1 骨色の魔法 その1

 ピアノのはつけんは、純白ではなくかすかに黄みを帯びている。あれは骨の色なのだという。とある高名なピアニストがそう書いているのを読んだことがある。

 骨をじかに指でたたいているのだから、けば自分も痛いしピアノも痛い。

 かれはその後に、痛くないピアノに価値などない──と続けていて、つまり悪い意味の話ではなかったのだけれど、ぼくおくには痛いという言葉だけがさって残った。

 だから、りんのピアノをはじめていたとき、まず思い出したのもその言葉だった。


  *


 ところで最初にはっきりさせておきたいのだけれど、ぼくが女装したのはじゆんすいに演奏動画の再生数をかせぐためであってとくしゆしゆがあるわけではない。断じてない。

 こちとらアマチュア中学生である。ギターもキーボードも大したうでまえではなく、ぼくよりうまいやつなんてネット上だけを見回してもごまんといる。おまけにぼくっていたのはオリジナル曲ばかり、しかも歌が入っていない器楽オンリー、となると動画サイトで人気が取れる要素はかいだった。再生数が四けたに達すればばんばんざい、というレベルだ。

 しゆでやってることだし、べつに再生数が多いのが良演奏ってわけでもないし……と自分をなぐさめつつも、内心けっこうくやしい思いがあった。

 そんなぼくかしたのか、ある日いきなり姉がこんなことを言ってきた。

「女装してれば食いつきいいんじゃないの? あんた細いし体毛うすいしムダ毛処理して首から下だけ映せばいけるっしょ。私の昔の制服貸してあげるよ」

「いやいや、そんなずかしいことしたって大して数字びないって。ほら、ぼくってんのはエレクトロニカとかアシッドハウスとかそもそもマニアックなやつだから」

「知らないって。みんなどうせ音楽とかどうでもいいんだよ、女子高生の太ももが見られれば大喜びなんだから」

 おまえちようしやをなんだと思ってんだよ?

 とはいえぼくは姉に有形無形の借りがたくさんあったので、られる形で一度だけ女装動画をってみることになった。

 完成品をぼくぜんとするばかりだった。

「おー、いいできじゃん。女の子にしか見えないよ。さすが私のコーディネイト」

 となりかんしようしていた姉はごまんえつの様子だった。

 たしかに女にしか見えない。顔は画面外だし、歌のない曲だから声も入っていないし、体格的に男のとくちようが出やすそうなかたこしはそれぞれセーラー服のえりとギターのボディとでしっかりさえぎられているし。

 複雑な気持ちでアップロードしてみたところ、そくじつで再生数が五けたとつし、次の日には六けたをあっさりと達成していた。それ以前のぼくの動画すべての再生数を合計しても一万そこそこだったのに、これまでのぼくの努力はいったいなんだったんだ? しかも動画につけられたちようしやコメントは太ももとこつに関するものばかりで曲や演奏へのげんきゆうはほとんどなく、ぼくしんけんにこの国の音楽の将来に絶望しかけた。

 そんなぼくを見て姉は言う。

「なんでマコはいやそうなの? 私はめっちゃうれしいけど? 絶賛のあらしじゃん。遺伝子はだいたい私と同じだし制服は私のだし実質的に私が絶賛されてるようなもんだね」

「じゃあもう姉貴が動画に出れば? 顔も出せばさらに絶賛じゃないの……」

 くたびれきったぼくはなげやりに提案してみたけれど、ばかじゃないの? といつしゆうされた。

 さて、これで話は終わらなかった。

 成功体験はやくである。

 姉は制服をぼくの部屋に残していったし、動画再生数は日がたってもまだじりじりび続けていた。チャンネル登録者数も百倍以上にふくれあがっていた。

 期待されている。ぼくの動画を待ってくれている人が大勢いる。

 さんざんためらったが、けっきょくぼくはもう一度セーラー服にそでを通した。

 うおおおおおおおおふともももももももも、というコメントでくされた自分の二本目の女装動画をむなしくもすがすがしい気持ちでながめていると、今さらやめるわけにはいかないのではというきようはく感がこみ上げてきた。ちようしや十万人だ。大多数が身体からだ目当てだとしても、ぼくの音楽をきたがってくれているとくな人々も女装する前よりはいくらか増えているだろう。

