動画作成者としてある程度名が売れてくると、横のつながりもできる。
僕はMusa男としてのSNSのアカウントを持っており、動画サイトを通じて知り合った同業者たちが何人もフォロワーにいた。彼ら彼女らとはリアルでのつきあいは一切ないし顔も知らないことがほとんどだけれど、お互いに音楽歴と音楽の趣味だけはよく知っていた。
その中の一人、《グレ子》さんという人は現役の音大生で、アップロードする曲のアレンジもクラシック色が強かった。たぶんあちらの世界に詳しいのではないかと思い、彼女にSNSのダイレクトメッセージで訊いてみる。
『冴島凛子って知ってますか? ちょっと前まで中学生のピアノコンクールでけっこう良いところまでいってたやつらしいんですけど』
すぐに返信があった。
『知ってるよ。コンクール荒らしで有名だったから。すっごい遠くの地方の大会にも遠征したりして、どこでも出るたびに一位とるから嫌われてたよ』
それって嫌われるものなのか。コンクール荒らしっていったって、べつに暴力的な意味で荒らすわけじゃなくて出場しまくって優勝しまくるだけなのだから正当な実力の結果だろうに。ただのやっかみじゃないか。それでクラシック音楽の世界がいやになってピアニストの夢をあきらめたんだろうか。
『冴島凛子がどうしたの?』とグレ子さんは訊いてきた。
一瞬、正直に打ち明けてしまおうかと思った。同じ高校に通ってるんですよ、と。面と向かっての会話だったら言ってしまっていたかもしれない。文章でのやりとりだったので思いとどまることができた。個人特定につながる情報はネット上ではなるべくやりとりしないように心がけないと。
『コンクールの動画たまたま見つけて気に入ったんですけど今どうしてるのかなって思って』
僕はそう返した。噓ではないが完全に正直でもないのでちょっと申し訳ない。
『ぱったり名前聞かなくなったね。ピアノやめたのかも』
グレ子さんはそう書き送ってきた。
『たしか何回か一位を逃したんだよね。スランプかな。それでやめちゃったのかも。めんどくさい世界だからね、全部投げ出しちゃいたい気持ちになることはあるよ。私も経験ある』
めんどくさい世界。
うん、まあ、めんどくさいのだろうな。ピアノに人生のほとんどを捧げてきたやつが何十人も集まって、よくわからん基準で順位付けされるのだ。親や教師の期待が指一本一本にまでみっしりからみついていて、ワンフレーズ弾くだけでくたびれてしまうだろう。
どうもありがとうございました、とグレ子さんに返信してスマホを伏せて置き、ベッドにごろりと仰向けになる。
そのめんどくさい世界で勝ち続けてきた彼女。
積み重ねられた順位の《1》は細い木の幹のように虚空へ向かって伸び続け、けれどあるときぽっきり折れ、そのまま朽ちてしまった──のだろうか。
もったいないな、と正直思う。
要らないならその才能を僕にくれよ。そしたら女装に頼らなくても再生数5000くらいは稼げるんじゃないか。
ブックマークをクリックし、動画サイトの冴島凛子コンクール動画をまた再生する。動画投稿者は他の情報を特に記載していないので、この演奏が優勝したときのものなのか、それともグレ子さんが言っていた一位を逃したときのものなのかはわからない。でも中学生の演奏なのだ。同年代でこれよりすごいピアノを弾けるやつが、二人も三人もいるなんて信じられない。日本各地のコンクールを荒らし回ったという話だから、同等以上の実力の持ち主とぶつかる可能性もそれだけ大きくなったというだけのことなのだろうか。
でも。
音楽に順位をつけるなんて、そもそもが馬鹿馬鹿しい。色んな人が言っているし僕も心底同意するけれど、音楽には二種類しかないからだ。もう一度聴きたい音楽と、そうでない音楽、それだけだ。
そうして僕は起き上がり、PCの前に座ってブラウザを開く。関連動画リンクをたどり、また凛子のピアノを漁り始める。
