第二章 ヒロインは王太子ルートを選んだようです 第二話

 舞踏会は、国王とおうのファーストダンスから始まった。

 それが終わり、フェリシアは現在、ウィリアムにさそわれてダンスをおどっている。さすがにまだ婚約者を放置するような男ではないらしい。

(それで? 異世界から来たっていう聖女様はどこにいるのかしら?)

 ステップを踏みながら、気づかれないよう周囲を見回す。ダンスホールではたくさんのしんしゆくじよたちが踊っているので、なかなかお目当ての人物を見つけられない。

 聖女のことで覚えているのは、なつかしいくろかみと黒目、うすい顔立ちだ。日本の女子高校生をヒロインにしていたので、妹はよくヒロインになりきってプレイしていた。

(聖女は瘴気をじようするため、神がつかわした使者、ね)

 フェリシアは、異様な熱を込めて聖女について語ったレベッカを思い出す。

『聖女様は、それはもう尊く清らかな方なのです。たみのためにじんりよくし、そのやさしさは神のごとく深いもの。私はまだお会いできておりませんが、遠目にそのお姿を拝見しました。とてもれんで、き通るようなふんをお持ちの方で、さすが聖女様と思ったものです!』

 どうやらレベッカいわく、この国の女性で聖女にあこがれない者はいないらしい。歴代聖女は、みな美しく、優しい人ばかりだったのだとか。

『あと、女性が聖女様に憧れるのは、そのれんあい模様にも理由があるのです! 当時の王子様とごけつこんなさった方もおりますし、当時一番強い様とご結婚なさった方もおります。神官様も、聖女様とのこんいんは認められているのです。聖女様は、もともとどんな身分をお持ちだろうと、その瞬間におひめさまになれるんですよ!』

 なるほど。フェリシアは、とうぜんと語るレベッカの言葉に耳をかたむけながら「はぁ~、だからなのね~」となつとくした。

 だから、女性たちが憧れるのかと。前世で言うところの、シンデレラストーリー。

(あのあとも延々と続いて……レベッカはちがいなくねつきよう的なファンね)

 もう一人の侍女ライラは、逆にひと言も口を開かなかったけれど。

(──っと。しまったわ、今……)

 考え事をしていたせいで、フェリシアはステップをちがえた。パートナーのウィリアムをおそる恐る見上げる。

「私とのダンス中に、考え事ですか?」

 にっこりと微笑ほほえまれる。不思議だ。その微笑みがなぜかこわい。

「い、いいえ。考え事ではなく、そう、あれですわ。わたくし、ダンスが少々苦手でして」

「おや、そうなのですか? なら私の足を踏んでも仕方ありませんね」

「……わたくし、踏みました?」

「はい」

 それはそれはいいがおだった。これがスチルだったら、画面くぎづけでながめていたいほどの。

 顔からじやつかん血の気が引くが、フェリシアの顔色などだれにもわからない。ヴェールがすべてをかくしている。

「では、いつしよに特訓しましょうか」

「え、ちょっと!?」

 いきなりターンを加えられる。準備していなかったフェリシアは、完全に振り回された形になった。でも、なんとか体勢はくずさずに済む。本当はダンスも苦手ではない。

「これでもう、余所よそも考え事もできませんね?」

(そうですわねそんなことしたらまた合図なしのターンを入れますものね!)

 アドリブのターンがどれほど危険か、フェリシアは今身をもって知った。むしろ体勢を崩さなかった自分をめてやりたい。

「……殿下は」

「うん?」

「殿下は、少し、話に聞いていた方とちがいますのね」

 少しだけ、ねたような目で見上げる。

 彼はどこか楽しげだ。

「へぇ? 話って?」

「常に笑顔で、ゆうしゆうで、人望厚い方だとか」

「ああ、なるほど。それで、実際に会ってみてどうですか? 失望しました?」

 こんなときでも、彼の笑みは崩れない。

(常に笑顔、というのは間違いなさそうだけど)

