およそ数週間の行程を終え、やっと目前にまで来たシャンゼル王国は、ひと言で表すなら「やばい」だった。
ちなみに「やばい」という言葉は、フェリシアでは知り得なかった言葉である。前世の自分が使っていたから使えるようになった言葉であり、王女としては相応しくない言葉だろう。
それでも思わず呟いてしまったほど、そのひと言は端的に彼女の心情を表していた。
シャンゼルの空に広がる真っ黒なモヤ。雲ではない。天気の良い今日は、白い雲が空に溶けるように馴染んでいる。それとは全く別の存在だ。
さすが、異端とも言われる国である。
(違うと思いたいけど、まさかあれが瘴気だったりするのかしら)
確信できないのは、フェリシア自身が乙女ゲームをやっていないからだ。
(なんだかこれ、黒い檻の中に自ら入っていくようで……ちょっと嫌ね)
そう思っても馬車は進む。
王女が乗っているとはとても思えないほど質素な馬車は、同行人もまた寂しいものだった。王女本人と、騎士が二人。あとは御者が一人の計四人。騎士のうちの一人が女性だったからまだよかったものの、メイドすらつけないとはさすがお兄様嫌がらせに余念がありませんねと言いたい。めちゃくちゃ地味な嫌がらせだけど。
やがて、馬車は検閲を終え、国境を越えた。
それが起きたのは、フェリシアがちょうど、窓から緑豊かな風景を楽しんでいるときだった。
天から光の柱がずどんと落ちる。
(!? あれはまさか)
ドクン、と心臓が嫌な音を立てた。
前世の記憶に間違いがなければ、あの光の柱こそ、異世界から聖女が召喚された証。
(ここは、本当にあのゲームと同じ世界なんだわ)
自然とそう思ったのは、どこか半信半疑なところがまだ拭えていなかったからだ。
でも、こうして聖女が来るところを目の当たりにしてしまったら。
「……いよいよ本気で頑張らないと」
ぽそりと呟く。対面に座っている騎士が片眉を上げた。まるで「何か言ったか?」という顔だ。彼女は光の柱を見なかったのだろう。馬車の小窓にはカーテンがついていて、フェリシアだけがそれをめくって外を眺めていたから。
なんでもないわ。そう伝えるように微笑んで、また視線を外に向ける。
光の柱が消えた空に、一羽の鷹を見つけた。
(あれは……ゼン!)
少し前に、先にシャンゼルへと旅立ってもらった友人が、上空を旋回しながら飛んでいる。
その足にくくりつけた手紙はすでにない。どうやら無事に目的の人物と接触できたらしい。頼もしい友人にはあとでたっぷりとお礼をするとして、フェリシアは満足気にカーテンを閉めた。
ゲームは着実に進んでいる。でもフェリシアのほうも、着々と準備を整えている。
もうすぐ王都に着くだろう。フェリシアは、準備の一環として持ってきたヴェールを、ふわりと自分の頭にかぶせた。
王都に着き、王宮に着き、フェリシアは騎士の手を借りながら馬車を降りた。
他国の王女の到着に、たくさんの人々が出迎えに──来るはずもなく。
王宮の大広間には、数人の出迎え者だけがいた。予想の範疇だ。だって今日は、この国の人々にとって待ち望んだ聖女が来たのだから。重鎮はもとより、王族だってそちらの対応にてんやわんやだろうと考えていた。
シャンゼル側からすれば、政略目的の相手と待ち望んだ聖女など、比べるべくもなく後者のほうが大事である。
だからフェリシアは、むしろこの場にウィリアムがいることに驚きを禁じ得なかった。
「遠路はるばる我が国へようこそ、グランカルストの姫君。私はこの国の王太子ウィリアム・フォン・シャンゼルです。半年後の結婚式までは婚約者ですが、あなたの夫としてこれからよろしくお願いします」
前世で何度も聞かされた、春のひだまりのような声。妹には、興味ないからと散々プレイすることを拒んできたが、その美貌と声は好きだった。
それが今、目の前にある。
(って、見惚れてる場合じゃないわ!)