その夜に新しく見つけた中でいちばんのお気に入りは、シューベルトのピアノソナタ第二十一番だった。
僕はそれまでシューベルトという作曲家とちゃんと向き合ったことがなかった。小さい頃にちょろっと耳にした未完成交響曲は良さが全然わからなかったし、音楽の授業で出てくる『野ばら』とか『魔王』といった有名な歌曲もさっぱり興味が持てないままだった。
だから凛子の弾く二十一番の第一楽章は衝撃的だった。
微笑みを絶やさない穏やかな青年の、けれど病んだ弱々しい心臓が途切れ途切れに脈動を続けているような、そして時折の重たい痛みに声を殺して耐えているような、そんな切々とした曲だ。どう考えてもコンクール向きの曲じゃない。テクニックを披露するためのわかりやすい聴かせどころが全然ない。しかも、たぶん地味に難しい。おまけに長い。第一楽章だけで二十分くらいある。よくこんな曲を選んだな。
関連動画に、同じコンクールのものらしき別の女の子が弾いているモーツァルトの第八番があり、こちらの動画説明に「優勝した」と書いてあった。
すると凛子のシューベルトは負けたわけだ。
何度聴き比べてみても、敗因はわからなかった。凛子の方が百倍良い。選曲が中学生らしくないから? 演奏が情熱的すぎて聴いてて疲れるから? どちらも、むしろ美点だ。
そういえば、と僕は鞄から楽譜を取り出す。
華園先生に押しつけられた次の合唱曲、たしかシューベルトだったっけ。
『サルヴェ・レジーナ』。
聖母マリアを讃える四部合唱だ。例によって、ピアノ伴奏をつけるようにと言われている。この曲、ピアノソナタ第二十一番と同じく変ロ長調じゃないか。これなら、第一楽章のモルト・モデラートの穏やかな主題を伴奏にそのまま組み込めそうだ。
シーケンサに打ち込んで鳴らしてみる。もうこの時点で震えるほど美しい。自分が天才だと勘違いしそうになるが天才なのは作曲者だ。ピアノソナタ第二十一番だけではなく、『サルヴェ・レジーナ』の方も掛け値無しの名曲だった。シューベルト先生ほんとうに今までごめんなさい。これからは正座して聴きます。
徹夜で編曲した伴奏譜をプリンタで出力した僕は、ぼんやりしたまぶたをこすりながら学校に向かった。
*
その伴奏譜を目にした凛子の反応たるや、すさまじかった。いきなり両手をピアノの鍵盤に叩きつけたのだ。世界中のマグカップがいっぺんに砕けたみたいな、不協和でどこか滑稽な音がふたりきりの音楽室に響いた。
「……Dマイナー11thオンA」と僕はおそるおそる言った。
「和音当てクイズなんてしてない」凛子はにべもなかった。
「……ええと、なんでそんなに怒ってんの」
「怒ってるように見えるの?」
「ううん、まあ」
凛子はいつもの、ちょっと微熱を帯びた無表情だ。出てくる言葉が毒気どっぷりなのも毎度のことだ。怒ってなくてもこの調子だろう。
でも──やっぱりそのときは怒って見えた。
「怒ってないけれど」と凛子は唇を尖らせた。「あなたが死ねばいいのにとは思ってる」
「怒ってんじゃん……」
「シューベルトの四倍くらい長生きしてだれも面会に来ない老人ホームの片隅で毎日毎日シーケンサにマイナーコードだけでできた曲を打ち込みながら孤独に暮らして十一月のよく晴れた朝にふと我に返ったみたいな顔で心不全起こして死ねばいいと思ってる」
微妙に幸せそうな死に様だったので反撃の言葉がすぐに出てこなかった。ちなみにシューベルトは三十一歳で死んでいる。凛子は糾弾を続けた。
「それで、どういうつもりで伴奏にシューベルトのソナタなんて使ったわけ」
「あー、わかる? やっぱり」
「当たり前でしょう。二十一番はもう何百時間かけたかわからないくらい苦労した曲だし」
「そりゃそうか。コンクール用の勝負曲だもんな」
凛子は眉をつり上げた。
「コンクールの曲だって知ってて使ったわけ? なんで知ってるの?」
