第一幕 虎と、幼女と、出会う夏 その3

「あっ、せんせー! おかえりなさい!」

「ぴゅいぴゅいーっ!」

 たっぷり一時間ほどの帰途を歩いて戻ってきたわかとらを出迎えたのは、もはや家族と言ってもいい付き合いの竜たち……そして、何故か彼らと仲良く遊んでいただった。

「な、何でいるんですか!?」

 今朝、緋音と一緒に車で帰ったはずだ。

「あのね、今朝この子たちとお友達になったの!」

「ぐぁうー。ぐぉっぐぉっ」

「また会いたかったから遊びに来ちゃった!」

「ぴゅい、ぴゅぴゅいっ!」

「あかねぇからもらったおやつ持ってきたから、みんなで一緒に食べてたんだよ!」

「……………………ぬーん」

 めちゃくちゃに懐かれている。普段は屋根の上で寝そべって滅多に降りてこない風翼竜まで一緒になってじゃれていた。

 野生の竜でも子供相手には警戒せず近づいたりするものだが、それにしたってこの距離の詰め方は尋常ではない。もしかして自分より仲良くなってないかそれはちょっとズルイぞ羨ましいぞ。あらぬ方向へずれゆく懸念を落ち着いて軌道修正。

「あの……とうじようさん、でしたっけ」

 彼女の隣に屈みこみ、目線の高さを合わせて話しかける。

でいいよっ。せんせーもおやつ食べる?」

 差し出されたクッキーを、今朝の醤油のようにはすんなりと受け取れなかった。

 絃の言葉を借りれば、手酷く振ったはずの相手。嫌われていてもおかしくない。しかしこの純粋無垢な幼女は、日を浴びて咲く花のような朗らかさのままで接してくれていた。

「その、『せんせー』になるのは、お断りしたはずなのですが……」

「あ。ううん、ちがうよ。お医者さんはみんなせんせーだから、せんせーのせんせーはそのせんせー。でもせんせーにせんせーだけじゃなくて『先生』になってもらえたら、あたしもみんなもうれしかったんだけど……お断りされちゃったからなー」

 文字に起こしたらゲシュタルト崩壊しそうだったが、言わんとすることは理解できた。

 一度断られた相手にも気まずさなど微塵もなく、「お友達」に会いにはるばるやってきたわかとら一人がどぎまぎしているのが馬鹿馬鹿しくなるような前向きさだった。

「だからね、どうしたらせんせーに『先生』になってもらえるか、この子たちと遊びながら一緒に考えようと思って来たんだっ!」

「……え?」

 そしてその前向きさ加減は、わかとらの想像を遥かに超えていた。

「おやつ食べたら、きっとトーブンの力でいい考えも浮かぶはずだし!」

「い、いえ、そこではなくて。……一度断られたのに、諦めていないんですか?」

「なんで? あきらめたら、それで終わっちゃうよ」

 雨の日に傘を持たずに出かけたら、濡れる。そんな当たり前のことを口にするように、は笑顔を浮かべたままで言った。

「ホントは、あかねぇにはダメって言われちゃったんだけど。でもあたしは、竜医になるのあきらめないし。もっとお話ししたらお願い聞いてくれるかもって思って、気づいたら来ちゃってたっ。えへへ」

 諦めたくない、ではなく諦めない、とは言い切った。意識的に言葉にして自覚を強めるようなものではなく、本当に自然に口から出た、決意以前の事実として。

「あ、でもこの子たちと遊びたかったのも本当だよ! どっちも大事!」

「それは……ありがとう、ございます。彼等も新しい友達ができて嬉しいと思います」

 楽しそうに鳴く三匹の竜たちを見て、素直な感謝を述べる。

 きっとの中には、外堀を埋めるだとかそういった概念は存在しないのだろう。打算も謀略もなく、ただ純粋に仲良くなった友達同士の姿しかそこにはなかった。

「ただし、それはそれ、これはこれ。先生になるのをお断りした事実は変わりません」

「はいっ。わかっております! びしっ」

「……元気があって大変結構です。僕は上官ではないので敬礼はやめましょうね」

 どうにも調子が狂う。曇り顔で神妙にされるよりは空気が軽くていいのだが。

「だから、んーとね。が変わればいいなって思って。せんせーが先生できない事情、あたしたちがなにかお手伝いしたら変わるかもしれないし! だからせんせーが先生できない理由を……あれ? どうしてせんせーは先生できないんだったっけ?」

「まだ教えていませんよ。答える前に止められましたからね」

「あ、そうだった!」

 気がつけば、わかとらの表情まで柔らかくなっていた。の笑顔には、どこか安心できる魅力がある。人も竜も、日向に寝転がるかのように心を許してしまう。

「えへへ……あたし、よくこんな風に早とちりしちゃうんだぁ。考えるより先にカラダが動いてて。前のセンセーにもそれで何度もしかられちゃった」

「前の、先生……」

 そういえば、とわかとらは思い出す。彼女たちは、それぞれ事情があって病院や養成学校から指導を拒否されたと緋音が言っていた。

「うん。あたしね、もともと竜医の学校に通ってたんだ。でも、そこのセンセーに、お前は竜医に向いてない、竜医にはなれないって言われちゃって……」

「……それは、どうしてですか?」

んだって」

「元気……過ぎる?」

「うん。考える前に行動しちゃうクセも、前のめりに突っ走っちゃうクセも、チームにいたらジャマなだけだって。ついていけない、みんなの迷惑だって何度もしかられて……それで、前のセンセーにも、もう来なくていいからねって言われちゃって」

