第一幕 虎と、幼女と、出会う夏 その1

「おーい、お寝坊さん。そろそろ起きて~。朝だよ~」

 朝の日差しよりも柔らかい声で、目を覚ます。

 ふわふわした髪が鼻先をくすぐるような至近距離。

 整った顔の女性が、にこやかに見下ろしていた。

「……おはよう、あか姉ぇ」

「おはよう、トラくん」

 いつも通りの朝の挨拶をして、わかとらは上体を起こした。


 あれから、七年が経った夏。

 十九歳になったわかとらは、かの凄惨な竜災ドラグハザードの跡地、「サイト0Dゼロデイー」と呼ばれているゴーストタウンの廃屋に一人で暮らしていた。

 毎夜のようにあの日の光景を夢に見ては、夢の中と同じ瓦礫の街で朝を迎える。それを七年も繰り返してきたせいで、竜災ドラグハザードの日を一度も忘れることができていない。

 ただ、それでも押し潰されずに生きてこられたのは、何もない場所で目覚める朝の空虚と孤独を、温かい優しさで満たしてくれる幼馴染のおかげだった。

「もう、また布団もかけずに寝たでしょ~。夏だって言っても、身体冷やしちゃうよ?」

「そうだね、風邪なんてひいたらあか姉ぇに迷惑かけちゃうし」

「もう、何言ってるの。迷惑だなんて思わないよ~。風邪ひいちゃってもひかなくても、わたしは毎朝ここに来るよ。健やかなるときも病めるときも一緒だよ」

 彼女はにこにこと嬉しそうに言うが、別に二人は永遠の愛を誓い合った仲ではないし、夫婦どころか恋人同士ですらない。それなのに緋音は「わたしはトラくんのお姉ちゃんだから」という理由で毎日会いに来て、朝食を作り続けてくれている。七年間、ずっとだ。

「いつもありがとね、あか姉ぇ」

 そんな言葉だけでは伝えきれないくらい、わかとらはずっと緋音に感謝していた。

「言いっこなしですよ~。さ、朝ごはんにしよ。顔洗ってきてね」

 ん、と返事してベッドから降り、壁に掛けてあった布製の小袋を手に取って部屋を出る。

 このサイト0Dゼロデイーには、およそインフラと呼べるものが通っていない。

 指先ひとつでお湯が沸き、掃除機は勝手に床を這い回るこの文明社会の現代にあって、山奥でもなければ都心からそう離れてもいないのに、電気もガスも水もない。七年前で時が止まり、蝉の声すら絶えたゴーストタウンには、わかとら以外誰も住んでいない。

 ではそんな文明と切り離された環境下で、どのように過ごしているかと言うと……。

「おはよう」

 雨水を溜めてある水槽に向かってわかとらが声をかける。すると、反応するように何かがぱちゃりと水面から顔を出した。

「ぴゅいっ!」

 子犬ほどの小さな水色の竜だ。イルカによく似た高い鳴き声のあと、水槽の水を口に含み、わかとらの顔めがけて発射した。

「ぷはっ。ナイスショット。ありがと」

「ぴゅーい!」

 かけてもらった水で顔を洗うと、わかとらは小袋から緋音お手製のスコーンを取り出して竜に与えた。小さな口をあんぐり開けてかぶりつき、嬉しそうに前鰭を水面でぱちゃぱちゃとバタつかせる。とてもかわいい。抱き上げて思いっきりなでなでしてあげたい。

「ぐぉうん」

 続いて、わかとらの背後に現れた2メートルほどの赤い鱗の竜が鳴く。振り向いたわかとらの顔に向かってボハーッと熱い息。高熱の身体から吐いた息は、天然のドライヤーだ。

「ありがと、はいごはん」

「ぐるるん」

 布袋から取り出したスコーンに、赤竜はふるふると首を振った。

「あれ、もしかしてもうあか姉ぇからもらった? それじゃあ……」

 屋根の上を仰ぎ見る。ぬぼーっとした顔で佇む、黄緑色の竜が一匹。

「とりゃっ」

 若干怪しいコントロールでスコーンを放り投げると、長い舌をカメレオンのように伸ばして掴み取った。表情の変化はないが、しっぽが右に左にフリフリ。

「ナイスキャッチ」

 揺れるしっぽの先端には、風車のような複数枚の羽がくるくると回っていた。彼はその羽で風や太陽光を受けることで、体内で発電している。彼のおかげで、この廃屋でも電気を使うことができるのだ。

