第一幕 虎と、幼女と、出会う夏 その2
そして、迎えた翌朝。
いつもの朝と違う、聞き慣れない足音。
かちゃかちゃ。とんとん。……という、お皿や包丁の音も聞こえる。
ひとつは緋音の足音だろう。時計など見なくてもわかる。毎朝緋音が訪れる時間だ。
残りの足音は? 竜たちだろうか。いや、彼らは部屋の中までは滅多に入ってこない。
まどろみながらも考える。昨日、緋音は何と言っていたか……。
『トラくんに会わせたい人がいるの』
そこで一気に覚醒した
「うっひゃあ!? び、びっくりしたー!」
目に入ってきたのは、想像とは全く違った光景だった。
ベッド脇で
そして、キッチンに立つ緋音と、その傍らで朝食の準備を手伝うもうひとつの影。
見知らぬ人、三人。
けど……全員、緋音の彼氏ではないようだった。
まず、小さい。
というか全員女の子だ。
一人はキラキラと目を輝かせ、一人は緊張した面持ちで、一人は怯えたような目で。
全員一様に、
「おはよう、トラくん。今日は起こす前に起きたね?」
「お……おはよう、あか姉ぇ。……じゃなくて、これは一体……?」
寝起きで頭がぐるぐる回っている
「まずは、一緒に朝ごはんにしよ?」
緋音の「会わせたい人」。
それは、三人の小さな女の子たちだったらしい。
「それじゃみんな、お手てを合わせて。いただきま~す」
「いただきまーす!」「い、いただきます……?」「ぃ……(声が小さくて聞き取れない)」
とうとう何の説明もされないまま、五人揃って食卓を囲む形になってしまった。
「……うん。いただきます」
ともあれ腹が減っては考え事もできない。用意してもらった朝食をいただくことにした。
普段はトーストがメインの洋食モーニングだが、今日はご飯と味噌汁と焼き鮭、それからほうれん草のおひたしと、和風な朝ごはんだ。
「んー! おいしいね!」
「…………(もぐもぐ)」
「あらあら、二人ともごはん粒つけちゃって~。もっとゆっくり食べていいんだよ」
「えへへ。だってあかねぇのごはん美味しいんだもーん!」
「わぁ、嬉しいっ。おかわりもあるからたくさん食べてね~。朝ごはんは一日の元気の源なんだから~」
「わーい! ミナモトっ! あっ、せんせー、おしょうゆ使いますかっ?」
「ああ、これはどうも。ありがとうございます」
元気よく手渡された醤油を、焼き鮭とほうれん草のおひたしにかける。
「おいしい。和食もたまにはいいね、あか姉ぇ」
「ふふ、リクエストがあったら普段からもっと言っていいからね、トラくん~」
「……ちょっと!」
これでもかとほんわかした雰囲気の中、ずっと黙っていた少女がついに声を上げた。
「どしたの、はーちゃん? お腹痛い?」
「どしたのじゃなくって! 何で普通にごはん食べ始めちゃってるの!? 私たち、自分が何者なのかもまだ説明してないと思うんだけど!」
そういえばそうだ。緋音のゆるゆるふわふわなオーラに呑まれてすっかり忘れていた。
「えーっ、ごはんの後じゃダメ?」
「ダメっていうか……何でみんな平気なのよ? モヤモヤしないの?」
「しないよ?」
「…………(ふるふる)」
「先生、あなたは!?」
「えっ。い、いや僕も、まずは朝ごはん食べてからでいいかと……」
「4対1だねっ! 大人しく一緒にごはん食べよ! あっ、あかねぇ、おかわり!」
「はいは~い」
朝飯前に苦虫を噛み潰してしまったようなげんなりした面持ちで、最年長と思しき少女は「ホントにこの人で大丈夫なの……?」と小さく呟いていた。
「ごちそうさまでしたっ!」
「おそまつさまでした~」
一番元気いっぱいにモリモリ食べる幼女の勢いにつられ、つい
「さてと……」
朝食を終えたところで、そろそろ聞かねばならない。
「ええと、それで。皆さんは一体、どちら様なのでしょう……?」
「結局聞くんじゃない……」
最後には一緒になって朝ごはんを平らげていた少女が、溜め息交じりにそうこぼした。
緋音の顔色を窺うも、ほんわかした笑顔を浮かべているばかりで、その真意は伝わってこない。あえて読み取るなら「仲良くなってほしいな~」といったところか。
一番元気な子が、率先して自己紹介する。
「あたし、
ぶぉんっと水飲み鳥のような豪快なストロークでお辞儀。
「どうもご丁寧に。
続いて、最年長と思しき中学生くらいの気の強そうな少女が前に出る。
「……
肩肘を張るタイプなのか、声音にも佇まいにも強い緊張が現れていた。
