「やっほぅ。二人とも来てたんだ、仲良くしてた?」
この空気で仲良くしてたように見えるのか? 頭にユニセフ募金でも詰まってるのかよ?
「お、カルミナ・ブラーナできてたの? 凛子ちゃん弾いてみた? どうだった?」
「編曲者本人が目の前にいるからはっきりとは言わないでおきますけれど」と彼女は僕を指さして前置きした。「これを聴かせた牛は牛乳の代わりにガソリンを垂れ流すと思います」
「はっきり言ってくれた方がましだよ!」意味わからんけど悪口だってことだけはわかる。ていうかさっきまで目の前ではっきり最悪とか言ってましたよね?
「凛子ちゃんにそこまで言わせるとは大したもんだねえ」
「なんで褒められたみたいに話を持っていこうとしてんですか。べつにいいですよフォローしなくても。自分でもゴミみたいなひどい編曲だってわかってますよ」
「わたしはそこまで言ってない。わたしが本気になったらあなたがこれまで犯してきた痴漢や盗撮の罪を残らず自白するくらい徹底的に追い込むから」
「犯してねえよ! どっから出てきたのその犯罪者扱いっ?」
「こんないやらしい楽譜書く人だからそれくらいやってると思って」
「いやらしいの意味がすり替わってますけどっ?」
「じゃあわたしは帰るから。いやらしい人と同じ部屋にいたくないし、用事も済んだし」
彼女はそう言って音楽室のドアに足を向けた。
「ちょっと待って凛子ちゃん、楽譜持ってってよ」と華園先生がピアノの譜面台に置いてある僕の『カルミナ・ブラーナ』アレンジ譜を指さして言った。「いまコピーするから」
「要りません」と彼女はにべもなく言った。「もう憶えました」
「……憶えた、って……」
通して五分足らずの曲とはいえ、さっきはじめて見てちょっと弾いただけだろ? さすがに無理のあるはったりだろうに。
僕の疑わしげな視線に気づいたのか、彼女はものすごく不機嫌な顔になって戻ってくると、譜面台に置いたままの楽譜を床に払い落とし、乱暴に両手を鍵盤に叩きつけた。
はったりではなかった。たしかに彼女は完璧に暗譜していた。しかも(たぶん時間が惜しかったのだろう)三倍くらいの速さで最後まで弾ききってみせた。
演奏を終えると椅子をがたつかせて立ち上がり、啞然とする僕の前を通り過ぎて音楽室を出ていってしまう。
彼女の後ろ姿がドアの向こうに消えると、ようやく僕は息をつくことができた。
「あんだけ憶えがいいとほんと助かるなあ。さすが凛子ちゃん」
華園先生はのんきにそう言って、床に散らばった楽譜を拾い上げる。
「……あれ、何者なんですか……」
自分でも驚くくらい疲れ切った声で僕は訊いた。
「クラシック畑じゃちょっとした有名人だったんだけどね、冴島凛子ちゃん。ムサオはそっち方面じゃないから知らないか」
「えっと……? プロのピアニストなんですか? めっちゃ巧かったですけど」
「ううん。いずれプロになるだろうなって言われてはいたけどね。あれだよ、元神童ってやつ。小学生の頃からコンクール総なめで」
「へえ……」
僕はぴったりと閉じたドアを見やる。神童──か。あの腕前ならうなずける。
「でもなんでそんなやつがうちみたいな普通高校に来てんですか。音大附属とかに行けばいいのに」
「まあ、色々あんのよ。色々とね」先生は意味深に微笑んだ。「その色々につけ込んで伴奏役をやってもらってるんだけどね」
「あんたほんとのほんとに最低だな!」
「でもまあもったいないよね。腕が落ちたわけじゃないのに。こんなこけおどし満載の譜面も平然と初見で──」と楽譜に目をやった先生はすぐに気づく。「って、これ連弾用じゃん」
「あ、はあ、その」
凛子とのやりとりですっかり毒気を抜かれていた僕は、先生を困らせてやろうという当初の目的がかなりどうでもよくなっていた。
「カール・オルフの激烈でプリミティブなオーケストレーションを再現するには独奏じゃ足りないかなって思って……」
それっぽい言葉を並べて言い訳する。
「ふうん。難しい方のパートをあたしに演らせようってこと?」
「え、ええ、まあ……僕より先生の方が巧いし……」
やばい、意図を見抜かれたか。
「じゃ、弾いてみようか」と華園先生は言って、僕をピアノの椅子に座らせた。先生自身はなぜか僕の背後に立つ。
「あの、先生の椅子は?」
「あたしは立って弾くよ。だって」と先生は楽譜を指さす。「難しい方があたしのパートなんでしょ?」
「はい、だから低音部の方を」
「いちばん難しいのが低音部の左手で次が高音部の右手でしょ? それをあたしが弾くとなるとこうするしかないでしょ」
え? いや、あの?