「動画で観たんだよ。だれかがネットにあげてて」
ふうぅ、とわざとらしい彼女のため息が鍵盤の上を掃いた。
「みんな消えちゃえばいいのに」
動画について言ったのだろうけれど、もっと広い意味のように聞こえて僕はぞわりとさせられた。
「いや、でも、動画のおかげで僕もシューベルトの良さがわかったし。あんなすごい曲書いてたなんて知らなかった。ありがとう」
「あなたのために弾いたんじゃないし動画をわたしがあげたわけでもない」
「そりゃそうなんだけど……」
「あなたのためならベートーヴェンの十二番とかショパンの二番を弾いてあげる」
どちらも葬送行進曲つきのピアノソナタである。ありがたくて泣けてくる。
どうせとっくに疎ましく思われているのだ。もうこの際だから自分のもやもやを解消するためにもストレートに訊いてしまおう。
「なんであんだけ弾けるのにピアノやめちゃったの?」
彼女は目をしばたたき、それからまつげを伏せて鍵盤の蓋を閉じた。
「やめてないでしょ」
自分の指先を見つめて素っ気なく言う。
「ああ、うん」僕はしばらく言葉を口の中で転がした。「つまり、コンクールに出たりとかそういう本気のピアノを──って意味で」
「そんなにコンクールが大事なの? うちの親みたいなことを、なんで赤の他人のあなたにも言われなきゃいけないの」
視線も返答も痛かった。親にも言われてたのか。そりゃそうか。僕は首をすくめる。
なんで赤の他人に──。
まったくの正論だった。だいたい僕だって音楽に順位付けなんて馬鹿馬鹿しいとか考えてたじゃないか。コンクールなんてどうでもいいはずじゃなかったのか。
ちら、と目を上げる。
ピアノの黒く澄み渡った蓋の上に置かれた、凜子の指先が目に入る。
もったいない。理由はそれだけだ。翼があるなら飛ぶべきだ。地面に這いつくばって空を憧れの目で仰ぐことしかできない人間にとって、それは自然な感情だろう?
凛子はぽつりと言う。
「前にも言ったでしょ。村瀬くんはピアノに詳しくないから買いかぶってるだけ。わたしのピアノは大したものじゃない。よく指が回ってミスが少ないだけ。せいぜい都道府県主催レベルのコンクールで優勝できるかできないかくらいの」
彼女は僕の方を見ていなかった。足下にある弱音ペダルに向かって語り続けていた。だから僕が首を振って否定してもなんの意味もなかった。
「よく言われた。わたしの演奏には優雅さがないんだって。品がない。音色が汚い。雑音が多い。響きが貧相。……わたしも自分でそう思う」
「……音色?」
僕は思わず口を挟んでいた。
「ピアノの音色? ……それって、あの、ピアノ次第じゃないの? 弾いてる人は関係ないんじゃ……だって鍵盤叩けば音が出るんだし……雑音ってどういうこと?」
ようやく凛子は顔を上げた。その口元に浮かんだ笑みはひどく酷薄そうに見えて僕はぞっとした。
それから彼女は立ち上がり、白々しい虚空に向かってつぶやく。
「べつにいいじゃない。叩けば音が出る程度の演奏でも、合唱の伴奏には困らないんだから。それ以上わたしになにをさせたいわけ?」
凜子が音楽室を出ていってしまった後も、僕はピアノ前の机にべったりと突っ伏し、彼女の言葉を反芻していた。
なにをさせたいって?
きまってるだろ。もっと弾いてほしいんだよ。聴かせてほしいんだ。
だいたい、さっき自分で「やめてない」って言ってたよな? あそこでさらに訊いてやればよかった。なんでやめてないんだ? って。技術も全然落ちてないってことは未だに家で毎日かなり練習してるってことだろ? 厳しいコンクール巡りからドロップアウトしたのにどうしてまだ続けてるんだ?
僕は身を起こし、弱々しく手を伸ばし、グランドピアノの側面をなでる。黒の中に映り込んだ僕の姿はゆるやかな曲面によってみじめに細く圧し潰されている。
この中に、まだ心を置き忘れているからじゃないのか。