第一章 再会 その1
「——ハッ……」
がたんっ、ごとんっ、と電車の走行音が僕の耳朶を打った。その走行音こそが今、僕を夢の世界から現実へと引き戻してくれたトリガーだった。
「そっか……」
夢だったんだ——と、ホッとしつつ、なんて夢を見てしまったのかと頭を抱える。
そもそも夢というより、今のは再現VTRだった。
完全な創作や妄想ではなくて、僕が実際に体験した過去の記憶。
今からおよそ一〇年も前になるだろうか、それは僕の初恋の思い出で……。
《まもなくー、到着致します。お出口は右側です。お忘れ物がございませんように——》
僕の思考を打ち砕くかのように、車内アナウンスが鳴り響く。
もうじき目的地に着くらしい。ひとまず夢のことは忘れて、立ち上がった。頭上の荷物置き場からキャリーバッグを取り出して、降り口となる扉の前に移動する。
電車が停まる。ぷしゅー、と空気が抜けて、扉が開いていく。
降りるとそこは、都会と比べたらまるで人の居ない寂れたホームだった。
改札を抜けて駅舎から出ると、閑散としたタクシー乗り場が広がっていた。
懐かしい……。昔、一時的に暮らしていたこの
忘れようのない特別な思い出があるこの土地で、僕はまた暮らすことになる。
※
三月半ば。
高校進学を二週間後ぐらいに控えたある日——両親が突如として海外赴任することになり、僕はそれについていかなかった。
結果として、進学前の春休みに祖父ちゃんと祖母ちゃんが住まうこの町に引っ越すことになって、今こうして到着したんだ。
僕はかりん荘というアパートで一人暮らしをすることになっている。祖父ちゃんと祖母ちゃんは何かあった時に頼る保険といった感じだ。言い方は悪いけれどね。
スマホで地図を開きつつ、僕は今日からお世話になるかりん荘への移動を始めていた。
「ええと……こっちで合ってるんだよね?」
閑散とした表通りを歩いていると、歩道橋の階段部分で一人のお婆さんが重い荷物を抱えながらぜえぜえと息を切らしている光景が目に付いた。
大変だ、と僕はそのお婆さんに駆け寄り、代わりに荷物を持ってあげた。反対側の階段を降りきったところで、その荷物をお返しする。
「いやはや。坊や、ありがとうね」
「いいんですよ。それじゃあ失礼します」
誰かを気遣うことの大切さを僕は知っている。
気遣われ、救われた経験があればこそ、困っている人を無視出来ない。
特にこの町では絶対にだ。
僕が救われたのはこの千石町でのことだから。
※
《今何してるの?》
かりん荘探しを再開していると、そんなラインが届いた。海外赴任の両親についていった結果として僕と離れ離れになってしまった我が妹・もなみからのモノだった。
ちょっと生意気だけれど、家族としてはもちろん好きな妹だ。個人的な趣味に則って言わせてもらうと、姉だったらもっと良かったのにな、と時々思ってしまう。
《アパートを求めてさまよってるところ》
と返信しておく。すると——
《じゃあお兄ちゃん、これ見て英気養って!》
そんな返事と共に画像がすぐに届いた。
なんかのアニメに登場する小柄なチアガールの画像だった。
うぅ……くっ……もなみのヤツ、僕の趣味を知ってての狼藉だねこれは。
《なあ、青臭いロリの画像なんか見せられたら僕の正気度が削られていくんだけど……》
《お兄ちゃんひどっ! 私の今の推しを旧支配者扱いしないでっ!》
《それよりお姉さんキャラの画像はないの?》
《ないよ! なんでお兄ちゃんはそんなにババ専なの! きもっ!》
散々な言われようだった。あと僕はババ専じゃなくてお姉さん専だから。
もなみとのやり取りはそこで途切れ、僕はかりん荘探しを再開する。
「あ、ここかな」
それから一〇分ほど歩いたところで、一棟の小綺麗なアパートが見えてきた。
「まず、えっと……大家さんに挨拶しなきゃな」
大家に御用の方はこちら、という張り紙に従って一階の一番隅の部屋に向かった。
インターホンを鳴らして大家さんの登場を待つ。
綺麗なお姉さんだったら個人的には嬉しいけれど、そう都合よくはいかないよね。
するとややあって、はーい、という澄んだ返事と同時にがちゃりと扉が開かれて——
(——わっ、綺麗な人だ……)
僕の視界に飛び込んできたのは、清楚な雰囲気をまとった美人なお姉さん、だった。
ヤバいほどの美人だ! 道中に見かけた三月の桜みたいな色の髪の毛は絹糸のようになめらかで、ニットセーターにロングスカート、その上にエプロンも着用している家庭的なスタイル! そして何より、エプロンの胸元が内側からデデドンと押し上げられていることに気が付いて、僕は思わず凝視してしまう。す、すごい……!
「あら、君はどちら様?」
僕の邪な視線をよそに、大家と思しき美人のお姉さんはキョトンとしていた。
そ、そうだ挨拶だよ挨拶! 胸をガン見してる場合じゃない!