「残念ながら、失望するほど存じ上げません」

 これが正直なところだ。れないとは決めたけれど、失望はしていない。失望できたらよかったのに。

 するとウィリアムは──笑顔自体は変わらなかったが──今度は声を上げて笑う。

「ははっ。そっか。そうなるのか。あなたはこの顔に、だまされてはくれないんだね」

「?」

「じゃあこれからでいいから、しっかりと私のことを知っていってくださいね?」

 ──フェリシア。

「っ!?」

 最後、わざと耳元でささやかれる。

 甘い顔。甘い声。それだけではき足らず、甘いいきが耳をくすぐった。

 なんて恐ろしい人だろう。この処世術に、勝てる人間なんているのだろうか。

「わたくし、さっそく学びましたわ」

 真っ赤な顔をしたフェリシアは、意味がないとわかっていても、ヴェールの下からウィリアムをにらんだ。

「どうやら殿下は、とっても意地悪な方のようです」

 案の定、彼はなんのダメージも受けずに、

「そう。それもまた、あなたから見た私なのでしょうね」

 とてもうれしそうに瞳を細める。

 自分の心臓がはやがねを打っているだなんて、フェリシアは認めたくなかった。


 ダンスが終わると、王太子とその婚約者である二人のもとに、何人かがあいさつに来た。といっても、それはすぐに終わりを告げる。

 この広間サルーンとびらに待機していたじゆうが、聖女の登場を朗々と告げたからだ。

「やっと来たか」

 フェリシアのこしに手を回してエスコートしていたウィリアムが、ぽそりとつぶやく。ほかに聞こえた者はいないらしい。フェリシアは、そっと彼の顔を見上げた。

 視線に気づいたウィリアムが、変わらない微笑みで見返してくる。

 ──ドクッ。

 急に現実を思い出したように、身体からだじゆうきんちようが走った。

「私たちも挨拶に行きましょうか」

 ウィリアムが腰にえていた手に力を入れる。王太子が自ら挨拶に行くなんて、聖女とはやはり重要な人物らしい。

 フェリシアは、よくわからないのどかわきを覚えながら、うながされるままに歩を進めた。

 聖女をエスコートしていたのは、この国で一番えらい国王だ。

「やあ。先ほどぶりだね、聖女サラ」

「ウィリアム殿でん!」

「ウィリアムで構わないよ。あなたは聖女なのだから」

 目の前で、いきなり良い雰囲気が展開される。サラと呼ばれた少女は、親しみのこもったまなしをウィリアムに向けていた。ウィリアムだって、フェリシアに対するものよりいくぶんか態度がくだけている。

 さて、ヒロインである彼女は、いったい誰を選ぶのだろう。我知らずきゅっと喉をめる。

「サラ、私のこんやく者をしようかいするよ」

 そっと背中を押されて、フェリシアは思考を中断させると、王女らしく堂々と胸を張った。

「お初にお目にかかりますわ、聖女様。わたくしはこことは別の国、グランカルスト王国の第二王女フェリシア・エマーレンスと申します」

「ええっ、お姫様ですか!? すごい初めて見た……っじゃなくて、こ、こちらこそ初めまして! 私はあまです。えっと、サラって呼んでください!」

「サラ様ですわね。これから仲良くしていただけると嬉しいですわ。わたくしのことも、ぜひフェリシアと呼んでくださいませ」

「い、いいんですか?」

「ええ、もちろん」

「わあ、そう言ってもらえて嬉しいです! よろしくお願いしますね、フェリシアさん!」

 花がほころぶとは、まさに彼女のような人に使う言葉である。いやけいだ。美人とも、かわいいとも取れる彼女の容姿は、あいきようがあって男性たちにはとても人気だろうと思った。

(なるほど。ウィリアム殿下は、この笑顔にやられるのね)

 私でもやられるわ。そう思うくらい、思わず手をばしてその頭をでてやりたくなった。

「サラ様はすごいですわ。聖女様というのもうなずけますわね」

「ええっ。とつぜんどうしたんですか。私、聖女なんて大層な身分をあたえられてますけど、本当はただの女子こう……十七歳のむすめですから! 身分で言ったら、きつすいのお姫様であるフェリシアさんのほうが上ですよっ」

(あ、今、女子高生って言おうとしたわ)

 なんてなつかしいひびきだろう。そんな時代が自分にもあったことを思い出す。

 そう思うと、確かに彼女はただの小娘なのだろう。身分制度なんてなかった日本では──正しくは身分制度のない時代の日本では──天皇がしようちよう天皇として存在するだけである。

