「村瀬さあ、放課後いつも音楽室だよな」
「華ちゃん先生がつきっきりでピアノ教えてくれてんだろ? いいなあ」
「並んで密着して二人で弾いたりしてんの?」
クラスメイト男子にはめちゃくちゃ羨まれた。
華園先生は新任四年目の若さで名前も見た目も性格もとにかく華があるため全校的にたいへんな人気教師であり、こうして入学直後の新入生たちのハートもさっそく鷲づかみにしているわけだが、心ではなく首根っこを鷲づかみにされている僕としては「じゃあおまえら代わってくれよ」と言いたくてしょうがなかった。
「べつに教えてもらってるわけじゃないよ」と僕はおおむね正直に言った。「自主練してるだけ。その間先生は隣の準備室で他の仕事してる」
実際は仕事ではなく漫画を読んでいることがほとんどなのだけれど、そこは一応ごまかしておいた。
「偶数組の伴奏担当とも一緒に練習してんの?」
ふとクラスメイトの一人が言った。
「あ、すげえ可愛いんだよな。俺も話だけ聞いた」
「何組の女子?」
「4組だっけ」
「音楽選択恵まれすぎじゃね? 美術なんてやめときゃよかったわ」
食いつきっぷりが加速するけれど、僕はその話題に出された人物を知らなかった。
「えっと、偶数組にも僕みたいに伴奏押しつけられてるかわいそうな子がいるわけ?」
「そうそう」
「押しつけられてるってなんだ。もっと喜べよ」
「まさか華ちゃん先生にもっと別のものを押しつけられてるんじゃねえだろうな」
「てめえふざけんなよ代われ!」
話がわけのわからない逸れ方をしかけたが、情報を総合するとこういうことだった。
うちの高校は1学年が8クラスある。芸術選択授業は音楽・美術・書道の三択なので、普通の授業と同様に1クラス単位でやっていたのでは人数が少なすぎて非効率的、ということで4クラスによる合同の授業になっていた。つまり芸術科目だけに限って見ると1学年が2学級に分かれているようなものだ。この分け方が1・3・5・7組と2・4・6・8組なので、それぞれ奇数組と偶数組と呼ばれている。
そして、奇数組で僕がピアノ伴奏役をやらされているのと同様、偶数組でもその苦役に就かされている女の子がいる、という話だった。
「見たことないけど」と僕は言った。「僕は家にピアノがないから学校で練習してるわけで、その子は家でやってんでしょ」
「なんだよ。つまんねえな」
「ていうか俺も偶数組がよかったなあ。その子の伴奏なら合唱もやる気出るのに」
「村瀬じゃなあ」
僕だって好きでやってるわけじゃないんだが?
*
くだんの女の子とは、意外にも早く遭遇した。
四月の最終週、華園先生に頼まれていた『カルミナ・ブラーナ』のオーケストラのピアノアレンジを仕上げた僕は、放課後に楽譜を持って音楽室に行った。
この楽譜には華園先生へのささやかな復讐を狙ったちょっとした仕掛けがあった。独奏用ではなく連弾用として書いたのだ。だって『カルミナ・ブラーナ』ですよ? あの重厚なオーケストラ譜を二本の手だけで再現できるわけないじゃないですか。手が四本でようやくですよ。ということで先生も手伝ってくださいね? といって、めちゃくちゃ難しく書いた低音パートを任せるつもりだったのだ。あの女をどうしても一回あわてさせてやりたかった。
しかし音楽室は無人だった。
僕は持ってきた楽譜をピアノの譜面台に広げてしばらく待ってみた。
窓の外では野球部やハンドボール部のジョギングのかけ声が聞こえた。学校の向かいの工場からパンの焼き上がりを報せる牧歌的なチャイムが響いてきた。雲ひとつなく晴れ上がった、のどかな午後だった。
