第三章 スケッチブックの運用法 1

 顔合わせはすんだ。次は妹への家庭教師を通して、六麗のことをもっと知らなければならぬ。

 そのためにはスケジュールを組む必要があった。全教科を一気に詰め込もうとしてもメグがパニックになるだけだろうし、そもそも集まってくれない。

 雪人とこのはは四苦八苦しながらスケジュールを調整した。クララは硬と一緒がいいと言っており、硬は一緒が嫌だと言っている。他にも全員に嫌われていると自覚している紀良もいるので、なかなかしんどい。

 それでもどうにか組み終えると、全員に伝達をした。琴絵、稟果、このは、クララ、硬、紀良の順である。

 登校後、二人は改めて確認し、自分たちで作っておきながらどんよりした気分になった。

「いきなり松条さんか……」

「スケッチブックで家庭教師できるの?」

「本人ができるって言ったんだから」

 とは言うものの、雪人も自信はない。なので、確認しに行くことにした。

 彼女は三年生の教室の隅っこにいた。稟果と違って皆と一緒の教室で授業を受けている。ただし座席は窓際の一番後ろ。これは『自分の後ろに誰かいると落ち着きません』という理由からであった。

「松条さん、家庭教師なんだけど」

 琴絵はすでにスケジュールに目を通していたようで、うなずいた。

『承知しています』

 それからきょろきょろする。

『妹さんはどこに……』

「もう俺の家に……」

『えっ!』

 という紙を示す琴絵。彼女は会話用のスケッチブックを持ち歩いているが、定型的な言葉はあらかじめ見せやすいようになっている。

『学校で勉強を見るのではないのですか I』

「それは家庭教師って言わないだろう」

 と雪人は答えてから。

「学校は学校で勉強しているし、家の方が集中力も上がるだろうから」

『てっきり学校だと思いました』

「俺としては家で家庭教師をして欲しい」

 琴絵は慌てていた。急いでサインペンの蓋を取ると、スケッチブックに書き込む。

『無理です!』

 顔全てをスケッチブックで隠している。持つ手が微妙に震えていた。

「なんで?」

 返事があるまで、間があった。

『死んじゃいます』

「極端だな」

 雪人は呆れたが、琴絵は大真面目らしい。スケッチブックに書き込んでいるときの顔は、今にも卒倒するのではと思えるくらい真っ青だった。

『知らない人の家に行くのは無理です! なにをされるか』

「妹は変なことしないって」

『実はお父様と敵対するお仕事の人かも!』

「違うよ!」

『コンテナ船に閉じこめられて見知らぬ場所に売られるかもしれません!』

 なおも説得しようとするが、『無理です』と『死んじゃいます』を交互に見せていた。しまいには『お父様にお願いして桐村さんの家を』と言い出したので、急いで止めた。

「どうやって授業受けてんだ……」

『完璧に予習をするのです』

 と琴絵。

『あらかじめ質問されそうなことの答えを全部スケッチブックに書いておきます。先生に当てられたら、そこを見せればいいのです』

 そのやり方でまったく不自由がないらしい。成績も抜きんでているというから驚きだ。

『だからわたくしは普通の授業よりもテストの方が好きなのです。スケッチブック使わないのが楽なので』

 しかし家庭教師となるとスケッチブックを使うことになるだろう。どうしたものか。

「ううむ……」

 いきなりの躓きである。人の家を嫌がり、スケッチブックで会話をする人物に家庭教師をしてもらう必要があるのだ。父親に連れて行かれた某国で、ストリートギャングに囲まれスペイン語でまくし立てられたときも、ここまで悩まなかった。

(どうすんだこれ……)

 ふと、手元のスマートフォンが目に入った。

(スケジュールを変更……いやまて)