惚れないと決めたくせに、なんとも簡単な女である。
フェリシアは王女らしく、優雅な一礼でもって応えた。
「初めまして、王太子殿下。わたくしはフェリシア・エマーレンスと申します。こちらこそ殿下とは円満な関係を築きたいと思っておりますので、よろしくお願いいたしますわ」
だから殺さないでね、とは内心にとどめておく。
ここから、フェリシアの孤独な闘いが始まった。
「ではさっそくですが、円満な関係を築くため、殿下にお願いがございますの」
「なんでしょう?」
「いつまでもヴェールを取らないわたくしを、きっと無礼と思われていることと存じます」
少なくとも、ウィリアムとともに出迎えに来ている者たちは、わずかな不快感を滲ませている。自国の王太子が軽んじられていると思っているのだろう。
「ですが、これは我が国の慣習ですの。未婚の女性王族は結婚式までヴェールをかぶり、夫となる方に貞淑さを示すのですわ。本来なら貴国の慣習に従うべきなのでしょうが……どうかこれだけは、寛大なお心を頂戴できますと幸いです」
そもそもの話、まずはこれが許されないと計画は何も始められない。この国で憂いなく平民になるためには、顔を覚えられてはまずいからだ。
しかし、フェリシアのわずかな緊張を、ウィリアムは呆気なく解消してくれた。
「ああ、そんなことですか。それくらいなら構いませんよ。どうぞ、あなたの好きなように」
「本当ですか。ご配慮いただき感謝しますわ」
思わずほっと息をつくと。
「──それにそのほうが、あなたの魅力を他の男に知られることもありませんからね」
まるで呼吸をするように甘い言葉をかけられて、フェリシアの笑みがガラッと崩れた。
(そういえば、妹が言ってたわね)
ウィリアムという男は、幼少期の体験から常に笑顔を崩さないキャラだ。攻略していないときにも甘い言葉を囁いてくるから、最初はなんだこの女たらし、と思ったらしい。
でもプレイしていく中で、妹は気づいたのだとか。これは、彼にとっての処世術なのだと。
(敵は強敵ってわけね)
そんなことを考えていると、ふと顔に影がかかる。フェリシアがその正体を見破るより先に、さっきよりもずっと近くで彼の囁く声がした。
「これでやっと、約束を果たせますね」
「え?」
思わず顔を上げる。ヴェール越しに目が合った。でも、変わらない笑みを浮かべる彼からは、何かを読み取ることはできない。
だから、フェリシアは何も答えられなかった。だって彼とは初めて会うはずなのだ。初対面の人間と、どうして約束の話になるのだろう。
当惑するフェリシアに気づいたのか、ウィリアムは笑顔のまま不思議そうに首を傾げる。気まずくて、そっと視線を外したら。
「……もしかして」
彼がそのまま黙り込む。しかしすぐに、沈黙は終わった。
「このあとは女官長に部屋までの案内を頼んでいます。陛下への謁見はありませんので、どうぞゆっくりしていてください。それでは、また後ほど」
そうして急に去っていく背中を、フェリシアは呆然と見送ることしかできなかった。
(なんだったのかしら、さっきの)
フェリシアは女官長に案内されながら、先ほどのウィリアムについて考えていた。
(約束なんて誰かとした覚えはないし、そうでなくても、ウィリアム殿下とは初対面よね?)
誰かと間違えたのだろうか。──ヴェールで顔が隠れているフェリシアを?
訳がわからない。
(……まあいいわ。今はそれよりも、思ってたより聖女の価値が高いことに頭を抱えたいわ)
少ない出迎え。省略された王との謁見。いかにこの国が、王太子の婚約者よりも聖女を優先しているのかがわかる。
なるほど、と思った。
(悪役って、こんな感じなのね)
孤独には慣れているつもりだったが、疎外感が半端ない。自国から一緒に来た騎士たちも、すでに帰国の途についている。
やがてフェリシアは、一つの部屋に案内されていた。
「どうぞ、こちらが王女殿下のお部屋です」
女官長に促されて、部屋の中に足を踏み入れる。
その瞬間、フェリシアは雷に打たれたかと思った。豪雨のなか大切な薬草たちを守ろうと必死に作業していたとき、間近で雷が落ちたことがある。そのときの衝撃と同じくらいの衝撃を、今胸に感じている。
「ここが、わたくしの部屋……?」
「そうでございます。お気に召しませんでしたか?」
「いいえ、いいえ!」
むしろその逆だ。最初に視界に入った応接室には、ゆったりと座れるベルベットのソファがあり、ウォールナットのテーブルがあり、緻密なディテールが美しい絨毯がある。小さな小さな廃れた離宮で過ごしていたフェリシアには、どこの宮殿かと思うほど。いや、ここは確かにシャンゼルの宮殿なのだが、とにかく気に入らないだなんて滅相もない。
次に扉一枚を隔てた隣室に案内されたが、どうやらそこは寝室のようだ。天蓋がついたベッドなんて初めて見た。
(ダ、ダイブしていいかしら……!?)