 水を噴射する水生竜に、熱い吐息の赤熱竜、電気を生み出す風翼竜。

 ここに集まった竜たちはみんな、竜災ドラグハザードの前からずっとここに住んでいる野生の竜だ。

 わかとらはもう十九歳。竜たちにとってみれば、既に十分警戒の対象となる年齢である。

 しかし、彼等とは子供の頃から七年間ずっと一緒にいる。既にわかとらや緋音に心を許しているから、近づいても逃げたり怯えたりしないどころか、おいしいおやつを見返りにそれぞれの力を貸してくれるのだ。

 竜災ドラグハザードを生き延びた竜たちもまた、緋音と同じようにわかとらの生活を、そして心を支えてくれていた。

「お待たせ、あか姉ぇ。食べようか」

「はぁい。ちょうどよかった、パンも卵も焼き立てだよ~」

 エプロン姿の緋音の笑顔と、鼻をくすぐるトーストと目玉焼きとコーヒーの匂い。

「……? どうしたの?」

「いや。……なんか、いいなって」

「え~? ふふっ、何が~?」

 自分には不釣り合いに思えるくらいに、穏やかで幸せな生活だった。

 子供の頃からずっと大好きな竜たちに囲まれて、気立ての良い幼馴染も一緒に過ごしてくれて。こんな毎日も悪くはない。

「あっ、そろそろ今朝の占いの時間っ!」

 毎朝の日課を思い出した緋音が、そのためだけに部屋に置いているテレビの電源を入れる。ほどなくして画面に映ったのは、占いコーナーの直前のニュースだった。


けんりゆうほうしよう受章の十歳竜医 当番組が独占インタビュー!』


「あ……っ」

 それまでにこやかだった緋音の顔が、さっと青ざめる。慌ててチャンネルを変えようとリモコンを向けた緋音の手に、わかとらの手がそっと重ねられた。

「占い。見るんでしょ?」

「で、でもっ」

「……史上最年少受章なんだってね、彼女」

 緋音の表情が驚きの色に染まる。その理由を、わかとらはなんとなく察していた。


 かつて天才と呼ばれた竜医、ひなわかとらは、『竜災ドラグハザード』の日を境に竜医の道を離れた。

 あの日、瓦礫の中から見つかった少年が、悲劇の人として世間を賑わせたのも束の間。『竜災ドラグハザード』の被害規模が明らかになるにつれ、彼の扱いは被害者から加害者へ……己の力を過信し、独断から医療過誤を起こして街ひとつ滅ぼした大罪人へと変わっていった。

 世間のバッシングは全てわかとら一人に向かい、半ば追い出されるように竜医業界から離れたわかとらは、そのまま二度と白衣を纏うことはなく現在の生活に至った。

 さらに、賢竜褒章は本来わかとらも持っているはずのものだった。その年で最も優れた竜医に与えられる勲章で、七年前の『竜災ドラグハザード』の日は不幸にもその授章式の前日だった。当然その年の授章式は中止。代わりの受章者も選出されることはなかった。

 だから緋音は、竜医の話題も賢竜褒章の話題も、わかとらにはタブーだと思っていた。

 今年の受章者が史上最年少だなんて、彼が口にするはずがないと思っていた。

「……平気なの?」

「もう七年も経ってるから」

「竜医のことが……嫌いになったわけじゃ、ないの?」

「嫌いになんてならないよ。竜たちを治してあげられるのは竜医だけだ。この受章者の女の子のことだって、あか姉ぇのことだって尊敬してる。嫌いになんてなるわけない」

「……よかっ、た」

 竜医が原因で受けてきた非難や迫害の雨と、竜医が原因で強いられたような今の生活の中で、きっとわかとらは竜医を恨んでいるのだと緋音は思っていた。

 でも、違った。わかとらは今も変わらず、竜が大好きなトラくんのままだった。

「……えっ、あ、あか姉ぇ!? 泣いてるの!?」

「だ、だってぇ~……ひぐっ、ぐずっ」

 子供のように泣きじゃくる緋音の頭を、わかとらがぽんぽんと撫でる。彼女の様子を心配して窓から覗きに来た竜たちにも、大丈夫だよと笑みを返した。

「もう。変な心配しなくても、僕はあか姉ぇのこと嫌いになったりしないよ」

 緋音は、竜医を経て現在は『りゆうかん』……現役竜医のサポートをする看護師を務めていた。時には夜勤明けに訪ねてくるほど多忙な日々の中で、毎朝必ず自分との時間を作ってくれる緋音のことを、竜医に関わる仕事だからというだけで嫌いになるはずがない。