 ヒロインも似たような時代で生きていたことはゲームで知っているので、彼女の言いたいことがよく理解できた。

 けれど、それを言ったら、実はフェリシアだってただの小娘なのだ。

 流れる血が絶対的であると言われながら、誰からも遠巻きにされた王女。

 しゆの薬草を育て、売り、生活していると。いやでも自分は無力な小娘なのだと思い知らされた。

 あのきゆうから出るだけの力もなく、だからといって王宮で自分の存在を示すほどの力もなく。

 自分は〝血〟以外は、本当にただの小娘なのだと。

 それに比べて、右も左もわからない異世界で、これから多くの人々のためにじんりよくする彼女は決してただの小娘ではない。

 彼女が、彼女自身の力で、意志で、多くの人を救うのだ。

 聖女しかしようじようできないというのは、どれほどの重責をともなうことだろう。げることもできただろうに、彼女はそれを選んでいない。

 前世を思い出した今だからこそ、そのすごさがよくわかる。

(だって、もし私が彼女の立場だったら、ちがいなく責任をほうしていたもの)

 知り合いもおらず、守りたい人もおらず。自分だったら、まず元の世界に帰りたいと願うだろう。

 だから……。

「サラ様、そうご自分をなさることはありません。あなたは立派なしゆくじよですわ。わたくしよりもずっと……ずっとね」

 だから、そんな彼女とウィリアムがかれ合うのは、もはや必然なのだろう。

「フェリシア、さん?」

「ふふ、いい機会だわ。せっかくのとう会ですし、わたくしとおどってくださらない? もちろんわたくしが男性パートを踊りますから」

「え、えっ?」

 まどうサラの手を引くと、周りにいた他のみんなもぽかんと口を開けていた。

 それが、なんだかおかしくって。ヴェールの下からついしようせいらしてしまう。

 おかしな王女でいい。

 型破りな婚約者でいい。

 きっとそのほうが、こんやくもしやすいだろう。

「ねぇ、サラ様。わたくし、こんなふうに笑うのは久しぶりで、とっても楽しいわ」


    ◆◆◆


 シャンゼルという遠い国にやって来てから、早いものですでに一週間がっていた。

 初日に行われた舞踏会では、ゲームのヒロインである聖女サラにも会えた。

 フェリシアが男性パートを踊り、サラが女性パートを踊ったダンスは、またたく間に王宮中でうわさになる。まあそのほとんどが、戸惑う聖女を無理やりダンスにさそったとして、フェリシアへの批判ばかりだったが。

(でも、そんなことは正直どうでもいいのよ)

 たとえそれがきっかけとなり、メイドやじよから嫌がらせを受けるようになったとしても、フェリシアにはどうでもよかった。悪役はこういう運命なのだろうと、割り切ったともいう。

(そんなことより大変なのは、そのあとのことよ。うすうす予感してたとはいえ……)

 はぁ、とおもむろためいきをつく。

「フェリシアさん? どうしました? もしかして、お口に合わなかったですか?」

 うつむくフェリシアの顔を心配そうにのぞき込もうとしてきたのは、まさに溜息の一因であるサラだ。

 今フェリシアは、サラに誘われてれいじようたちとのお茶会に参加していた。

(……それにしても不思議なんだけど、どうして私、サラ様ヒロインには好かれてるのかしら)

 そもそもこのお茶会に、フェリシアは誘われていなかった。そこをサラの思いつきで突然参入したものだから、他の令嬢たちからさる刺さる。おうぎかくせないけんの視線が。どうやら聖女を無理やりダンスに引っ張ったことだけでなく、いつまでもヴェールでがおを隠していることも、彼女たちにとってはお気にさないらしい。

「聖女様、そんなことはお聞きになるだけですわ。まさか聖女様がお作りになったものをお口に合わないだなんて言うはずがありませんもの。ねぇ、みなさん?」

 一人の令嬢が同意を求めると、残りの二人も大きく頷く。

 そう、フェリシアたちが囲む丸テーブルにはたくさんのおが並んでいるが、そのすべてをサラが作ったのだ。お近づきのしるしにと言って。

 フェリシアは、もちろんだれよりも味わって食べている。というのも、

「そうですわね。とてもおいしくいただいておりますわ。空っぽの胃にみ込むようなやさしい味わいで、手が止まりませんもの」

 フェリシアは文字どおり、胃を空っぽにしていたからだ。

(嫌がらせはどうってことないけど、食事のはいぜんがなくなったことだけは地味に痛いのよね)