ふかふかそうで、何より大きくて、なんて魅惑的なベッドだろう。フェリシアの木板と布を集めて作ったベッドより、何百倍も寝心地がよさそうである。
(離宮にもともとあった家具類は全部お姉様たちが持っていってしまったから、自分で作るしかなかったのよね。それが、ここでは……)
フェリシアの目は、もう宝物を買ってもらった子どものように輝いている。
そんな彼女の興奮に気づかない女官長が、事務的に口を開く。
「王女殿下におかれましては、長旅でお疲れのことと存じます。ですが、本日は我が国にとって大切な日となりました。王女殿下は他国の方でありますのでご存じないかもしれませんが、本日昼中、我が国を救ってくださる聖女様がご降臨あそばされたのです」
「あら、そうなの」
自分でも淡白な返事だとは思ったが、それ以外に何と返せばよかったのだろう。女官長の眉根がぴくりと動いた。
「これは、歴史的瞬間と言ってもいい出来事です。他国の殿下には、わからないかもしれませんが」
なんか二回言われた。大切なことだったらしい。
「それで? つまり何が言いたいの?」
「つまり今夜、その聖女様のご降臨を祝福して、王宮で舞踏会が開かれることとなりました」
(ええ、知ってるわ。でもそれ、本当は私のための舞踏会だったんでしょう?)
これは前世からの知識だが、本来はフェリシアのために開かれるはずだった舞踏会が急に聖女のためのものになり、悪役であるフェリシアが最初の激昂を見せるのだ。怒っても仕方ないような気はするけれど、おかげで使用人たちからの好感度は下がり、悪い噂が広まっていく。
が、もちろん今のフェリシアは、そんな愚は犯さない。目指すは円満な婚約破棄である。
(それにその舞踏会で、ヒロインが攻略しようとする相手がわかるのよね)
そう思うと、少し緊張してきた。ゲームどおりに怒っている場合ではない。
「王女殿下には、さっそくその舞踏会に参加していただきたく存じます」
「わかったわ」
「また、聖女様に失礼がないよう、聖女というものがどういうものか、これから紹介する侍女から学んでいただけると幸いです」
王女に対する礼儀を先にあなたが学んでくれと思わないでもないが、これもゲームの影響なのだろうか。女官長は、先ほどからずっとそわそわしている。もしかすると、このあとに聖女の許へ参上することになっているのかもしれない。
「わかったわ。しっかりと学ぶから、その侍女を紹介してくれるかしら?」
「かしこまりました」
現れたのは、二人の若い娘だった。一人は金に近いクリーム色の髪を持つ、ブラウンの瞳の女性だ。少しだけつり上がった目元が活発な印象を与える。
「初めまして、王女殿下。殿下付きの侍女に任命されましたレベッカと申します。これからよろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしくね」
次に、もう一人の小柄な女性が会釈する。
「初めまして。同じく殿下付きの侍女となりました、ライラと申します。よろしくお願いいたします」
彼女は栗色の髪と水色の目を持っており、小動物を彷彿とさせた。身長が低いせいだろうか。でも、小動物のように愛くるしさを振りまくタイプではなさそうだ。レベッカが愛想笑いを浮かべているのに対し、ライラは完全なる無表情である。
「ライラもよろしくね。じゃ、さっそく聖女様について教えてもらえるかしら」
こうしてフェリシアは、舞踏会までの時間を潰したのだった。