 彼はスケッチブックを手にしたまま、パニックになりかかっている女子生徒に言った。

「松条さん、俺の言うとおりにしてくれるかな」

『いかがわしいことですか。やはりお父様に』

「違うよ。なるべく松条さんの負担にならないようにする」

『どうなさるのですか?』

「……パソコンかタブレット、余ってないかな」

 雪人は思いついたことをかいつまんで説明した。


 雪人は準備を整えてからマンションに帰った。

 メグは先に帰宅していた。

「お帰りなさい、お兄ちゃん」

 妹は私服だが、小綺麗な恰好をしていた。トレーナー姿ではなく、ふわりとしたスカートを穿いていて、薄く化粧までしている。

「どっか出かけるのか?」

「違うよ。六麗の人が家庭教師に来るんでしょ。楽しみ」

 わくわくを隠さずに言っていた。雪人は靴を脱ぎながら、

「勉強するだけだぞ」

「楽しみ楽しみ楽しみ。今日はどんな人なの? ねえ」

「松条琴絵さんだよ」

「有名な人?」

「ある意味な。大変か?」

「ううん。なんか勉強しがいがある」

 無邪気に喜んでいる。妹は勉強に前向きだった。成績自体はともかく。

 雪人は返事をせず、妹に「部屋、入らせてくれ」と言った。

 この年頃にしては珍しいことだが、メグは兄を入室させることにためらいがない。さすがに勝手に入ったら怒るだろうが、一言声をかければまず断られなかった。

 テレビを見つけると、裏の配線を確認して、学校から持ってきたノートパソコンと繋ぐ。それから起動させてインターネット接続を確認した。

「メグ、家庭教師の準備できたぞ」

「はーい?」

 妹が室内に入ってくる。テレビを見て、きょとんとした。

 テレビはモニター代わりとなってノートパソコンの画面を映している。そこではビデオ通信ソフトが起動していた。

 映っているのは琴絵である。さすがになにが起こっているのか分からず、メグは戸惑ったままだ。

「そっち見える?」

 雪人が喋る。スケッチブックが出現し『見えてます』と書かれていた。

『妹さんはどうですか』

「…………」

 スケッチブックの文字を前に、戸惑いを隠せないメグ。

『妹さん?』

「あ、はい」

 急いでメグが返事をした。

『文字は読めますか?』

「はい……」

『結構です。社会を担当する松条琴絵と申します』

「は、はい、桐村メグです」

 メグは急いで頭を下げる。画面の向こうで琴絵も頭を下げる。手のスケッチブックまで傾いたので、奇妙な光景となった。

 琴絵は例によって顔の半分をスケッチブックで隠しつつ、それでも告げた。

『本日は地理の勉強をします』

「…………」

『早く教科書を開いてください』

「は……はい!」

 メグは急いで小型テーブルを持って来ると、テレビの前に座った。教科書とノートを開く。

『ノートパソコンのカメラをメグさんに向けてください。このままでは見えません』

 メグは言われたとおりにする。

『事情により、カメラ越しで勉強をおこなうことになりました。わたくしは人様の家を訪問できるほど心臓が強くありません。なので、このような方法をお兄様から提案されました』

「はい……」

『異常に見えるかもしれませんが、わたくしにはこれが正常です。桐村さんもぜひ慣れていただければと』

「あの……それだとお兄ちゃんと同じなので、メグと呼んでもらっていいですか」

 琴絵は『桐村』と書いた文字に手早く横線を引く。

『メグさん、ではわたくしを琴絵と呼んでください』

「分かりました、琴絵さん」

『では三十四ページを開いてください』

 メグは言われた通りにした。

 これが雪人のアイディアである。家に来られないのなら、来なくてもいいようにすればいい。インターネット越しなら抵抗なさそうだったので、このような形式にしたのだ。

 それにしても変な光景である。画面越しの授業というのは聞いたことがあるが、教える側は口をつぐんでおり、マイクにサインペンの音が乗っているだけなのだ。

 琴絵のいるところは華凰学園ではなく自宅だ。そこなら彼女も安心できる。ネットの接続だけが不安材料だったが、問題なかった。

『わたくしの言葉と教科書の両方を、ちゃんと把握してください』

「あ、はい」

『暗記に必要なのは集中力です』

 集中するにはちょっとテクニックが必要かもしれない。改善の余地があるかもなあと思いながら、雪人は部屋を出た。

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