 けど、それはこうしてちゃんと口にしないと伝わらないことだったらしい。

「あ、ほら。占い始まるよ」

「……ね、トラくん。竜医のこと、嫌いじゃないなら……もし、わたしみたいに竜医と関わるお仕事がまたできるとしたら、もう一度やってみたいって思う?」

「……どうかな。その時になってみないとわからないよ」

 曖昧にはぐらかし、テレビへと視線を逸らす。おうし座のわかとらの運勢は8位。ラッキーアイテムは紅茶。そんな情報を眺めていると、緋音が意を決したように切り出した。

「あのね、トラくん。……トラくんに、会わせたい人がいるの」


 ◇


「どう思いますか、いとさん……」

「彼氏であろうな」

「やっぱり……?」

 その日の昼下がり。わかとらは、かつての同僚にして友人の女性、倉畑絃の切り盛りする喫茶店『れん亭』を訪ねていた。

 目的はもちろん、緋音の言葉の真意について相談するため。もうひとつは……、

「……だがな盟友よ。仮にも我の意見を聞こうと言うのなら、まずは『蒼炎の双眸サフアイア』ではなく我の瞳を見て語るべきだとは思わぬか?」

「あ、すみません」

 動揺した心を落ち着けるべく竜とのふれあいを求めてだ。たった今絃に指摘されるまで、わかとらは彼女ではなくサファイアちゃん(たんりよくりん/十二歳・メス)に向かって喋っていた。

 ここ紅蓮亭は、いわゆるドラゴンカフェ……竜とのふれあいが楽しめる喫茶店。絃が竜医時代に仲良くなった数匹の竜を迎え入れて築いた夢のスポットだ。絃の愛情のおかげで店の竜たちは大人の客相手でも警戒せず、誰でも気軽に竜たちとふれあえる。

「きゅるるるっ」

 サファイアちゃんの鼻先をざりざりと撫でてあげると、気持ち良さそうな返事。

「でもあか姉ぇにそんな人がいたなんて全然知りませんでした……想像もできない……」

「気持ちはわかるが、落ち込み過ぎであるぞ盟友。ほら、これでも飲んで気分を落ち着けるがよい。『水底に揺蕩いし紅き薔薇』。我のお気に入りの一杯である」

「ありがとうございます、絃さん。普通のローズヒップティーいただきます」

 絃は十八歳だがいまだに中二病なので、竜の名前や店のメニューをやたらと尖った名称で呼びたがる。紅茶が好きなのも『紅』という字面がカッコいいからだそうだ。

「しかしな、盟友。竜医を嫌う気持ちはないと告げたら、すぐに切り出されたのだろう? ではやはりそういうことではないか? 竜医関係の仕事に就いて、そろそろ自立してほしいと。それで自分は彼氏と過ごすからあとは一人で頑張ってねと」

「うう……聞けば聞くほどそんな気がしてきました……」

「きゅるるぅ。ぺろっ」

「うへっ、うへへへ。慰めてくれるのかい。ありがとうサファイアちゃん」

 でろりと表情を蕩けさせるわかとらにドン引きしつつも、絃は結論を口にする。

「兎も角も、緋音嬢が会わせたいと言っておるのだから、無下にするわけにもいくまい」

「そうですね。明日連れてくると言われたので……潔く……その時を……うう」

「がぁう~!」

 慰めるような声に顔を上げると、スターライトちゃん(漆黒鱗/十歳・メス)の顔。

「フハハハ。我も余計な心配はしておらぬ。盟友ならばうまくやれるであろうよ」

「スターライトちゃん……ありがとう。僕、何があっても心を強く持つよ!」

「だから我を認識しろ我を。今のは我が言の葉ぞ」

 竜の後ろからひょこりと顔を出した絃は、どこか不満そうに唇を尖らせていた。

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