いっこうに華園先生が現れる気配がないので、僕は音楽室の左手奥にある音楽準備室のドアをノックしてみた。反応はない。そうっと開いてみると、中にはだれもいない。
なんだあの女、放課後すぐ持ってこいって言っといて留守なのか。
しかたない、待たせてもらおう。
僕は準備室に身を滑り込ませた。普通教室の半分のスペースで、無骨なビジネスデスクと小さな電子ピアノが部屋の中央にくっつけて置いてあり、まわりはスティールラックが取り囲んでいる。なぜか水道もあり冷蔵庫と湯沸かしポットも完備、しかも横山光輝の三国志と水滸伝が全巻そろっていて時間つぶしには最適の場所だった。
椅子に腰を下ろして三国志の26巻を開いた。
赤壁の戦いの息詰まる展開に没頭していたせいで、隣の音楽室にだれか入ってきたことにすぐには気づかなかった。我に返ったのはピアノの音のせいだった。
上下数オクターヴに渡る重厚な和音がドアを突き破る勢いで聞こえてきて、僕は漫画を落っことしそうになった。
僕の編曲した『カルミナ・ブラーナ』だ。間違いない。
だれかやってきたのかな。先生かな? 初見であんなに完璧に弾けるもんなのか。くそ、もっともっと難しくしとけばよかった。
いや、ちょっと待て。あれは連弾用だぞ? 先生の他にだれかもう一人いるのか?
僕はそうっと立ち上がり、ドアを押し開いて音楽室の様子をうかがった。
ピアノの前に、制服姿の女の子の後ろ姿がひとつだけあった。彼女の細い二本の腕が鍵盤の上で揺らめいている。僕は息を吞んだ。
ひとりで弾いている。
落ち着いてよくよく聴いてみれば、たしかに僕の書いたアレンジから音符をいくつも省略している。しかし、僕が家でシーケンサに打ち込んで鳴らしてみたフル演奏とはまったく比べものにならないくらい重たく激しく煮えたぎるような演奏だった。
信じられない思いで、僕は彼女のピアノにしばらく聴き入っていた。運命の女神を畏れ奉る何千人もの讃歌が頭の中で響いた。実際に歌い出しそうにさえなった。
けれど演奏は唐突にぶっつり途切れた。
彼女が手を止めてこちらを振り向いていた。僕と目が合う。
まわりじゅうの音がいきなりなにも聞こえなくなるくらい印象的な目だった。割れた流氷の下にのぞく冬の海みたいな底知れない透明さを湛えている。
「……ずっとそこで黙って聴いてたの?」
彼女は眉根を寄せて訊いてきた。
「え……いや、うん、……まあ。連弾用に書いた楽譜なのに全然そんなふうに聞こえなかったから、びっくりして、つい」
「この性格の悪い譜面、あなたが書いたの?」
彼女は目を見張った。それから少し声を落として続ける。
「華園先生が言ってた7組のムササビくんって、あなた?」
「ムサ……」あの女、ひとの名前をなんだと思ってんだ?「村瀬だよ。ええと、そう、奇数組で伴奏とか編曲とかやらされてて。……そっちが偶数組の?」
僕が訊ねると彼女はつまらなそうにうなずいた。
「次に演らされるのはこれなわけ?」と彼女は譜面台を指さす。「こんなに悪意たっぷりの楽譜なんてはじめて見る。エリック・サティが百二十歳まで生きててもこれよりはまだ素直な楽譜を書くと思う」
僕もそんな悪意たっぷりの楽曲評なんてはじめて聞くんだが?
「特に最低音部の跳躍進行とかトレモロは嫌がらせ目的で難しくするためだけに難しくしている感があって最悪。編曲者のいやらしい意図が音符の間からにじみ出てる」
「ひどすぎる。もっと他に言い方あるだろ? 全部事実だけどさ」
「事実なの? ほんと最悪……」
「あー、いや、そのぅ」
そのとき音楽室のドアが開いた。気まずくなっていたので助かった──と思いきや、入ってきたのは華園先生だったので事態はまるで好転していなかった。