 先程まで快晴だったの笑顔が、みるみる曇っていく。

「でもあたし、またおんなじ失敗しちゃった。ダメだなぁ。いつまで経ってもこんなだから、みんなもあたしのことイヤになっちゃったんだよね」

「そんなことありません」

 気づけば、口が動いていた。

「あなたの元気で前向きなところは、立派なあなたの魅力で、能力です。それに、物怖じしない度胸も、迅速な行動力も、絶対に諦めない心の強さも、全て竜医に必要な資質です。あなたにとっても、チームにとっても、決して邪魔なことではありません」

 わかとらはいつの間にか、と過去の自分を重ねていた。不屈の幼女と、最後まで諦めなかった竜医・ひなわかとらの姿を。だから、落ち込む彼女を放っておけなかった。

「……えへへ。ありがとう、せんせー。

「お、教え……って、や、やめてください。僕はただ客観的な意見を述べただけで」

「でも今のせんせーカッコよかったよっ。ほんとの先生みたいだった! ねーっ」

「ぴゅいーっ」

「ぐららぅ、らうがう!」

「みんなもそう思うって! やっぱりあたし、せんせーに先生になってほしいなぁ」

 無邪気な太陽のような笑顔が、明るく温かく照らしてくる。

「ね、せんせー。あたしたちに手伝えることがあったら、何でも言ってね! せんせーが先生になるのに悩んでることがあったら、あたしたちが一緒に解決しちゃうから!」

「……お気持ちは、とても嬉しいです。ありがとうございます」

 きっとそれも、本心から出た言葉なのだろう。自ら光を発する太陽に影が無いように、の言動には裏表が全く感じられなかった。

「せんせーのお困りごと解決して、先生にもなってもらえたら、一石二だよね!」

「竜に石を投げては駄目ですよ」

「えっ? 石って……そ、そんな意味の言葉だったの!? ご、ごめん、そんなつもりじゃなかったのー! お友達に石なんて投げないよー!」

「ぐぉぐぉ、ぐげー」

 大慌てで竜たちに弁解するを見て、わかとらはなんだか可笑しくなってしまった。

「ふっ……あははっ。彼等もわかってますよ、あなたがそんなことする人じゃないのは」

 わかとらも、この数分間と話しただけで、彼女の人となりは十分に知れた。

「……せんせー、笑うとかわいいね! あかねぇの言ってたとおりっ!」

「ちょ……!? あか姉ぇそんなこと言ってたんですか!?」

「うんうんっ、笑おうせんせー! 笑うカドには来たる、だよっ」

「それは。魅力的……ですね」

「でしょ? えへへっ。ほら、笑顔でいたら竜が……来たーっ! えいっ!」

 べしゃっ。

 よく冷えた水浸しの鱗が、わかとらの顔面にダイブした。

「ぴゅいっ」

「うあ。冷たっ。気持ちいい……」

 思わず漏れた言葉に喜んだのか、小さな水竜はご機嫌になって。

「ぷぴゅーいっ!」

 いつもよりたくさんの水を、上空に向かって発射した。

「わぷっ!? あはは、涼しーっ!」

 雨のように降り注いだ水をかぶり、子犬のように首をぷるぷる。

「ぐるるるぅ……けぷっ」

 冷たいのが苦手な赤熱竜が不機嫌そうに黒煙を吐いたのを見て、わかとらはまた笑った。

「ね、笑うと楽しいでしょ? もしもせんせーが落ち込んだり悩んだりしてうまく笑えないときは、あたしが元気を分けてあげるっ! なんたって、配るほど余ってるもんね!」

、さん……」

「あ! やっと名前呼んでくれたねっ」

 水飛沫を浴びてきらめく笑顔は、まるで虹が架かったようで。

 七年の間精彩を欠いた鈍色の日常に、七色の光が差し込んだようで。

 ただ心の底から、綺麗だと思った。

「……ありがとうございます、さん」

 予感、いやもっと直感めいた確信があった。


 ──この子は、とうじようはきっと、優れた竜医になる。


 逆境にも挫けず、決して諦めない心の強さ。

 仲間を引っ張っていけるパワフルな元気。

 若干前のめりの気があろうとも、現場では役立つ判断と行動の速さ。

 そして何より、出会ったばかりの竜とすぐに友達になれるくらいに、心の底から竜を大切に想う気持ち。

 竜医に必要な、そしてただ勉強しただけでは身につかないような多くの資質が、まるで竜医になるために授かった贈り物のように、彼女の小さな身体いっぱいに宿っていた。

「えへへ……へ、へ、へっぷちっ!」

 ……その資質が花開くのは、もう少し先のことにも思えたが。


 ◇


「水が足りなくなったら、いったん窓から外に出してあげてくださいね」

「はーいっ!」

「ぴゅーいっ」

 ガラス戸越しに、と水竜の元気な返事。

 水竜の戯れでびしょ濡れになってしまったを放っておくわけにもいかず、浴室を使ってもらうことにした。一緒に仲良く浴室に入っていった水竜の出す水は、暑い夏にはうってつけの天然冷水シャワー。さぞ気持ち良いことだろう。代わりたいくらいだ。