「あ、あまりジロジロ見ないでくれる!? ……ます?」
「っし、失礼しました」
最後は、一番背の低い大人しい子だ。全員の視線が集中する。
「………………(ぎゅっ)」
彼女は黙り込んだまま、食事中も肌身離さず抱えていたかたつむり(?)のぬいぐるみを抱きしめた。緊張しているというより、知らない相手と話すのが怖いのだろうか。
「
「…………(こくり)」
「この子は
「…………(ぺこり)」
これで、全員の名前はわかった。しかし、肝心の目的が何もわからない。
緋音がわざわざ会わせたいとまで言って連れて来たのだから、ただお友達になりに来たとかそういうわけではないことは
「それで、皆さんは僕にどういったご用でしょうか?」
単刀直入に聞くと、
「あのね、せんせー。せんせーに『先生』になってほしいんですっ!」
と宣誓した。
「……??? ええと、それはつまり、どういう……?」
疑問符を並べる
「トラくん。この子たちね、みんな竜医志望なの。それぞれ事情があって、どこの病院や養成学校からも、指導を拒否されちゃって……頼れるのが、トラくんだけなんだ」
ゆっくりと言葉を選んで話す緋音の表情には、ほんの少しの不安が浮かんで見えた。
「だからせんせー。あたしたちに、竜医になるためのお勉強、教えてください。あたしたちの……『先生』になってくださいっ!」
「…………っ」
六つの期待に満ちた眼差し。その輝きをあまりに遠いものに感じて、思わず息を呑む。
「……先生?」
沈黙が長引くほど、彼女たちの不安は増すだけだ。そう感じた
しかし、相手が幼い少女であっても、傷つけない言葉を選ぶ余裕は、
「……お断り、します」
絞り出した声は、心の扉が閉じる音に似ていた。
◇
「失望したぞ、盟友」
目の前にぬっと現れたエクリプスくん(
「ぼふぅーっ……」
「うぐ。ほんのりコゲ臭い……」
「己を信頼する幼馴染の期待を裏切り。幼気な少女たちを手酷く振った挙句。居た堪れなくなって逃げてきた先が元同僚の女の店とは。盟友はとんだ女泣かせだな……」
「ぶぉはぁ~……」
飼い主そっくりの挙動でエクリプスくんがまた溜め息をつく。ナマあたたかい。
「それもただ断るだけでなく、一度は食卓を共に囲み、和やかな団欒を演じておいてだ。気を許したところで崖から突き落としたようなもの。およそ人の所業ではない」
「……っ、それは……」
返す言葉もなかった。
理由を答えさせれば、
「……盟友よ。教師の話、どうしても無理だというのか?」
「はい。僕にはとても務まりません」
「何故そう思うのだ」
「理由……は、一つ二つでは利きませんが……」
『
が、これらをそのまま曝け出して答えるのは、緋音の気遣いに反する。
「一番は、七年というブランクの長さです」
だから、過去と関係なく真っ当に聞こえる理由を答えることにした。
「医療技術というものは日々進歩しています。加えて竜医はその体系が確立されてから三十年程度と歴史が浅い。当然、新たに発見された病気やウイルス、それに対する治療法や新薬などが、この七年の間だけでも山ほど増えているのでしょう」
竜医から離れて生きてきたことを強調するように、他人事じみた言葉を並べる。
「しかし、僕の教えられる医療知識はせいぜい七年以上前のものです。現代の竜医に必要な知識を与えられるとは思えない。この時点で、僕は教官としては不適格なんですよ」
「否。違うな」
順序立てた理論武装がバッサリと斬り捨てられる。
「な、何が違うんですか」
「一番の理由、という旨がだ。空白の七年などさしたる問題ではあるまい。そも、そのようにあれこれと理屈を並べ立てるなど盟友らしくもない。言い訳探しにすら聞こえる」
左手を顔の前にかざし、右手を
「我の知る盟友──竜医・
熱のこもった言葉を受けてなお、
「……その竜医は、七年前のあの日に死にました。考え無しに前へ前へと進み続け、結局患者を助けられずに全てを失って、自分には無理だったと知って、死んだんです」
竜医・
過去の亡霊が子供たちの未来を左右するなど、あってはならない。今を生きる竜医が、彼女たちを正しく導くべきだ。
「……そうか」
「……ごちそうさまでした」
店を出て行く、ひどく小さく見えたその背中に、絃はかすかな願いを呟いた。
「過去の我らではなく……今を生きる子らの声が、どうか彼を光の下へ導きますように」