 メイドからの嫌がらせの一つとして、食事が運ばれなくなった。ぐうぜん聞いた話では、ねつきよう的な聖女ファンのレベッカが主導しているらしい。

 ただ、不幸中の幸いだったのが、過去に姉と妹に似たような嫌がらせをされたことのあったフェリシアは、それ以来非常食を常備していることだ。今はそれで食いつないでいる。

「本当ですか? ならよかった! フェリシアさんはおいしそうに食べてくれるから、ふふ、作ったかいがありました!」

 サラがうれしそうに笑う。令嬢たちがくやしそうにみしている。

(なんかもう、カオスだわ……)

 フェリシアはただ本音を述べただけなのに、サラの好感度がまた上がる。フェリシアとしては、サラの好感度を上げるよりもやらなければならないことがあるはずなのに。

(そうよ。だってあの舞踏会イベントでサラ様が踊ったのは……ウィリアム殿でんなんだから)

 フェリシアとサラのダンスが終わったあと、国王がこう言った。

『ウィリアム、次はおまえがどうかね? エマーレンス王女の言うとおり、せっかくの舞踏会なのだから』

 ウィリアムはもちろんがおりようしようし、サラは少しだけずかしそうに彼の手を取った。

(二人が踊る姿を、みんなが微笑ほほえましそうに見ていたわ。まるで祝福するように)

 サラも楽しそうで、だから、フェリシアは確信した。

 ──やっぱり、ウィリアムルートなのね。

 二人のダンスが終わらないうちに、フェリシアはそっと広間サルーンける。考えなければならないことはたくさんある。やらなければならないこともたくさんある。

 でもその前に、夜風にあたりたいと思った。すずしい風にあたって、そして──。

「それで話をもどしますけれど、あの舞踏会から、聖女様のかがやかしい噂がたみにまで広まっていることをご存じですか?」

「えっ。それ、どんな噂ですか? 変な噂だったらどうしよう……」

「心配にはおよびませんのよ、聖女様。噂というのは、聖女様がとてもかわいらしい方であるとか、聖女様と王太子殿下がお似合いだということとか、良いものばかりですのよ」

「ええっ。私なんてそんな……それに、私とウィリアムがですか?」

「はい。殿下と聖女様は同じかみいろをお持ちだからでしょうか、こうぴったりとはまると申しますか」

「わかりますわ! いつついのような」

「私も同じことを思いました。──王女殿下も、そう思いませんこと?」

 もぐもぐと上品にクッキーをほおっていたら、急に話題をられた。手を止め、わざとゆっくりと口の中のものをえんする。と。

「ええ、わたくしも、みなさんと全く同じ意見ですわ」

 力強くこうていしてやった。これにあつにとられたのは、言わずもがな、令嬢たちだ。フェリシアに少しでもダメージをあたえようとしたのだろうが。

(おあいにく様。こっちは最初からわかってるのよ、そんなこと。だからこそ、じやものは消えようとがんってる最中なんだから)

 打ってもたたいてもってもひびかないフェリシアに、どちらが白旗をかかげたかなんて言わなくてもわかるだろう。

 おなかが満たされたフェリシアは、最後にじようげんで退室する。それを令嬢たちが不気味そうに見送ったが、それすらもフェリシアを機嫌よくさせるだけだった。


    ◆◆◆


 フェリシアは、かねてよりれんらくを取っていた人物から、ようやく返事をもらえた。薬屋としてやっていくなら、この人物の協力が必要不可欠なのである。

 そして、茶会から二日後の今日。

 今日は、一日中ひまな日だ。誰に会う約束もなく、王太子のこんやく者としての公務もなく。

 世話に来る使用人は、もうここ何日も見ていない。

ゆいいつ来てくれる可能性があるライラには、体調不良だからそっとしておいてって書き置きも残したし。これで準備ばんぜんね)

 フェリシアはいつもかぶっているヴェールを外し、動きにくいドレスをいだ。祖国から持ってきた簡素なワンピースにえて、その中にはだはなさず持っているペンダントをしまう。

 これは、フェリシアのお守りのようなものである。中には薬を入れている。一見つうのロケットペンダントにしか見えないだろう。

 準備を整えたフェリシアは、自室の窓を開けた。

「ゼン!」

 空に向かって名前を呼ぶと、ばさりとしいたかが降りてくる。

「いつもありがとう。今日もよろしくね」

 そう言うと、ゼンはうなずくかわりに羽を広げた。まるでついてこいと言うように、フェリシアに背を向ける。

 彼はフェリシアの友人だ。ある日、庭で植物の世話をしていたら、苦しそうに暴れる鷹がいた。まるで何か悪いものでも食べてしまって、それを吐き出そうともがくように。あるいは自分を苦しめる何かを、必死に追い出そうとするように。

