2 十一月のよく晴れた朝に その1

 ネットというのはおそろしくも便利なもので、「さえじまりん ピアノ」でけんさくしてみたらかのじよのコンクールの動画がすぐに出てきた。どうやらコンクールの他の参加者の親が勝手にアップロードしたものらしい。そのかいわいでは有名人だったというはなぞの先生の言葉はうそではなく、りんの動画は何十本も見つかったし、再生数ものきみ一万ちようだった。

 とはいえ動画につけられたコメントの三分の一くらいはりんのルックスに関してのものであり、ストレートに性的欲望を表明している者も少なからずおり、身につまされた。まったくネット住民は度しがたい。

 ヘッドフォンをかぶって目を閉じ、演奏にだけ集中した。

 課題曲はショパンのエチュード『エオリアン・ハープ』。両手のりゆうれいなアルペッジョが最後までそよぎ続け、その中にせんりつとつとつとつぶやかれる。ため息しか出てこなかった。ぼくごときが書いた合唱曲のばんそうですらあれだけの熱量だったのだ。コンクールのために奏されるショパンともなればかのじよめたエネルギーはけたちがいだった。

 関連動画に出てくるサムネイルをクリックしまくり、りんの演奏を立て続けにいた。

 たいへんじゆうじつした幸せな時間ではあったけれど、ちょっときゆうけいしようと思ってヘッドフォンを外したぼくかみがじっとりあせばんでいることに気づいた。しかもから立ち上がろうとしてもこしに力が入らない。

 いていてつかれる演奏なのだ。

 しかも、いている最中に体力と気力が吸い取られていることを自覚できない。演奏に熱中してしまうためだ。やく的なピアノである。

 なぜかのじよはこのまま音楽の道を進まなかったのだろう、という疑問がいっそう強くなる。

 それともぼくがくだんあまているだけで、プロを目指すにはこの程度の演奏でも足りないのだろうか。


  *


 二日後の放課後、また音楽室でりんう機会があったので、直接いてみた。

「なんでうちの高校来たの? 音楽科のある学校行けばよかったのに。プロ目指そうとか考えなかった?」

 りんはむすっとしてつぶやいた。

「そういうせんさくされるのがいやだから、ばんそうなんてやりたくなかったのに。目立たないようにもっとわざと下手にいておけばよかった」

 わざと下手にく……?

「いや、無理だろ?」

 ぼくは思わずそくてきしていた。

「……なにが」とりんは目をしばたたく。

「わざと下手にくなんてできないだろ。ぼくも多少は楽器かじってるからわかるけど──いやぼくごときが言うのもおこがましいかもしれないけどさ、つまり、その……」

 うまく言葉を選べず、ぼくはしばらく口ごもって言い方を考える。

「ある程度以上になったら、下手にけなくなるよね。そういう身体からだになっちゃってるっていうか、やろうとしても身体からだきよするっていうか」

 ちゆうで、なにかものすごくずかしくて的外れなことを言っているのではないか、とこわくなってぼくは口をつぐみ、おそるおそるりんの顔をうかがった。

 かのじよの顔には不思議な表情がかんでいた。

 うまく表現するのは難しいのだけれど、たとえていうなら、くしてあきらめていた大切な写真が毎日みつけていたトイレマットの下から見つかったときみたいな、そんな顔だ。

 りんはふうっと息をついて、ピアノのこしを下ろした。

「あなたのこと、ただの性犯罪者だと思っていたけれど、評価をあらためる」

「そりゃどうも。……どのくらいあらためてもらったのかな」

 最初がひどいマイナスだったけどちょいプラスくらいにはなってるだろうか……。

「ただ者ではない性犯罪者」

「変わってねーよ! むしろなんか悪くなってるよ!」

むらくんぐらい音楽のことをわかってる性犯罪者ってなかなかいないと思うからもっと喜んでほしかった」

ぼくの言ってることももっと理解してほしかった……」

「ベートーヴェンは《楽聖》だから《楽性犯罪者》というのはどう? 尊くない?」

「もっと他の部分でベートーヴェンになぞらえてほしかった!」

しようがいけつこんできなかったところとか?」

「いいかげんそこからはなれろよ!」

 りんから立ち上がって三メートルくらい向こうへ行ってしまった。

「そういう意味じゃねえよ! 知らん人が外から見てたらまるでぼくせいをあげておそいかかろうとしてげられたみたいに見えるからやめて!」

「だいたいあってるじゃない。むらくんはせいを発してわたしはげた。事実の通り」

 たしかにその通りだった。誤解されたくないならぼくが落ち着くべきだ。そもそもなんの話をしてたんだっけ。

「たぶんむらくんは」

 りんに戻り、声を落としてつぶやいた。

「目の前でグランドピアノのそれなりの生演奏をいたことがなかったから、はじめての体験でちょっとびっくりしているだけだと思う。わたしのピアノは、そんな大したものじゃない」

「……え?」

「言っていることわからない? じゃああなたにもわかりやすく性的に言い直すと、どうていが初体験でびっくりしているだけだと思う」

「かえってわからんわ!」

「そうか。どうていだと経験がないからびっくりするかどうかさえわからない」

「いやそんな話もしてませんよ? いちいち性的な方に引っぱるのやめてもらえる? ていうか最初の言い方でちゃんとわかったから! たしかにぼくはクラシックのコンサートとかきにいったことはないよ、でも──」

 ぼくはいったん言葉を切って、言い方をさぐった。でも、気のいたスマートな表現はぼくの中のどこにも見つからなかった。かのじよの言う通り、はじめての体験だったからだ。

「きみのピアノはやっぱり大したものだと思う。きみになら金はらってもいいと思った」

 りんがしばらくだまってじっとりとぼくをにらんできたので、あわてて付け加えた。

「あ、あの、金はらってもいいっていうのはプロのピアニストと比べてもそんしよくないって意味であって、決して性ふうぞく的な意味じゃなくて」

「そんなのわかってる」りんけん感もあらわに言った。「わたしがなにも言っていないのにそういう補足を入れてくるっていうのは性犯罪者の自覚があるということ」

「んぐっ……」

 今のはぼくの完全な勇み足だったので言い返したらさらにしんらつに責め立てられるのは火を見るよりも明らかだった。ここはだまって批難をかんじゆすべきだろう。

しんけんな話をしているのにそうやってセクハラ発言を混ぜるのはやめた方がいい」

「世界中のだれよりおまえに言われたくねーわ!」

 だまってかんじゆしていられなかった!

「とにかくわたしは、そんなのじゃないの」

 りんはそう言ってピアノのから立ち上がった。

「プロを目指そうとかそんなレベルじゃない。わたしよりも達者にける人間はごろごろいるから」

 かのじよが音楽室を出ていってしまった後も、ぼくはピアノのきよたいの側面をじっと見つめながらしずんでいた。黒くよどんだ鏡面に自分の顔がゆがんで映りんでいた。

 かんちがいか? 無知ゆえの過大評価なのか?

 曲がった黒い鏡の中の自分に問いかける。

 いや、とつぶされた顔のぼくが答える。

 ぼくはたしかにクラシックピアノにはさしてくわしくない。でも、自分の耳に、心のふるえに、うそはつけない。あのピアノが特別じゃないというならぼくがいこつまっているものはマヨネーズかなにかだ。

 あれをもっときたい。

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