どうだ。最高だろ? ここのウサギちゃんたちは、最高に可愛い子揃いなんだ!」
「…………」
最悪である。どういうわけかシキ=カガリヤは、またしてもソファの上で、セクシーな格好をしたウサミミ少女たちに囲まれている。
キラキラとした店内をぼんやりと眺めながら「そういえばエヴィルはどうしただろう」とシキは思った。
数日前、ここでバカ騒ぎしていたあの少年は……無事に退店し、寝床を見つけることが出来ただろうか。
「……巨乳の子は、オレがもらう。シキは、新人の子を紹介してもらえ」
おっさんの耳打ち。シキは無言で頷いた。
もはや誰でも構わないので、早くこの場を去りたかった。
(……早く、本が読みたい……)
ほどなくして二人組の店員が、シキの前へと現れる。
「こんにちは〜! お待たせしました〜!」
一人は指導役のベテランらしく、もう一人が噂の新人であるようだ。ああ、面倒くさい……気だるげに顔を上げたシキは、思わず彼女の姿に釘付けになる。
「…………!」
うん、なるほど。これはかなり、めちゃくちゃ可愛い。
青と白を基調とした、ふわふわのミニドレスがよく似合う。
柔らかそうな
新人ウサギは、いかにも不機嫌そうだった。
だけれど屈辱を噛みしめるように伏せた目なんて……この手のマニアには、なんとも堪らない仕草だろう。
たしかに胸は小さかった。
小さな胸を誤魔化すように、胸元には贅沢にファーがあしらわれている。よく見れば、小さいどころか、胸が無い。まっすぐ。たいらで、直線的。きっと触れば硬くて、まるで男……って。
「エヴィル!? 何やってんだよ、こんな所で!?」
「うるせえ! 金が無かったから、働いて返すことになったんだよ! だいたい、お前が勝手に──」
「こらッ!」
隣の女性が、エヴィルの態度をたしなめる。
「お客様にそんな口を利いてはいけませんよ? ご挨拶を、練習したじゃないですか」
「くっ……!」
エヴィルは唇を噛みしめると、荒ぶった心を落ち着けるように、何度も何度も深呼吸をした。そのまま彼は、胸の前でぎこちないハートマークを形作り。
「……ぴょんぴょんぴょん♡ 綿毛の国からやってきた、新入りウサギのエヴィちゃんです♡ あなたのハートに、どっきんぐ♡」
「……ふッ」
我慢出来ずに吹き出すと、エヴィルの顔が引きつった。
「は? おい、笑いやがったな? どこが変だったって言うんだよ?」
「どこが、って……そりゃ──」
「俺のウサギさんポーズは完璧のはずだ。鏡の前で、しっかり三時間も練習したんだ。どこが変だったのか教えやがれ。次は必ず満足させてやるからよッ!」
「…………」
真面目なのか、馬鹿なのか……あるいは、その両方なのかもしれない。
エヴィルは真剣に、ウサギさんポーズのクオリティアップに努めている。思い切り馬鹿にしてやろうと思ったのに、これだけ真摯に挑まれたら文句も言えなくなってしまう。
「……ちょっと、ぎこちなかったかな。まあ、でも全体的には悪くなかった……と思う」
「お、そうか? いやー、さすが俺だぜ!」
少し褒めればすぐに調子に乗って、エヴィルはどかっとソファに腰を下ろす。
彼女のことが気に入ったので、このまま二人で話がしたい──そう申し出ると、先輩ウサギは満足そうに離れて行った。
「……新人ちゃん、すっごい可愛い子じゃないか……おいシキ、やったなあ! お前はオレが見込んだ通りの、ミラクルラッキーボーイだぞ」
巨乳に囲まれたおっさんが、そんなことを言いながら興奮している。
……落ち着け、おっさん。可愛い子ぶっているけれど、こいつはガサツなただの男だ。しかもその辺の男より、よっぽど血の気の多いやつなんだ。