「えっと、あの、今日からこのアパートでお世話になる予定の
伝わってくれなきゃ困るんだけれど、それは杞憂で済みそうだった。
「あらあら、君が晋藤さんなの? あれ? でも、契約の時にお電話でお話しした声はもうちょっと年配の方だったような……?」
「あ、それ僕の父さんだと思います。代わりに色々と手配してくれたので」
「あらイヤだ、じゃあ私が勘違いしていたのね……恥ずかしいわ」
羞恥で火照り始めた顔をぱたぱたと手で扇ぐ大家さん。
「ここまで迷ったりはしなかった? 平気だったかしら?」
「地図アプリに頼って来ましたから、なんとか」
「そうなのね。でも大変だったでしょう? 今お飲み物を持ってきてあげるわ」
「いえ、お構いなく」
「あら、遠慮はしなくていいのよ? 待っててちょうだいね」
楚々とした所作で、大家さんが部屋の奥に消えていく。
上品で、気遣いも完璧。
そっか、現代の大和撫子はここに居たんだね。うむうむ。
「おまたせ。お手製の紫蘇ジュースしかなかったけどいいかしら?」
「わ、紫蘇ジュースを作れるんですか? 僕好きなんです、祖母ちゃんがよく作ってくれて」
言いながら受け取り、ひと口飲む……ふぅ、冷たいし甘酸っぱくて美味しい。
そんな僕のことを、大家さんがなぜか興奮気味に目を輝かせながら見つめていた。
「(それにしてもラッキーだわ……年配の方がいらっしゃるかと思えば、一気にクラスチェンジしてまさかまさかのショタくんが到来よ……ふふ、うふふ……得した気分ね)」
「え?」
「なんでもないのよ?」
大家さんは真顔に戻っていた。
そ、そっか……なんだか身の危険を感じたのは気のせいだよね。
「ねえそれよりボク、下のお名前はなんて言うのかしら?」
「ぼ、僕はそんな風に接してもらうような歳じゃないです!」
確かに小柄ではあるけれど、春休みが終われば高一だ。小さい子扱いはちょっとね!
「(あぁ……怒った顔も可愛いわ。お小遣いあげたい……)」
「え?」
「なんでもないのよ?」
その真顔やめてくれないかな。ちょっと怖い。
「そんなことより、ちっちゃい子扱いしてごめんなさいね。よしよし」
なんでこの人ナチュラルに頭を撫でてくるんだろう。初対面だよね? 嫌いじゃないけど。むしろ控えめに言って嬉しいけどさ。僕はお姉さん専だからね。
「で、君のお名前はなんて言うのかしら? マイケル?」
「マイケル要素皆無だと思うんですけど……。その、僕は晋藤要って言います」
「要くんって言うのね。あら、素敵なお名前。私は
大家さん——鈴音さんはそう言うと、僕に握手を求めてきた。
僕はその温かな手を握り返す。
「こちらこそよろしくお願いしますっ。それで、あの、荷物ってもう届いてますよね?」
「ええ、受け取っておいたわ。随分と少なかったわね。中身もお洋服ばかりのようだし」
「急だったもんで——って、なんでしれっと開けてるんですかっ!」
「あら、開けてはいないのよ? 中からショタ臭——じゃなくて洗剤のいい香りが漂ってきたから、それである程度中身の判断が出来たというだけであってね」
なんか今、妙なカタカナ言葉が……。
「それよりほら、要くんのお部屋に行きましょう。荷解きを手伝ってあげるから。ね?」
「わ、分かりました……」
それから僕は鈴音さんに先導されて、新たな生活拠点となるかりん荘二階の一室に足を踏み入れた。両脇に人が住んでいるみたいだから、あとで挨拶しなきゃね。
「うちのアパートはこういう感じなのだけど、どうかしら」
八畳の1LDK。風呂トイレ付き。うん、最高だね。洋風で綺麗だし。
「一人暮らしってことだけど、もし何かあれば私を頼ってくれていいからね? 私、要くんのお願いならなんでも聞いてあげちゃうから……ふふ、うふふ」
なんだか邪悪な笑顔に見えるけれど、きっと気のせいだと思いたい。
何はともあれ、僕は大家の鈴音さんと無事に打ち解けられたことに安堵しつつ、一緒に荷解きを開始したのだった。
※
『ほい、要くんに飴ちゃんあげちゃう』
『わっ、ありがとうおねえちゃん。さっそくなめちゃおっと』
『美味しい?』
『うんっ!』
『じゃ、飴ちゃんの対価もらっちゃうね?』
『えっ、タダじゃないのっ!?』
『でもお金を取るわけじゃないよ? ——それっ、ハグからのむぎゅむぎゅ攻撃だ!』
『ひゃあ!』
『にひっ、女の子みたいな声だねえ? それそれっ、もっとむぎゅむぎゅしちゃうぞ~?』
『や、やめてよーっ!』