【第一章 砂漠に咲いた氷花みたいで】1-3
「……困った子だ。君みたいな子には……少し、お仕置きが必要だね」
ゆらり立ち上がったヴェクタが、冷ややかな瞳で少女を見下ろす。
「極めて愚かな選択だよ。ノル様に忠誠を誓い、大人しく斬首を受け入れれば……無駄に苦しむこともなかったのに」
「……クソ喰らえ。忠誠なんて、死んでも誓うか」
混濁する意識の中、エヴィルは靴に唾を吐きかける。
たとえここで死ぬとしても、最期まで抵抗した証を残したかった。
「お行儀が悪いよ」
艶やかな少女の髪の毛を、青年は乱暴に掴んで投げる。
そのまま瓦礫に引き倒されて、エヴィルは小さな呻きを上げた。そんな少女の首を掴んで、ヴェクタは何かを取り出した。
外套の内側に隠されていた、それは一本の矢だった。鋭く輝く、銀の矢だ。
「……
たしかに斧遣いにしては、ずいぶん貧弱な体型だとは思っていた。
「……それがお前の……真の得物か」
「ああ、そうさ。死獣を天に送るため、あるいは人間を痛めつけるため……巨大な武器など必要ない。たった一本の矢があれば、それで十分、事足りるんだ」
ヴェクタはそんな言葉を呟きながら、右手の矢へと力を込める。
瞬間──その先端が、激しい炎に包まれる。
「……炎系の……祝素体かよ」
「ああ、そうさ。これをゆっくり目に突き刺せば……致死量の苦痛を、与えられる」
「はは……趣味、わる……」
余裕ぶった軽口とは対照的に、心臓はバクバクと暴れ出す。
故郷を飛び出し約三年。様々な困難を乗り越えてきたけれど、これほどのピンチは初めてだった。
「おっと目は閉じないで。ちゃんと瞳に焼き付けるんだ。君の、残酷な命の終わりを!」
穏やかな調子で言いながら、ヴェクタは少女の瞼をこじ開ける。
「やめろ……!」
悲痛な叫びは、乾いた空気に散ってゆく。
澄んだ瞳の中心に、赤々と燃える矢先が近づいてくる。ゆっくりと、ゆっくりと、命の終焉が近づいてくる。
「
くすんだ金髪の青年が、鉛色の瞳をスッと細める。
覚悟を決めて、エヴィルは彼をまっすぐ睨み返した。
眼球の表面が、ぐつぐつと沸騰してゆく感じがする。どんなに熱さを感じても、エヴィルは瞼を閉じなかった。逃げることをしなかった。もしも逃げてしまったら、命よりも大切な何かがすべて、この悪趣味な青年に奪われてしまうように感じたのだ。
だから笑った。絶体絶命の淵に立ち、なおも少女は笑いながら挑発した。
「……来いよ、クソ野郎」
「減らず口が」
血が滲むほどの力で、青年はエヴィルの首を絞める。
いよいよ朦朧としてきた意識の向こうで、赤い矢先が燃えている。その鋭い先端が、エヴィルの柔らかな眼球に触れて、やがて脳髄までを掻き回し──。
「…………?」
──奇妙な現象が発生したのは、その時だ。
唐突に、ヴェクタの動きが止まったのだ。
銀色の矢は、少女まであと数ミリという所で停止して……魔力の流れが滞り、炎がすうと消えてゆく。
目の焦点が合っていない。すでに意識はないようで、全身が棒のように硬直している。しまいには矢を取り落とし、顔面から地面に倒れ込んだ。
それが尋常ではない様子だったので、エヴィルはひどく戸惑った。瓦礫の上で呆然としながら、足元に倒れる青年を見下ろす。恐る恐る足先を伸ばし、ちょんと鼻頭に触れるが動かない。どうやら生きてはいるようだが、明らかに生気を失っている。
──その時、聞き覚えのある声が辺りに響いた。
「大した度胸だ」
「え……?」
意味が分からず、エヴィルはぽかんと顔を上げる。
砂埃の奥から彼が姿を現した。
黒髪の目立つ、細身の少年──処刑台へ向かうエヴィルに、卵型の祝素体を投げつけた……チームメンバーから虐げられ、馬鹿にされていた少年だ。
「お前……さっきの……」
「喋るな。傷に響く」
鬱陶しそうに眉をひそめ、少年は素早くエヴィルのそばに駆け寄った。
「君は馬鹿だ。少し体を揺らしたら、地面に祝素体を落とせただろ? そうすれば、爆発に巻き込まれることはなかった。もっと安全に、確実に……処刑台から逃げ出せたのに」
「え? ああ、そっか。その手が……」
「静かに! 無闇に喋るなって言っただろ」
鋭い声で制止しながら、少年は地面に膝をつく。
厳しい言葉とは正反対の優しい手つきで損傷した右肩にそっと触れれば、険しげに結んだ唇から、僅かにほっとしたような息が漏れた。
「……致命的な血管は、傷ついてない。これなら……治せる」
独り言のように言いながら、彼は縛って血を止めた。
いまだ呆然と──なかば夢見心地のような感覚で、エヴィルは彼の華麗な手さばきと、そのクールな横顔を見つめている。
間違いなく、死の花道で出会った少年だ。声も、顔も、つい先ほど見たばかり。
それなのに、雰囲気が……いかにも貧弱で、おどおどしていた少年とは、うって変わって別人のようにすら感じられて。
「なあ、おい」
「……何だよ」
声を掛ければ、ぶっきらぼうに少年は応えた。
エヴィルは困惑したまま、近くの地面を指差して。
「こいつ……どうしちゃったんだよ?」
倒れるヴェクタに目を向ける。
ヴェクタの様子は、依然としておかしかった。折り重なった瓦礫の上に、随分と無理な体勢で倒れているというのに……身じろぎをせず、呻きもしない。
触れば温度を感じるし、どうやら心臓は動いている。だから生きてはいるのだけれど……だとすれば、この状況は一体何?
