第二章 顔合わせ 6
華凰学園の敷地内には散歩道がある。手入れのされた林があって、その中で自由に休憩したり食事したりできる。かつては一般にも公開されていたが、今は生徒のみ使用できる。
砂利が敷き詰められた道を歩いていく。途切れたあたりに、こぢんまりとした建物がある。そこが六麗の間で、雪人が一度入った場所。
さらに行くと、前方がぱっと開ける。そこは大きく切り拓かれており、中央には噴水が据えられていた。
十五年ほど前にある在学生の実家が寄付をしたものである。その家は娘を六麗に入れる下心を持っていたのだが、返答が保留されているうちに離婚騒動が勃発。華凰学園に関わるどころではなくなり、噴水だけが無条件で設置されることになったのだ。おかげで「離婚の泉」という不名誉な名称が付けられている。
ちなみにその生徒は父親の愛人と母親の浮気騒動を乗り越えて優秀な成績をあげ、六麗に諸手を挙げて歓迎された。今でも鋼鉄の意志を持った生徒として尊敬されている。
噴水の周囲にはいくつかベンチが設置されている。昼時にはここで弁当を広げている生徒もいるが、今は一人だけだった。
艶やかな黒髪をした生徒が座っていた。長身なのは座っている姿からでもよく分かり、すらりと伸びた足と豊かな胸が目についた。
彼女は雪人に背を向けたまま、噴水に目をやっていた。
彼はゆっくりと近づく。
「あー、佐々波紀良さん?」
返事はない。女子生徒は噴水のみに目を向けている。
もう一度「佐々波紀良さん」と声をかける。すると、ゆっくりとだが返答があった。
「……噴水というのは、古代メソポタミア文明にはもう存在していた。今から五千年以上前になる」
いきなり妙なことを言われ、雪人は「そ、そうか」としか返事ができなかった。
「水の高低差を利用したと言われるが、実際は空気圧だ。奴隷が二十四時間、複数人でポンプを押して噴出させていたんだ。奴隷は八時間働くと褒美に食糧がもらえ、さぼると鞭で打たれた」
「知らなかった……」
「いや、嘘だ。噴水の歴史など私は知らん」
「……本当っぽかった」
「よし。歴史を捏造してひと儲けするか」
唖然とする雪人。女子生徒が身体ごと振り返った。
大変目鼻立ちの整った女子生徒だった。アイドルというよりは女優のようで、気品すら漂っている。この美しさは直に見るだけではなく、映像だろうと変わらないだろう。一生に一度会えたら幸運と言いたくなる顔立ちであった。
彼女が形の良い口を開く。
「君が桐村雪人君?」
つい見とれていた雪人は、我に返った。
「あ、ああ……そうだけど。よく知ってるな」
「生徒会長たるもの、生徒の顔は全員記憶している」
本当かよと思ったものの、また変わった返答が来そうな気がするので、質問するのがはばかられた。
女子生徒はわずかに笑みを作る。
「実は以前、君と会ったことはあるんだ」
「……俺もちょっとだけ覚えているよ」
「それは嬉しいな」
「本当に嬉しいのか?」
「訊くものじゃないだろう」
「そりゃそうかもしれないけど」
「本当はどうかなんて、他人に分かるものではないよ」
女子生徒、六麗の一にして生徒会長の佐々波紀良はそう言った。
六麗の任期は通常「卒業まで」である。議会のようにいったん全てリセットしやり直すのではなく、卒業したらその都度入れ替えていく。なので一年のときに任命されたらよほどのことがない限り、三年生まで繰り上がっていく。
卒業あるいはやむを得ない事情により入れ替わる場合、新しく任じられた六麗は自動的に「六」の地位を得る。新たに六麗になるものは一年生だろうと三年生だろうと制限はなく、「そのときもっとも六麗にふさわしい生徒」が任命される。選出方法は理事会に一任されており極秘だが、家柄や成績、生活態度などが考慮されると言われている。
六麗への選出は学校における他の地位に影響されない。つまりどこかの部の部長をやっていようといまいと関係がない。むしろ「箔が付く」ということで、部長などが任命されることは多い。
