第二章 顔合わせ 5
授業も終わり、放課後。
担任教師の話はいつも簡潔に終わる。クラスの担任は女性の教師で、男子からも女子からも人気が高い。からっとした性格が好かれているのだが、この日だけは別れたばかりの男の愚痴がはじまってしまい、クラス委員長が強引に遮って終わらせた。
雪人が机の中のものを全てカバンに放り込んでから教室を出ると、女子生徒が待っていた。
「雪人君」
このはだった。彼女のクラスは先に終わっていたようで、ずっと廊下にいたらしい。雪人は恐縮した。
「あれ。ごめん、待たせた?」
「ううん」
その返事に、雪人はちょっとくすぐったくなる。このはは言った。
「雪人君、残った六麗にも会いに行くんだよね」
無論そのつもりである。二人は並んで歩いた。
三年生の校舎へ行く。このはは一組の扉を開け、中の生徒となにごとか話をした。
「音楽室にいるみたい」
なにか用事でもあるらしい。二人は音楽室が入っている棟へ向かう。
授業はとっくに終わっているため、中はしんとしていた。このはは防音のための分厚い扉を開ける。足を踏み入れた。
中には誰もいなかった。ピアノと、テーブルと一体型になっている椅子が並んでいるだけで、人の気配がない。
「入れ違いか」
「違うかも……」
このはは、音楽室に隣接した楽器部屋を覗き込む。ここは楽器を収納するところで、音楽系の部員以外はほとんど出入りがない。
彼女はすぐに振り返った。
「いた」
「六麗の人?」
「うん。松条琴絵さん」
雪人は楽器部屋に入ろうとする。が、このはに止められた。
「あっ、止めた方が」
「中にいるんだろ」
「すごく人見知りっていうか、あの人はちょっと……」
自称人見知りのこのはが言うのだから、よほどのことなのだろうか。言われた通り、彼は待つことにした。
しばらくそのままでいる。本当に中にいるのか疑わしくなってきたころ、突然大きめの紙束らしきものが出てきた。
「スケッチブック……?」
文字通りのスケッチブックである。白い画用紙がリングで止められて薄い本になっている。それだけが扉の陰から突き出されていた。
そこには黒のサインペンで『どなたがいらっしゃるのですか?』と書き込まれていた。
雪人は目をしばたたかせる。まるでテレビ番組の収録風景みたいだ。アシスタントディレクターがカンペで指示を出しているあれ。
隣のこのはは慌てず、スケッチブックの主に「六麗のお手伝いをしてもらうことになった、桐村雪人君です」と告げる。
このはの言葉にスケッチブックが引っ込む。少ししてから『でも……』と書かれて出てきた。
「大丈夫ですから」
このはが告げると、またスケッチブックは引っ込む。しばらく間が空き、今度は一人の少女が姿を現した。
軽くウェーブのかかった髪に、やわらかな瞳。雰囲気はいかにも上品で、懐かしの「癒やし系」を彷彿とさせるが、妙に影が薄い。身長は稟果より少し高い程度だろうか。
彼女は雪人を見ると、びくっとした。そして動悸を抑えようと深呼吸をし、両手を揃えて礼をする。
挨拶をしているのは明らかなので、雪人も急いで頭を下げる。
「あ、どうも。えーと……」
彼女はスケッチブックに書き込んだ。
『三年一組の松条琴絵と申します』
「松条さん……あの、普通に喋ってくれていいですよ」
『このままで』
「……スケッチブックで話するんですか?」
『はい』
琴絵はスケッチブックを顔の前に掲げたまま、小さくうなずいた。
驚く雪人。もちろん琴絵の存在は知っていた。だが、スケッチブックで会話をするタイプだとは思っていなかったのだ。
琴絵はまた書き込んだ。
『二年生の方ですか? 茜さんと同じ』
「ええまあ」
『六麗は女子のみのところですが、それも古い価値観と共に作られたもの。伝統は大切とは言え、わたくしは男子を入れることに反対はしません』
「はい……」
『ですが、やはり戸惑ってしまうことをお許しください。あと、こっちを見ないでください』
琴絵はスケッチブックで自分の顔を半分ほど隠しており、視線も逸らしていた。
言われた通り、雪人は琴絵を見ずにこのはの方を向く。
「どういうことだ……?」
「琴絵さんはすごい人見知りで、他の人と話すのが苦手なの。理由は分からないんだけど、いつもああやってる」
「家じゃどうやってるんだ」