先生は僕の背中にのしかかるようにして鍵盤の左端(最低音部)と右端(最高音部)に向かって両手を広げた。僕が中声域──低音パートの右手と高音パートの左手を担当しろってこと? そりゃあ、そんな変な分担ならこうするしかないですけど、普通に並んで座ってそれぞれのパートを普通に分担すれば──
「はい1、2、3」
先生はカウントをとって弾き始めた。僕もあわてて合わせる。
しかし演奏どころではない。僕の肩に先生のあごが乗っかっているし、吐息が耳の裏にかかるし、ちょっと音域が狭まると先生の腕が僕の首に巻きつくし、あとなんか柔らかい感触が肩胛骨にしょっちゅう押しつけられて僕はもう音符を追うどころではなくなっていた。
ドアが開いた。
僕はびっくりして手を止めてしまい、先生だけが弾き続けたせいで中声域のすっぽり消えた間抜けな演奏がむなしく進行していく。部屋に入ってきた凛子は僕らを見てかすかに顔をしかめ、けれど無言でピアノまで近づいてくると、どうやら置き忘れたらしいスマホを回収し、踵を返してドアに向かった。
部屋を出しなに冷たい軽蔑の視線を肩越しに僕へと向けてくる。
「そういういやらしいことするために連弾アレンジにしたわけ? ほんとに最低」
「……い、いや、これはちがっ──」
僕に言い訳するひまを与えずドアは叩きつけられるように閉じた。
「ちょっとムサオ、立ち上がろうとしないでよ。弾きづらいよ」
「なんでこんな事態でもまだ弾いてんですか!」
「どんなにつらく哀しいことがあっても音楽を止めてはいけないんだよ。ノーミュージック・ノーライフ」
「僕はとっくにノーライフですけど社会的にっ! ポエムなこと言ってる場合ですか、めっちゃ誤解されたじゃないですかっ」
「誤解じゃなくない? ムサオがいやらしい変態なのは事実でしょ」
「どこがっ」
「女装」
「ああ、いやあのそれは」
事実なので強く否定できないが、しかし。
「やってるのは事実ですけどやりたくてやってるわけではなく見てもらいたいからで、あ、あの、見てもらいたいってのは動画をって意味で」
「だから女装動画を見てもらいたくて女装してんでしょ」
「ち、ちがッ、……ちがわなくもなくもないですけどっ、そういう動機じゃなく純粋に」
「純粋な自己顕示欲のために女装してんだよね?」
「言い方ッ」
これ以上この方向で話を続けていてもいじくられるだけなので僕はあきらめた。
「だいたい学校でその話をしないでくださいよ、バラさないからっていう約束で授業を手伝ってるんじゃないですか。ムサオって呼ぶのもやめてくれって何度も」
「えええー」
先生は不満そうに口を尖らせた。
「ムサオって呼びやすくていいのに。じゃあ他の活用形にする?」
「なんですか活用形って」
「虫けら」
「五段活用かよ。しかもなんのひねりもなく悪口じゃないですか」
「むすっとしてる」
「当たり前だろ! だれのせいですか!」
「無節操」
「ちょっ、なにが? これまで十五年間慎み深く生きてきましたよ!」
「ムソルグスキー」
「だれが禿山の一夜だ! うちの家系はみんなふっさふさだよッ」
「あれえ、ムソルグスキーは悪口のつもりで言ったんじゃないんだけど、村瀬くんちょっとひどすぎない?」
「え、あっ……そ、そうですよね。失礼な発言でした。ムソルグスキーに謝ります」
「あたしは『一生女に縁がない上にアル中』って意味で言ったんだけど」
「ど直球で悪口じゃねえか! あんたがムソルグスキーに謝れよ!」
「どう? あたしの言いっぷりに比べれば凛子ちゃんの口の悪さなんてなんともないでしょ。だから仲良くしてあげてね」
「どんな話のつなぎ方ですか」
華園先生に比べればたいがいの人間がましに見えるだろうに。
「だいたい、仲良くったって、とくに接点ないですよ。クラスはちがうし音楽の授業だってべつべつなんだし」
「あたしっていう接点があるでしょ」と先生は自分の胸を指さした。「弱みを握られてこき使われてる者どうし共感し合えるんじゃない?」
「こき使ってる当人がよくもまあ平然とそんなこと言えるもんですね……」
あなたたちのためを思って言ってるんだよ、みたいな顔されるの真剣に腹立たしいんで自重していただけませんかね?
とはいえ、僕としても凛子とはもう一度だけ接点を持ちたかった。
譜面台にだらしなく広げられた楽譜を見やる。
あれだけのピアニストに、こんな虚飾だらけの譜面を押しつけておしまいにしたくなかった。村瀬真琴がこういうクソ編曲しかできないやつだと思われたままにしたくなかったのだ。