さて約二年前、六麗の一人が卒業によって退任した。彼女は六麗の一であり、生徒会長を兼ねている。通常なら番号が繰り上がるのだがこの場合だけは例外で、生徒会長選挙で当選した人物が無条件で「一」となるのだ。男子が生徒会長になることがあればまた話は違うのだろうが、今のところ女子以外は当選していない。
ごく自然に生徒会長選挙がおこなわれ、紀良が当選した。ちなみに華凰学園では生徒会は六麗が担い、生徒会長のみが選挙選出であとは学校による指名制である。
生徒会長は六麗のトップとなるのだから立候補に厳しいチェックがある。紀良の成績に問題はなく、実家は石油関係の大手である。しかしその性格が「なんかちょっと」と思われるものなのだ。
紀良は雪人に隣に座るよう告げた。傍らに置いてあるステンレス製の水筒を手に取る。
「コーヒーを入れよう」
「別にいいよ」
「私が飲むんだ」
「…………」
彼女は本当に、自分の分だけコーヒーを入れた。
水筒の蓋をコップ代わりに、ゆっくりとすすっている。香ばしい香りが湯気に乗り、静かに広がっていた。
紀良はコーヒーを一杯飲んだ。それを待ち、雪人は口を開く。
「伝えることがあるんだ。俺は六麗の補佐っていうか、雑用係を頼まれたんだ」
「ほう。雑用係君がどんな用だ?」
「ご機嫌うかがい。家庭教師の」
「あれか。承諾したが、よりによって私もとは」
紀良は感心したように言う。
「私は学校の嫌われものだ。なかなか度胸があるな」
言葉の中身に反して顔つきは平然としていた。
紀良はそれこそ一年のときから、「佐々波さん」と呼ばれている。下の名を使われることもなく、年上だろうと年下だろうと揃って「佐々波さん」なのだ。
外見は高校生離れした美しさで、モデルばりの肢体をしており、大人っぽさからいえば、学園随一である。なのでさんづけも当然の気もするが、どちらかというと畏怖が込められていた。
学業も運動も学園のトップである。これは入学当初から変わらない。だがそれより、「頭の回転の速さを口を動かす方に費やしている女」として知られているのだ。
常に皮肉と諧謔と自虐が入り交じった喋り方をしており、矛盾した物言いも平気でおこなう。しかも異様に厚い面の皮。
そのため、皆、紀良と話をするときには異様な緊張を強いられていた。
「まあ、私は嫌われても問題ないと思っているんだ」
どこかいたずらっ子のような雰囲気を持つ生徒は言った。
「噂好きの女子にネタを提供したと思えばいい。大半は根も葉もないし、火のないところの煙にすぎない。女子のやることにいちいち目くじら立てるのか?」
「俺の記憶じゃ佐々波さんも女子生徒だ」
「もちろん。真の問題は、ほとんどの生徒が私のことを皮肉屋で近寄りがたいクソ女だと思ってるってことだ」
「酷い話だな」
「いいや。悪くない評価だと思ってるよ」
紀良はさらに言った。
「訂正するなら、皮肉屋のところを慈愛に満ちた生徒会長にして、クソ女を清純な美少女にするくらいだな」
いかにも当然のような口調である。雪人は呆れた。
「そういうところが嫌われるんだろ」
「君ははっきりものを言うから好きだ」
雪人は他の六麗のことを思い返していた。
「なにか家庭教師の条件とかあるか?」
「金でもせびった方がいいか」
「止めて欲しい」
「じゃあひとつだけ。そうだな……」
彼女は視線を空中に向け、なにごとか思案していた。
「決めた」
「どんな?」
紀良は雪人を見た。
「まだ内緒だ」
「条件になんないだろ」
「言うべきときになったら言うよ。それまではちゃんと家庭教師をする」
意味ありげに微笑んでいた。
雪人は息を吐く。大変な難物だということが、ひしひしと伝わってきた。
敷地内にチャイムが流れる。用のない生徒は下校せよとの合図だ。雪人は振り返ってチャイムを聞き、顔を戻す。
すでにそこには紀良はおらず、ただ噴水の水だけが流れていた。
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試し読みは以上です。
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