 扉を隔てた向こうのはしゃぎ声を聞きながら、わかとらは緋音にメッセージを送った。

 がここへ来ていること、遅くなる前に迎えに来てあげてほしいということ。と交わした会話の内容には一切触れずに、連絡事項だけを至極事務的に伝えた。

 先程の言葉から察するに、は恐らく緋音には内緒で会いに来たのだろう。告げ口するようで少し気が引けたが、こんなゴーストタウンを一人で帰らせる方が心配だ。

「かといって僕が送るのもな……っ、は、……っくし!」

 くしゃみを一つしてようやく、自分もと同じくびしょ濡れだったことを思い出す。手早くバスタオルを取り出し、シャツを脱いで、髪と身体を拭いていく。


 こん、こん。

「すみません。びやくだんです」


「……っ!?」

 またしても思わぬ客が訪れた。

 びやくだん……びやくだん。今朝訪ねてきた少女の一人だ。

「こ、こんにちは。少しお待ちください」

 慌てて乾いた衣服を探しながら、ひとまず不在でないことを伝える。

「あの……がここに来てないかしら。家に連絡したら、出かけたって聞いて」

「あ、えっとそのですね!」

 たちにも黙って一人で来たらしい。心配になって探しに来たというわけだ。

 今朝の態度からも、年長のが年下の二人を可愛がっていることはすぐにわかった。初対面のわかとらから見ても仲の良い姉妹のように思えたし、そんな可愛い妹分が行き先も告げずにいなくなったとなれば、当然不安にもなるだろう。

 ……さて、その可愛いが今朝会ったばかりの男の家でシャワーを借りているという事実を、心配性の少女はどう受け止めるだろうか。

「しかもこの格好……」

 ひとまずのことはおいておいて、と対面して事情を説明するためには服を着る必要がある。人間は服を着る生き物だからだ。

「先生……? 聞こえてます?」

「は、はい! え、ええと、さん、は、ですね」

 迂闊。替えの服は今朝悶々としながら一気に洗ったばかりで全部外だ。回収ルート上にはのいる玄関。必要最低限の生活をしてきたことがこんな形で仇になるとは!

「……? あの、入ってもいいかしら?」

「ちょぉっと待っててくださいねッ!」

 ドタバタと家探しする物音を不審に思ったのか、が玄関扉を開けようとするのを声量を上げて遮る。あの扉の鍵は七年前に壊れていたが、緋音以外の人など訪ねてこないし、盗られるようなものもほぼないので、特に修理もしておらず、押せば普通に開く。

「……考えろひなわかとら」***

 危急の現場だ、迅速に思考し行動せよ。一分一秒の判断の遅れが生死を分ける。現状を打破する最も適切かつ合理的な手段を模索せよ。

 簡単だ。今脱いだばかりの濡れた服を着て玄関先へ出ればいい。ずぶ濡れの格好を見せて状況を手早く説明し、に風邪をひかないようシャワーを貸していることを正直に丁寧に説明すればいい。変に隠し立てする方がかえって不自然だ。

 そうと決まれば、と濡れたシャツを手に取った矢先。

「せんせー? おっきな声がしたけど、どうかした?」

「ぴゅいっ」

 がちゃり、脱衣所の扉が開く。現れいずるは、子犬サイズの水竜で前を隠した

「ちょっ、さ……!」

「あれ? 今の、の声?」

 さらにがちゃり。玄関の扉も開いた。

「なんだ、やっぱりいるんじゃ……な」

 入ってきたのはと、もうひとり……こまかすみ

「…………あ」

 ぽかんとした声を漏らしたのはかすみだった。今朝は一度も喋っていなかったので、わかとらは今初めて彼女の声を聞いた。たった一音でもわかるくらいに儚く美しい声。水のように透き通り、夜のように静かで、身も心も委ねて眠ってみたくなるような甘く優しい声……。

 などという現実逃避を、もう一方の来訪者は許さない。

「な……な……な」

 顔を真っ赤にして、ぱくぱくと言葉にならない言葉を発する。

「あれ? はーちゃん、みーちゃん! 二人とも来てたんだ!」

 のんきに笑ってひらひら手を振る少女は、竜のほかには一糸纏わず。

 そして隣に立つ男は、濡れた服を手に上半身裸で固まっている。

 この状況は、ちょっと無理かもしれない。誤解するなという方が。

「こ、の……ケダモノぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉおおおおおおおおおおおっっ!!!!」

 そう、の言う通り、そこにいたのはケダモノであった。

 人間は、服を着る生き物なのだから……。

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