徹夜で伴奏譜を独奏用に書き直すと、翌日、放課後を待ってすぐに音楽室に足を向けた。華園先生に頼んで、凛子に放課後また来てくれるように伝えておいてもらったのだ。
けれど、どうやら呼び出し人が僕であることは伝えられていなかったらしく、音楽室に入ってきた凛子は待っていた僕を見るとかすかに目を見張り、それからため息をついた。
「あなたの用事だったの? 今日はなに? 先生だけじゃ飽き足らずわたしにもいやらしく密着して連弾したいという話ならお断りだけれど、あなたは生まれてこのかた女性にまったく縁がないみじめな人生を送ってきたという話だし、これ以上性犯罪を重ねられても困るし、ニモのぬいぐるみでよければ貸してもいい」
どこからつっこんでいいのかわからん。
「……なんでニモなの?」
「訊くのはそこなの? 他は認めたってこと?」
「ちげーわ! 当たり障りのなさそうなとこから訊いてんの!」
「ニモはクマノミでしょ。クマノミは雄が雌に性転換するらしいから、女装して自分を慰めているあなたにはぴったりだと思って」
「当たり障りしかなかった! え、ちょ、ちょっと待って、なんで知ってんの?」
背中を冷や汗が伝い落ちた。まさか華園先生か? あの女、黙ってるって約束しといてさっそくぺらぺら喋りやがったのかッ?
でも凛子は肩をすくめて言う。
「Musa男は一時期ピアノコンクール界隈で有名だったから。どう見ても中高生くらいなのにブーレーズとかリゲティとかマニアックな作曲家をサンプリングした変態的なオリジナル曲なんて発表してて、あれはきっとコンクール常連のだれかだろうって言われてて。とはいってもピアノはものすごく下手くそだったけれどきっと正体を隠すためにわざと下手に弾いてるんだろうって」
「……そりゃまた身に余る評価ありがとうございます……」
ほんとうに下手なだけなんですけど。
「けっきょくわたしの周囲でもMusa男がだれなのかは謎のままだったのだけれど、昨日あの楽譜を見て確信した。アレンジの癖がMusa男そっくり。動画を見直してみたら体つきもあなたに間違いなかったし」
もういやだ。なんなんだよ音楽業界の狭さ……。
「性癖も音楽の趣味も変態なんて生きていてつらくないの? マイナスとマイナスを掛け合わせるとプラスになるとかそういうこと?」
「マイナスって言うな! 好きでやってんだよ! あ、いやその好きってのは女装じゃなくて音楽の方の話だからそういう顔すんのやめてください」
「それで今日わたしを呼び出したのはまた変態趣味を強要しようというわけ? まさかわたしにも女装させようっていうんじゃ」
「おまえはもともと女だろうが! ああもう、話がちっとも進まないよ!」
楽譜を差し出すと、凛子は怪訝そうに受け取る。
「昨日のカルミナ・ブラーナ? わざわざ独奏用に書き直したの? べつにそんなことしてもらわなくても、わたしはてきとうに自分でアレンジして弾けるし」
「てきとうにやってもらいたくないから書き直したんだよ」
僕は遮って言った。凛子は目をしばたたき、それからもう一度譜面に目を落とした。視線が音符を走査するのがわかった。
やがて彼女はピアノの椅子に座ると、譜面台に僕の楽譜を広げて置いた。
鍵盤の骨の色に、冷え冷えと白く細い指先が交錯する。
なぜこうも僕の奏でるピアノとちがうのだろう、と思う。鍵盤を叩く前からわかる。特別な空気が張り詰めている。音楽にとって休符が音符と同等に重要なのだとしたら、曲が始まる前の帯電した静寂もまた音楽の一部だ。
凛子の指が鍵盤に触れる。
なんて静かな強打だろう。これこそが『カルミナ・ブラーナ』の第一音に必要な、矛盾に充ち満ちたエネルギーだ。続くオーケストラと合唱の不協和なせめぎ合い。音と音がぶつかり合う間から熱狂が泡になってあふれだし、弾けて大気を焦がす。ピアノという楽器にこれほどの表現力が詰め込まれていたことを僕はそのときまで知らなかった。黒光りする巨体にもなお余りあるイメージの奔流が、はち切れそうなほど昂ぶって漏れ出てきそうだ。いったい何百人、何千人、何万人分の骨がこの楽器を組み上げるためにかき集められたのだろう。供犠となった死者たちの痛ましい歌声が吹きすさぶ。
第二曲の終結までの間、僕はほとんど呼吸することも許されないまま凛子のピアノに巻き込まれ、ただ聴き入っていた。最後の和音の残響を圧し潰すようにして、ごとり、と重たい軋みが響いた。まるで絞首台の床が開くときのような音に聞こえたけれど、現実に戻ってよく見てみればどうやら凛子がピアノの鍵盤のふたを閉めた音のようだった。
彼女は楽譜を重ねて端をそろえ、僕を見て言った。
「……じゃあ、これはもらっていっていいの?」
僕はまぶたを何度も強く閉じては開いて、違和感の残る現実に意識をなじませようとした。ピアノの余韻がまだ金属の削り屑のようにあたりに漂っていて肌をちくちく刺激した。
「……あ、ああ、うん。持ってっていいけど」
間抜けな返事だけでは気まずいままなので、なにか付け加えなければ、と思った僕は思いついたことをそのまま口にした。
「昨日のよりは簡単な譜面にしたつもりだけど、……憶えられなかった?」
「なに言ってるの?」凛子は非難がましく眉を寄せて言った。「ちゃんとした曲なら、暗譜してそれでおしまいじゃないでしょう?」
彼女の言葉の意味を僕が理解できたのは、彼女が出ていってドアが閉まった後だった。だから一言も返せなかった。彼女は今度こそ僕の編曲をちゃんとした曲だと認めてくれたのだ。楽譜を持ち帰ってもう一度読み込む価値はあると言ってくれたのだ。
安堵してピアノの椅子に腰を下ろす。
凛子の体温がまだ残っている気がする。それからピアノの余響も。
ふたを開き、鍵盤に指をそっと置いてみる。でも、あんな演奏を聴かされた後ではなにも弾く気になれない。
あれほどのピアニストが僕の編曲を評価してくれたのだ。今はそれだけを素直に喜んでおこう。どうせ僕もそのうち授業でこの伴奏を弾かされるわけだし、きっと華園先生は凛子の演奏と比べて容赦なくこき下ろすだろうけれど、今は考えないようにしよう。
それから、ふと思う。
冴島凛子は、間違いなく一流だ。僕程度の人間でもわかる。彼女の演奏は技術の高さだけではない、なにか特別なものが感じられる。こんな東京の片隅のありふれた普通高校の音楽室で浪費されていくべき音楽じゃない。
なにがあったのだろう。
どうして彼女はこんな場所に囚われているのだろう?