第一話.探偵と象④

 高校生活のスタートに失敗した俺と、俺をはさんで座る双子。無駄話の好きな変わり者の姉と、博識だけど頭の硬そうな妹。

 教室の隅っこの三人ができることなんて、こんなもんだろう。

 しかしこうなると、ことはしさんの人脈圏内の女子グループを敵に回してでも頼みを断るしかなくなった。それはもう、しかたない。のっけから灰色の高校生活が約束されるのかもしれないとしても……無いそでは振れない。

 実を言えば午前中の内にあきらめはついていた。ただ、ちょっとした心残りがあったから今までうだうだしていただけだ。

 自然と、ためいきに似た独り言が出た。

「……できれば、何事もなかったように解決したかったけど」

「浮気をゆるせと言うんですか?」

 最低ですね、と続きそうな冷たい声でゆきが言う。雪を冠する名前の通り、姉との温度差が大きい。俺はあわてて首を振った。

「そうじゃなくて……琴ノ橋さんのことだよ」

 いとぐち先輩とやらのことは、正直どうでもいい。

「浮気が確定しちゃったら、ケンカするにしろ別れるにしろ、すごく傷付くだろ」

 雪音はなにか虚をかれたように言葉を失って、それからあきれ返ったような顔をした。そのリアクションはどういう意味なんだろうと彼女を見ていると、反応が返ってくる前にあまの「へぇぇー」と間延びしたような吐息が聞こえた。

「あんなむりやり頼まれたのに、マリーのこと心配してあげるんだ」

 左隣の同級生はそこで一拍置いて、椅子の上であぐらをかきながら続けた。

「それはちょっと、おひとしすぎない? それともマリーが美人だから?」

 後半は茶化すような声だったが、雪音と同様、俺の態度が理解できないようだった。

「いや、美人は関係なくて……」

 その頃にはもう、昼休みは終わりかけていた。俺は自分の弁当箱を閉じ──結局食べきれなかったから、残りは次の休み時間に食べよう──、考え考え続ける。

「琴ノ橋さんが強気で強引な人だよ。

 自分の要求を男子が受け入れるのは当然みたいに思ってて、告白が断られるなんて考えもしない。そんなプライドの高い琴ノ橋さんが、傘の女性が目撃されてから三日も先輩に連絡できなかったり、今もまだ本人を問い詰めることに踏み切れないんだ。

 下手に突っついて、今の関係が壊れるのが怖いんだと思う。だから、俺に恥をさらしてまでこっそり調べてほしいって言ってきたんじゃないかな。

 それはつまり……糸口さんて人を本気で好きだってことだろ? かわ──」

 ──いいじゃないか、と言いかけて言葉をみ込む。また雪音に怒られそうだ。呑み込んだ言葉を口の中で素早くみ砕いて、別の形にして吐き出す。

「……そういう人が浮気されてたってなったら、やっぱり悲しいから」

 こういうのがあるから、父さんには悪いけど探偵というのは好きになれない。父さん本人や歴代の助手の人たちから聞く限り、多くの場合、探偵の結果は男女関係にしろ会社同士の関係にしろ、破局をもたらすからだ。

「いやまぁ、八つ当たりされたらこわいからっていうのもあるけど……」

 最後に情けないことを付け足した途端に、昼休み終了のチャイムが鳴った。

 教室の内外のみんながあわただしく動き出す。その騒ぎにまぎれて、双子の反応はよくわからなかった。

 ゆきは次の科目の教科書やノートを机から取り出し、眼鏡をかけながら、

「……もしむらくんが断りづらいなら、わたしからことはしさんに言いますよ。一応、クラス委員ですから」

 事務的というにはいくらか柔らかい声で言ってくれた。

 ……そういえば彼女は委員長だった。いい加減なところのある担任の先生が、まだ生徒がよくわからんからと入試の成績だけを根拠に指名し、雪音もあえて断らなかったから、そのままクラス委員になってしまったのだ。

 たしかに頭は良いようだが、いわゆるコミュりよくには不器用なものを感じる。しかし、彼女は彼女なりに自分の役割を果たそうとしているようだ。

「いや、だいじょうぶ……それはさすがに情けないし、自分で断るよ」

 右隣の委員長はただ、そうですか……と返して授業の準備に戻った。眼鏡のよく似合う横顔は、なにか物思いに沈んでいるようにも見える。変な話をして悩ませてしまったかと思いつつ、そういう静かな表情が似合う子だと、目をかれた。

 ……と言って、俺は俺で授業の用意をしないといけない。視線を戻すついでにあまを見ると、雪音とよく似た顔に、正反対の表情を浮かべていた。

 俺を見て、にっこりと笑っていたのだ。

 それは、ハゲワシのハゲた理由を聞いた時によく似た笑顔だった。


 午後の授業中は、その笑みの残像がずっと黒板やノートに重なっていたように思う。

 とらえどころのない不思議なだった。あるいは肉食の獣が日向ひなたぼっこをしている時の、無邪気に幸せそうな笑みと言うべきか。

 さっきまで気だるそうだった雨恵の底の方に、なみなみと生気が宿ったようだった。授業中もちらちらとその横顔をうかがったが、ひたすらつまらなさそうにしていた午前中とは打って変わってに力がある。そして、ノートに向かって何事か書き連ねていた。

 それでいて授業を聞いている風もなく、先生から指名を受けると全然答えられなかった。妹に不機嫌な顔をされても、ただへらへらと首を傾ける。

 理由はよくわからない。さっきの話のなにが、この自堕落な少女を刺激したのだろう。

 昼下がりの俺は、朝から散々悩んできた浮気話を忘れて、この奇妙な同級生女子のことを考え続けていた。


 ──午後の授業もそんな雑念にかすむまま終わり、時は早、放課後になった。

 帰り支度をしていると、おもむろに寄ってきたことはしさんに、

「じゃ…………よろしくね」

 と、目を合わされることもなく肩をたたかれた。下手ににらまれるよりこわい。リストラを告げられるサラリーマンの気持ちがちょっとだけかいえた気がした。

 バッグに荷物を詰める動作が、自分の胃へ石を詰め込んでいるように錯覚される。ゆきにはああ言ったものの、やはり面と向かって依頼を断ることはできなかった。とりあえず、今日の夕飯はしく食べられそうもない……

「たしかに、言われてみれば思い詰めたような顔をしてましたね、琴ノ橋さん……」

 と、これは右隣のやま雪音だ。すでに眼鏡を外していて、教室を出て行く琴ノ橋さんの背中に視線を送っている。

「……明日にでも断るよ」

 ためいきとともにのろのろと立ち上がり、帰ろうとしたところで──後ろからバッグを引っ張られた。ぐっ……とってから振り返る。

 うっすらあかみがかった夕空を背に、座ったままの山田あまが俺を見上げていた。窓から差し込む光の中で、きめ細やかな髪からのぞく両の瞳がくっきりと輝いている。

 ぇ……? と声もなく問うと、双子の姉はいたずらっぽく、いたずらのようなことを言ってきた。

「ねぇ、むらくん。

 ひょっとしたら、浮気相手なんていなかったのかもしれないよ」

 そんな不思議な言葉とともに放されたバッグは、心の石を詰めたはずなのに、羽のように軽かった。

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