 そんなふうに暴れる鷹──ゼンを助けたことで、二人の友人関係は始まったのだ。

 フェリシアは友人の背を追うように、目の前にある大木に飛び移る。運動は得意だ。もしこの木がなかったら、フェリシアはシーツでもつなげて下りただろう。与えられた部屋が二階だったことも幸いした。

 慣れた調子で木から下りると、フェリシアはにんまりと笑う。城を抜け出すことは、祖国にいたころから彼女の十八番おはこである。

 そうして彼女は、ゼンの案内のもと、無事に王宮からのだつしゆつに成功したのだった。


「すごいわ……」

 目の前に広がる光景に、フェリシアは思わずといったふうにつぶやいた。

 どこを見ても人、人、人だらけ。初日に同じ道を通ったはずの王都は、今日はなぜかみちばたの花も視界に入らないほど人で混雑していた。

 この中を自分も進んでいかなければならないなんて、考えただけで引き返したくなる。が、上空を飛ぶ友人は、この先の道を指し示していた。

(仕方ないわ。行くしかないんだから)

 ごくり、とつばを飲んで。かくを決めてひとみの中にっ込んでいく。

 いくら祖国で何度も平民のふりをしてきたフェリシアといえど、さすがにこうも人がひしめき合う場所は初めてだ。だからか。

(あ、あら? なんか、流されてない……!?)

 自分の行きたい方向に進めない。

 かんせいき起こる。

 どうやらみんな、一つの場所に向かって人波を形成しているらしい。

 大勢にたった一人の力がかなうはずもなく、細身のフェリシアはどんどん目的地とはちがう方向へと流されていっている。

「待って。私、向こうに行きた──きゃっ」

 だれかに押され、あわや転ぶ! となったフェリシアは、つい反射的に目をつむる。痛みとしようげきを覚悟するが、その前にぐいっとうでを引っ張られた。

 誰かが助けてくれたのだろうか。おかげでかんいつぱつ、転ばずに済んだ。

だいじようかい?」

「え、ええ。助かりましたわ。ありが……──!?」

 お礼を伝えようと思ったのに、顔を上げてにんしきした人物に、フェリシアは言葉を失った。

がないのならよかった。でも、いくら聖女様の姿を見たいからって、あまり身を乗り出してはいけないよ。危ないからね」

 幼子に言い聞かせるようにやさしくさとしてくる人物は、ちがえようもない、ウィリアム・フォン・シャンゼル。なぜか今はくろぶち眼鏡をかけているが、彼は疑いなくフェリシアの婚約者であり、この国の王太子である。

 そんな人が、どうしてこんなところに。その疑問でいっぱいになったフェリシアは、ウィリアムにこたえることを忘れてしまった。

「どうしたんだい? やっぱりどこか怪我を?」

「い、いえ! ただその、なんで──」

 なんで、あなたがこんなところにいるんですか。とこうとしたフェリシアは、寸前で口を閉じる。

 そういえば今、自分がヴェールを外していることを思い出したからだ。ウィリアムにとっては、今のフェリシアはただのまちむすめである。

 だから、疑問を口にはできなかった。

「その、なんで、こ、こんなに人が……?」

 苦しまぎれのすりえ。

 しかしウィリアムは、特にいぶかしむこともなく答えてくれた。

「ああ。今日は聖女のパレードだからね。みんな新しい聖女の顔を見たくて、こうしてかいどうに集まっているんだ」

「パレード、ですか?」

「そう。新しい聖女が現れたら行うこうれい行事みたいなものだね。これで国民の不安を取り除くんだ。しようじようできるのは聖女だけだから。……我々は、聖女にすがることしかできない」

 ウィリアムの目元がいつしゆんだけゆがんだ気がした。けどそれは、フェリシアのちがいだったのかもしれない。だって次にフェリシアを見た彼の目は、もういつものようにやわらかいみを形作っていたから。