「気持ち悪ぃよ……何の魔法だ?」
「魔法じゃない」
きっぱりと言い、少年は懐から小枝のようなものを取り出した。
そうして、エヴィルの目をじっと見据える。どこか真夜中の海に似た、深く、暗い印象の瞳だった。
「こいつは毒だ。中空の植物茎を細工して、中に強力な鎮静剤を詰め込んだ」
「? ……何言ってるか、よく分かんないけど……」
難しいことは得意ではない。昔から、勉学面はさっぱりだ。
エヴィルは首を傾げながら、どうにか少年の言葉を噛み砕く。
「つまりは……助けてくれたって、ことだよな」
「まあ……簡単に言えば、そういう事だよ」
「なんでだ? なんで助けてくれたんだ? だってお前、その紋章──」
エヴィルは困惑したまま、少年の服装に目を向ける。純白の外套にははっきりと、銀色の
「大聖堂側の、人間なんだろ? こんな事したら、今度はお前が……」
「もう戻るつもりはないよ。もともと僕はアイリオ国の生まれじゃないんだ。ちょっとした事情があって、信仰するフリをしてただけだから」
そんな事を語りながら、遠い目をして少年は続ける。
「……重ねたんだよ、君の姿に。得体の知れない国に、一人きりで迷い込んで……異物として扱われ続けた、自分の姿を。まあ……僕は君ほどの無茶はしないけど」
少年は面倒くさそうに頭を掻き、なぜか不服そうに腕組みをして息を吐く。もしかしたら照れてるのかもしれないと、そんなことをエヴィルは思った。
どこか温かな沈黙に包まれて、張りつめていた緊張が、徐々に解けてゆく感じがする。軽口をたたく余裕も出てきて、エヴィルはにやりと笑って少年に告げた。
「案外やるじゃん。さっきまで、あんなに《神罰》とやらに怯えてたくせに」
「怯えてた? ……違うな」
エヴィルの言葉に、少年は呆れたように肩をすくめる。今度は先ほどの小枝とは違う、指先に乗るほどの小さな針を取り出して……ひどくあっさりと彼は言った。
「これが《神罰》の正体だ。さっきの鎮静剤とはワケが違う……正真正銘の猛毒だよ」
「え?」
「存在しないんだよ、神罰なんて。ガリラド大聖堂が……不都合な人間を、体よく消すための言い訳。不安定な体制維持の手段に過ぎない」
「それって、つまり……!」
エヴィルは驚き、藍白の目を見開いた。
小難しいことは苦手だけれど、ここまで来れば予想もつく。猛毒の針、神罰の正体……それから闇夜に紛れる黒髪と、掴み所のないその雰囲気。
「……暗殺者、なのか? あの大聖堂に、秘密で雇われた……」
「当たり。まあ裏切ったわけだから、もう違うけど」
そんなことを言いながら、少年はエヴィルを担ぎ上げる。しがみ付いた両肩は、簡単に壊れてしまいそうなほど細かった。
「途中で死ぬなよ。ここで死なれたら、助けた甲斐がないからな」
少年は人々の間を縫って、素早く大聖堂広場を進んでゆく。無駄のない動きのせいか、彼のことを気に留める人間は、不思議なことに一人もいない。
「なあ……お前」
「何だよ」
「名前ぐらい、教えろよ」
「…………」
少年はしばらく、無言で走り続けていた。乾いた風が吹き抜けて、漆黒の髪が揺れている。彼が何を考えているのか、エヴィルには全く分からなかった。
もう一度同じ質問を、繰り返そうと思い始めた頃──ついに少年は口を開き、ただ前を見据えたまま、小さな声で呟いた。
「……僕は、シキ。シキ=カガリヤだ」