「自宅では普通に話してるみたい」
なら学校でもできるだろうと思うのだが、当人は頑なにスケッチブックでの会話を止めなかった。
『わたくしの実家の話ですか?』
琴絵がスケッチブックを見せる。
『妙な噂もありますが、普通の家なんです。信じてください』
このはが言う。
「でも、ずいぶん大柄な男の人が出入りしてて、小指がなかったりするんですよね……?」
『普通です』
例によって顔を隠しているものの、今度は二人にちらちらと目を向けていた。
『お父様のお仕事は、ただの噂です。本当です』
六麗の二、松条琴絵は膨大な土地を持つ、地主の娘である。江戸時代以前より各地に土地を持ち、どのような手段を使ったのか戦後の混乱期にもほとんど失わなかった。大都市の一等地を管理しており、かなりの数を大企業に貸しているため、松条家には頭が上がらないことが多い。
そして琴絵の父親だが、土地管理を主とする実業家であるものの、実体は「ヤのつく自由業」であるとの噂が絶えなかった。もちろん当人は否定するし、そもそも警察にマークされている人間の娘は六麗にはなれない。にもかかわらず、「きっとそうに違いない」との噂だけは消えていなかった。
『お父様の噂を聞いて、わたくしを避ける人もいるんです。迷惑してます』
急いで書いたため、文字の最後が乱れている。雪人は安心させるように言った。
「別に信じてないから」
『本当ですか?』
「本当」
『粗暴なことはしませんか?』
「しないってば」
琴絵はほっとすると、今度はゆっくりスケッチブックに書き込む。
『安心しました。もし腕力にものをいわせて六麗を混乱させる方でしたら、わたくしはお父様にお伝えしなければならないところでした』
どこか不穏な書き込みに雪人の胸中がざわつく。
「あの、それって……」
『はい?』
「なんでもない」
急いで首を振り、このはに囁く。
「なあ、やっぱり噂通りなのか……?」
「分かんないよ……」
彼女は恐ろしそうに首をすくめた。
琴絵は身体の半分を楽器部屋に隠した。そんな彼女に向かい、家庭教師を引き受けてくれたことへの礼を伝える。
『六麗の義務として、手助けは当然のことです』
「誰かと一緒は嫌だとか、そういう条件は……」
『別にそのようなことは……ですが、音楽系は苦手です』
歌唱は難しいとのことらしい。当然だろう。ただ楽器演奏は問題ないどころか優秀で、ついさっきまで吹奏楽部の顧問に、入ってくれないかと勧誘されていたとのこと。
雪人は胸を撫で下ろした。
「よかった。意外に一番面倒がなかった」
『意外とはなんですか』
「言葉のあやだよ」
『ところで六麗は、全員が家庭教師をするのですか?』
これにはこのはが返答した。
「引き受けてもらいました」
『南紀島さんと吉元さんは大変でしょう』
「引き受けてはくれましたけど……。全員同時は難しいみたいです」
『仕方ありません』
「なにか知ってるんですか?」
琴絵は若干ためらった後、スケッチブックに『わたくしの口からはなんとも』と書いていた。
沈黙が続く。
なにしろ琴絵が喋らないので、会話が途切れると空気が沈む。音楽室のため、外の騒音も聞こえなかった。
琴絵がサインペンを走らせた。
『わたくしで最後ですか』
「いえ、まだ佐々波さんが」
このはの口から出た途端、また重い空気が流れる。琴絵も身の置き所がなさそうにしている。不謹慎というか、ついに言ってしまったという感じであった。
琴絵がサインペンで書いては消し書いては消しを繰り返す。
『あの方に家庭教師は務まるのでしょうか』
「佐々波さんは六麗の一、生徒会長ですから」
『そういうことではなく』
「それは……」
このはは雪人を見る。
「雪人君……佐々波さんのことを知ってたっけ」
首を縦に振る。
「実はちょっとだけ」
「そっか……。じゃあ話しやすい……かな」
なにやら躊躇している風であったので、先に言う。
「俺だけで行くよ」
「一緒じゃなくていいの?」
「あの人の性格は俺も知ってるから。三年のところだよな」
「五組だけど、今は向こうの方のベンチに座っていると思う」
このはが音楽室の壁の、さらに先を指し示した。そちらに顔を向けてはみたが、窓がないので様子は分からない。
「行ってくるから、このはさんは先に帰ってて」
そう言い残すと、彼は音楽室を出た。