【第一章 砂漠に咲いた氷花みたいで】1-2

 瞬間──少女は跳び上がり、傍らに立つ司祭の腕へと噛み付いた。

 突然のことに男は怯み、よろめいて処刑台から落下する。轟音とともに砂埃が舞い散って、人々の絶叫が響き渡った。

「何てことをッ……!」

 青ざめた顔で叫びながら、ヴェクタが少女に掴みかかる。しかし少女は一歩たりとも退かない。勢いのまま顎に頭突きを喰らわせれば、ガツンという音が響いて、彼もまた処刑台から足を滑らせ転落した。

「──我が名は、エヴィル=バグショット!!」

 燃え盛る怒号の渦に巻かれ、力の限り少女は叫ぶ。

 エヴィル=バグショット。この国に来てから初めて名乗る、誇らしき名だ。

「頭に、胸に! この名を深く刻んでおけ! 我が名はエヴィル=バグショット──かつて神を殺した負け犬、六英雄・バランドの末裔だッ!!」

 処刑台はステージで、主役は自分。宝玉陽のスポットライトを浴びながら、エヴィルは大声で叫び続ける。特別製の舞台から、賑わう世界を見下ろした。

 群衆たちは怒っていた。怒り狂い、口々にエヴィルを罵った。中には石を投げる者もいたが……この高き処刑台には届かない。

 楽しかった。まるでカーニバルだとエヴィルは思った。ギリギリの命のやりとりほど、この血を沸騰させるものはない。


 ──しかし次の瞬間、予期せぬ異変が発生する。


 広場の空気を引き裂いた、鬼気迫る絶叫。

 続いて風に運ばれてきた、腐ったオイルの刺激臭。覚えのある異臭にぬらり鼻腔を撫でられて、エヴィルは瞬時に状況を悟る。

「……おいおい、何だ……」

 混乱極まる状況に、自虐的な笑いが込み上げてくる。

 非日常な出来事とは、こうも重なるものなのか。

「こんな時に……死獣サマのお出ましか」

 宝玉陽の光を浴び──そいつは醜悪に輝いていた。

 半透明の皮膚に覆われた、ゲル状の巨体。ヌラヌラと光る全身は、肥大化し崩壊しかけたナメクジか……あるいは砂漠に打ち上げられた毒のクラゲ。妙に人間じみた二本の触手が、逃げ惑う民衆を握り潰し、破壊の限りを尽くしている。

 歪んだ口腔内には、不揃いな牙が生えていた。すでに喰われた者もいるらしく、その口元は血で染まり、消化液でじわりじわり溶かされゆくその様が、半透明の肉体からありありと透けて見えるから恐ろしい。

 実績ある《偉大なる東十字グランド・クロス》の戦闘員たちが我先にと切り掛かるが、どうにも死獣は止まらない。半透明の不気味な皮膚は、見た目の印象より遥かに強靭であるようだ。

 信仰心のないエヴィルですら、本能的な畏怖を感じずにはいられない。

「……本当は手合わせ願いたいとこだけど……残念、今はそれどころじゃなくてな」

 両手首に枷の感触を覚えながら、エヴィルはごくりと生唾を飲み込む。

 こんな状況で襲われたら、さすがに生きては戻れない。中断された処刑はいずれ再開されるだろうし、こんなに美味しそうな女の子を、死獣が見過ごすとも思えない。

 そうなれば、残された道は……。

「……しか、ないってことかよ」

 乾いた笑いとともに呟いて、エヴィルは服の内側に意識を向ける。

 あのとき、気弱そうな少年に投げつけられた球状の物体──それは今、べったりとエヴィルの肩にへばり付いていた。

 これがただの卵ではないことに、エヴィルはすでに気付いている。

「……これって《祝素体オブジエクト》の一種だよな。四〇〇年前の魔法時代に……工事現場で使われてた、爆破解体用のシロモノか?」

 血管内を興奮が駆け、背筋を冷たい汗が伝う。

 エヴィルは意識を集中し、全身を巡る魔力素の流れを感じ取った。

 はじめて扱う《祝素体》だが問題ない。軽く触れた瞬間に、その単純明快な仕組みはすぐに分かった。

 あの気弱そうな少年が、何を想い、どんなつもりでコレを投げて来たかは分からない。

 ……でも、それでも構わない。ここで黙って殺されるより、ずっと良い。

 へばり付いた祝素体に、急激に魔力素を流し込む。爆発の兆しが、耐えがたいほどの熱さとなって少女の右肩を覆ってゆく。爆発する。下手をすれば死ぬだろうし、助かる保証はどこにもない。でも──それでも。

「さあ、行くぜッ!」

 迷うことなんて何もない。人生とは、先が読めないからこそ楽しいのだ!