 フェリシアは、ああだから彼はずっといそがしそうだったのかと、頭のかたすみでぼんやり思った。

「それより、ここは少し危ないね。またたおれるといけないから、さあ、こちらにおいで」

「え、ですが」

 フェリシアは躊躇ためらった。というのも、王太子である彼がパレードについて行かなくていいのかと思ったからだ。

 すると、そんなフェリシアのまどいを感じ取ったウィリアムが、つかんだ手を優しく引きながら言う。

「もしかして、私のことを気にしてくれているの? うれしいけれど、それなら大丈夫だよ。私は聖女様の護衛ではあるけれど、いてもいなくても変わらない護衛だからね。我らが聖女様の護衛には、ほら、すでに国一のつわものであるフレデリク殿どのがついている」

「ご、護衛?」

「そう、護衛騎士。それも下っのね」

 そんな鹿な、と思いながら、ウィリアムが指した方向に視線を移す。

 その先にはごうな馬車が走っていた。車体は金色のちようこくふちられ、王家のもんしようが刻まれている。王族専用の馬車なのだろう。その中には、あふれんばかりの笑みで人々に手をり返すサラがいた。ちらっとしか見えなかったが、あのなつかしいくろかみ黒目は間違いない。

 そして、その横で馬にまたがり並走するのが、ウィリアムの言ったフレデリクだ。彼もまた、こうりやく対象者である。

 生命力溢れる赤茶色のたんぱつに、若葉のようなうすみどり色のひとみ。ウィリアムが中性的なぼうなら、こちらは野性味を感じさせる美貌を持つ。同じく女性にモテそうだ。

(あれが、フレデリク・アーデン)

 なんとはなしに思って、フェリシアはハッとした。

 ウィリアムの説明に流されそうになったけど、そもそも彼が護衛騎士というのはおかしな話だ。だって彼は、王太子なのだから。

 周りはだれも気づかないのだろうか。そう思って周囲をうかがうも、見事に誰も気づいていない。

(ああでも、おうこう貴族でないと、王太子殿でんのご尊顔なんてめつに拝見できないのだわ)

 それを逆手に取っているのか。かくいうフェリシアも、同じ手を使って薬草を売りに行っていた。

 改めてウィリアムを見る。近衛このえ騎士の制服に、念のためにだろう、かけられた黒縁眼鏡。なんで眼鏡をしているのかと疑問に思ってはいたが、なるほど、おしのびだったかららしい。

 まあ、彼がなぜ騎士をよそおっているのかは、知らないし知りたくもないけれど。

 とりあえず、幸いにも彼がフェリシアに気づいた気配はないので、今のうちにさっさとはなれておこうと考える。

「失礼ですが、いくら下っ端でも、そして私を助けてくれたのだとしても、仕事をほうなさるのはいかがなものかと。私は聖女様を尊敬しておりますので、できない私の分もあなたが守ってあげてください」

 そのために持ち場にもどってはどうかと、言外にうながしてみる。

「これは耳が痛いね。でも、君の言うとおりだ。ただ私としては、君のことも気になる。簡単に人混みに流されてしまう君が、無事に帰れるか心配なんだ。今日はどうして街に?」

「用事がありまして」

「どこに行く用事かな」

「えっと……プライベートなことなので」

 なんでこんなに食い下がるのだろうと思いながら、いかにこの場を離れられるかを考える。

 目的地を教えて、まさかそこに来られたらやつかいだ。

 いっそのこと力ずくでげたいけれど、そうさせないためなのか、フェリシアの腕には先手が打たれていた。

「プライベートか。そう言われると強く出られないね。わかった。手を離そう」

 ほっと胸をで下ろす。よかった。これでこの場を離れられる。

「では、私はここで失礼します。助けてくださってありがとうございました」

「気にしないで。ただ、くれぐれも気をつけてね。君に何かあったら悲しむ人がいるということを、忘れてはいけないよ」

「それは……少し大げさな気もしますけれど」

 しかしウィリアムはてつかいしない。にこりと微笑ほほえんだまま、フェリシアの返事を待っている。

「わ、わかりましたわ。きもめいじておきます」

「うん、たのんだよ」

 それからフェリシアは、ウィリアムに見送られてその場をあとにした。


 人々の歓声は続いている。ウィリアムはそちらをちらりとも見ない。

 フェリシアが去っていく姿から目を離さず、彼は微笑みを保ったまま命令した。

けろ」

 短く、ひと言。

 誰を、なんて訊き返さない。心得ている王太子の護衛は、なく任務をすいこうする。

 人々の熱気が、ここだけぽっかりと消えたようだった。

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