第三章 スケッチブックの運用法 2
勉強も無事終わり、メグはノートパソコンを抱えて部屋から出てきた。途中でパソコンがフリーズしたり、琴絵の使っているサインペンのインクが切れたりといったトラブルはあったが、おおむねうまくいった。
『上出来だと思います』
画面の向こうで琴絵が言う。メグはやや疲れた顔をしており、これは普通の勉強と勝手が違ったせいだろう。
雪人は食事の用意をはじめる。
「お疲れさん。松条さんも夕飯食べていく?」
『わたくしそこにおりませんが』
「気分の問題だよ」
テーブルに食器を並べ、ノートパソコンも置く。雪人とメグが向かい合って座っているところを、横からノートパソコンが見ているような形となった。
「俺たちは食事にするけど、通信は切らないでもらえる?」
『ではこちらも食事にします』
雪人はごはんとおかずを二人分よそう。ノートパソコンの向こうでは琴絵が自分の食事の用意をしており、変わった夕食がはじまった。
いただきますの声が発せられ、食事がはじまる。
「松条さんの家はどこにあるんだ?」
『知りたいですか?』
「いやなんとなく」
『それより、わたくしのことは琴絵と呼んでください』
彼女はお茶を飲んでから言った。
『メグさんにだけ呼んでもらって、お兄さんは別なのはちょっと』
「いやー、年上だしよく知らないし」
『名前で呼んでもらうのが唯一の生き甲斐なのです』
「生き甲斐とか極端じゃないかな」
『お父様に』
「琴絵さん」
琴絵の表情がぱっと明るくなる。スケッチブックに『ありがとうございます』と書いていた。
ちょうど食事が終わった頃、チャイムが鳴った。雪人はモニターで確認して、解錠をする。
「こんばんは」
やってきたのはこのはであった。彼女は玄関扉を開けた状態で首だけを突っ込んだ。
「……琴絵さんは?」
「来てるよ。さっき勉強終わった」
「うまくいった?」
「今のところ問題ないな。入って」
このはは「お邪魔します」と告げて靴を脱いだ。
テーブルの空いている席に座る。ノートパソコンを見て、妙な表情をした。
雪人がノートパソコンを動かす。画面に琴絵が映っているのを見て察したが、同時に呆れた。
「これ、来てるって言うの……?」
「精神的には来てる」
メグは食後のコーヒーを持って自室へ引っ込む。リビングには二人と一台のパソコンだけとなった。
『……こんな夜中に、茜さんはなぜ男性の家に押しかけたのですか?』
「なんだか語弊がありますね」
『じゃあ出入りですか』
「ヤクザみたい……」
『我が家は違います』
「えーと、実は雪人君に呼ばれたんです」
これは本当である。メグが勉強している間に、電話をしたのだ。
「琴絵さん、家庭教師大丈夫だったんですか?」
『うまくいきました。たとえば動画サイトでは実況というのがありますよね。遠くにいる人たちが同時にアニメやドラマを見て、感想を書き込みながら一体感を得るという』
「ええ、はい。よく知ってます。あれ盛り上がりますよね」
このはは雪人の方を向く。
「動画サイト、結構見てるから」
雪人はそれほど見ない。スポーツ中継で利用しているくらいであった。
『わたくしも動画を見るのが好きなのです。喋る必要がありませんから。……ともかく、実況に慣れていればなんということはありません』
「はあ。じゃ、いつもはそうやって暇つぶしてるんですか」
『一人でビデオを見ることが多いですね。キータッチする必要すらありません』
話がずれそうになったので、雪人は一度咳払いをした。
「ええと、いい機会だから琴絵さんに訊きたいことがあって。それでこのはさんも呼んだんだ」
もう一度ノートパソコンを動かし、自分とこのはの二人が琴絵に見えるようにする。
「琴絵さんは三年生だし、六麗もこのはさんより古いよね」
『それは、まあ』
「どうして六麗がこういうことになったのか、原因知ってるかな」
この質問に、サインペンを持つ手がぴたりと止まる。
琴絵の視線が宙を泳ぐ。ふらふら彷徨っており、見るからに逡巡していた。
『……どうしてそのようなことを?』
「妹の成績にも関わってくることだから」
雪人は、このはと学園長に頼まれたということはあえて伏せた。
『その……わたくしの口からはなんとも……』
「喋らなくても書いてもらえればいいよ」
『とんちですか。橋を渡ってはいけないのなら真ん中を渡ろうと』
「原因なに?」
琴絵はスケッチブックでぱっと顔を隠した。
パソコンの画面が白い紙で埋まる。雪人は急かしたりせずに待つ。
やがて、恐る恐るといった感じで、琴絵の目だけが出てきた。
『……もしかしたら、わたくしを夕食に誘ったのは、このためですか……?』
「気を悪くしたら謝るよ」
『実は……というか、わたくしも詳しく理解してるわけではないのですが……』
琴絵は幾度もサインペンで試し書きをしながら書いた。
『六麗も以前はこのようなこじれた関係ではなく、皆六麗の間に揃っていました』
きゅっきゅっとペン先の擦れる音が聞こえてくる。
『それがちょっとした事件を切っ掛けに、こじれてしまったのです』
「いつのこと」
『稟果さんが六麗に加わった直後ですから……今年の四月です』
このはが加わったのが五月である。新学期はじまってすぐだ。
サインペンの先端が、しばらく空を切った。
『あとのことは、ここでは』
横にいるこのはが身を乗り出した。
「私と雪人君しかいませんから、喋っても平気です」
『…………』
琴絵はスケッチブックにいくつも点を打っていた。
このはは雪人よりも積極的だ。彼女は急かすように言う。
「教えてください」
『……教えられないんです』
画面の向こうで首を振っている。
『喋らないと約束しました。どのみち、詳しく知っているわけではありませんので』
「約束って、誰とです?」
『それも言えません』
彼女はサインペンを置くと、あらかじめ用意してある面を見せた。
『これ以上は刑事事件専門の弁護士を通してください』
「刑事事件……?」
『間違えました。実家に乗り込んでくる人を相手にするには、そういう方も必要ですから』
今度は雪人が質問する。
「じゃあ、これなら教えてくれると思うんだけど、喋らないって約束したのは琴絵さんだけ?」
琴絵は少しだけためらったが、サインペンを動かした。
『全員です』
琴絵はしばらくその文字を掲げてから、引っ込めた。
『ところで、明日の家庭教師はどなたがやるのですか』
「あ、ごめん。全員分の日付書いてなかったかも。柊さんの番」
雪人が答えた。
『あの方はわたくしよりも大変なのでは』
「近づけないからなあ……」
『吉元さんと南紀島さんも』
「もう覚悟を決めた。このはにも手伝ってもらって」
「このは?」
と言ったのは隣にいるこのは自身。雪人ははっとした。
「ああ、ごめん。つい」
雪人は口を押さえる。このははにこりとした。
「いいよ。そうして欲しかったし」
「やっぱやめとく」
雪人は狼狽を隠しながらそう言った。
「いいってば」
その様子を、琴絵が画面の向こうからじっと見つめている。
『お二人は仲が良いのですね』
「いいっていうかなんていうか」
『わたくしから質問してもよろしいですか』
「もちろん」
『では……桐村さん、少しはずしてもらえませんか』
雪人は目をしばたたかせた。
「ここ、俺ん家なんだけど」
『茜さんにお話がありますので』
そう言われては仕方なく、彼は自室に引っ込むことにした。