 ──耳が裂けるほどの爆発音。


 爆炎が散る。煙が躍る。

 処刑台のやぐらが崩れ、バラバラになって壊れてゆく。

 激しい衝撃が内臓を揺らす。視界が弾けてひっくり返る。

 舞い散る砂埃にむせ込みながら、エヴィル=バグショットは瞼を開けた。崩れたやぐらの残骸が辺り一面に散らばっている。人が、たくさん倒れている。

 でも……生きている。

 痛みに顔をしかめながら、少女はゆっくりと起き上がる。爆発の衝撃を受けたというのに、首には鎖が繋がったまま、両手首の枷もそのままだった。

「……まじかよ、難易度高すぎじゃん……」

 全身を強く打ったせいで、肉体が悲鳴を上げている。爆破された右肩の怪我はどう考えても深刻だし、頭もなんだかクラクラする。

 だけれど、ゆっくり休んでいる時間はない。痛みを振り払うようにブンブンと頭を振りながら、エヴィルはようやく一歩を踏み出し。

「……くそッ……とにかく、どこかに逃げ──」

「逃がさないよ」

 冷え切った言葉に、エヴィルはギョッとして振り返る。

 揺れる砂埃に目を凝らせば、金髪の青年がゆらりと姿を現した。額から血を流し、煤でひどく汚れてはいるけれど……困ったことに、目立った負傷はしていない。

 しかも最悪なことに、手には斧まで持っている。

「……なーんだ。生きてたのかよ、しぶといな」

 にやりと笑いながらエヴィルは呟く。危機的状況に陥ると無意識に笑ってしまうのは、少女の昔からの癖だった。

「おかげさまで、ありがとう」

 穏やかな台詞とは対照的に、瞳の色彩は冷たさを増す。

 ゾクリ。背筋に不快な悪寒が走った。尋常ではない怒りの波動に、思わず後ずさりしてしまう。少しでも触れたら、そのまま闇に引きずり込まれてしまいそうな──そういう種類の、恐怖だった。

 立ち尽くすエヴィルを氷の視線で射抜いたまま、青年は鎮魂歌を口ずさむ。重々しく、心がざわめくような旋律とともに斧を構え──。

アィリス・ノーラス愛しき神に忠誠を! さあ、処刑を続けよう!」

 目にも止まらぬ速さで、巨大な斧を振り下ろした。

 ビュンと、風を切る音が辺りに響く。

「…………ッ!!」

 エヴィルはとっさに、その軌道を見定めた。

 思考よりも先に身体が動き──ガツンッ! 鈍い金属音とともに衝撃が生まれ、両手の枷が砕け散る。自由になった両手は、奇跡的に無傷だった。

「……枷で斧を受けただと? 小癪な……」

 ギリと奥歯を噛みしめて、ヴェクタは続けざまに斧を振るう。

 エヴィルは一歩飛びのいて、ほんの僅かな隙を狙い、青年の懐へと飛び込んだ。突然の急接近に度肝を抜かれて、ヴェクタが一瞬動きを止める。

 その機を逃さず、エヴィルは股間に強烈な膝蹴りを喰らわせた。

「────ッッ!!」

 声にならない悲鳴を上げ、ヴェクタはその場でうずくまる。大粒の脂汗を浮かべながら息も絶え絶え、悶えている。処刑用の斧を握る、両手の力が緩んでいる。

 ……チャンスだ!

 エヴィルはすかさず飛びついて、力ずくで斧を奪う。かなり重く、巨大な武器だが……両手でしっかりと柄を持てば、どうにか使いこなすことも出来そうだった。

 もう一発、渾身の一撃をお見舞いしてやろう。その隙に、どこか遠くまで逃走しよう──そう思い、振り返ったその瞬間。

「…………?」

 ふわり。突然、身体が浮くような感じがして……そのまま、仰向けに倒れてしまった。

「……ッ……くそ……」

 目の前がグルグルと、無限に回転して止まらない。体中から冷や汗が吹き出し、どうしようもなく気持ちが悪い。今すぐ身体を動かしたいのに、どうにも願いが叶わない。

 右肩の出血と、それに伴う全身の疲労は、ついに限界を迎えていた。

 エヴィルはもう、まともに動くことが出来なかった。

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