 もう三本ほどアップロードしたあたりで、なんかこつに性的なメッセージがぼくのアカウントに何本も飛んでくるようになって身の危険を感じたので、男です、とプロフィールらんにでかでかと書くことにした。ついでにプレイヤーネームを『Musa男』に変えた。じようなまでにむさ苦しく男性アピールをしつつギリシャ神話の音楽のがみであるムーサにも引っかけてあるという我ながら見事なネーミングだったが特に効果はないどころか「男だからなおよい」といったメッセージやコメントが乱れ飛ぶようになり世も末だなと思った。

 ちようしやがこうも急増すると、昔アップした曲がだんだんずかしくなってきた。まだ経験が浅かったころの作品なのであちこちつたない。あんな初心者丸出しの音源を十万人にかれるのかと思うといたたまれなくなり、ぼくは女装する以前の十数曲をすべてさくじよしてしまった。

 すると──当たり前だけれど──チャンネルの動画リストに並ぶのは制服&太もものサムネイルばかりになる。

 これはこれでずかしい。

 いやなら女装なんてやめればいいのにやめられなかったのは、現実を見せつけられるのがこわかったからだ。太ももきでぼくの音楽をじゆんすいに求めている人間の数なんて、千人にも満たない、という。

 まあ、べつに本名を出しているわけでもないし、動画サイト以外の場所で音楽活動をするつもりもないし、ぼくがMusa男であるという秘密は姉以外だれも知りようがないので、気にしなくてもいいか……。そう自分に言い聞かせ、動画作成を続けた。

 ぼくあまていた。世間の広さとせまさを、だ。


  *


 高校に入学してすぐのことだった。芸術せんたく授業で当然のごとく音楽をせんたくしたぼくは、音楽室でグランドピアノに生まれてはじめてさわる機会を得た。小学校も中学校も音楽室がせまくてアップライトピアノしか置いていなかったのだ。

 いてみたいしようどうおさえきれず、授業が終わって昼休みになり、クラスメイトたちがぞろぞろ音楽室から出ていってしまうのを待ってからそうっとピアノのすわった。

 あらためて目の前にすると、でかい楽器だ。

 ぼくの持っているけんばん楽器はKORGのKRONOS LSとYAMAHAのEOS B500、どちらもかたかつげるくらいのサイズで、いている最中もけんばんの向こうに見えているのは部屋のかべだ。ところがグランドピアノは黒いこうたくを持つきよたいが視界をふさいでしまう。そのあつぱく感にまずどきどきする。油断したらわれてしまいそうだ。

 しかもけんばんがめちゃくちゃ重たい。すごいな、ピアニストってこんなのを平気できこなしているのか。

 なんの気なしに、いてみた。自分のオリジナル曲をワンフレーズ──

「……あれ? むら君、それって」

 いきなり後ろから声がかけられ、ぼくねるようにして立ち上がり、あやうくピアノのふたに指をはさみかけた。

 くと音楽教師のはなぞの先生が立っていた。

「あ、す、すみません、勝手にさわって」

「いやべつにそれはいいんだけど、今の曲って」

 ぼくはぎくりとして、そのまま後ずさって音楽室からげだそうとした。はなぞの先生がぼくのブレザーのそでをつかんで引き留める。

「ムサオのロココ調スラッシュの中間部だよね?」

 ピアノの下にもぐんで頭をかかえたくなった。

 知られてた──。

 待て、落ち着け。ぼくの正体がけんしたわけじゃない。Musa男を知っていた、ってだけだ。Musa男がネットミュージシャンとしてそれだけ有名になったってことだ。だからぐうぜんこんなところにちようしやがいたっておかしくないし、ぼくちようしやのふりをすればいいだけだ。

「え、ええ、先生も知ってたんですか。動画で見たんですけど、けっこういい曲ですよね」

 せいいつぱいさりげなく言った。ところが先生はさらっと言う。

「きみがムサオでしょ?」

 ぼくの人生は終わった。

「……は? いや、あの、ええと、ネットでただけで」

 ぼくおうじようぎわ悪く言い訳する。

「あたしもあそこのピアノ耳コピしようとしたけどなんかうまくいかなくてさ。でもさっきのはかんぺきだったし。よく見ると体つきもムサオそっくりだしなによりこのこつのラインが」

「なぞらないでくださいっ」

 いきなりワイシャツのえりくびに指をんでくるものだからぼくは後ずさって黒板に後頭部をぶつけてしまった。

「いやあ、ほんとに男の子だったんだねえムサオ。まさかあたしの教え子とはね」

 はなぞの先生はぼくの全身をしげしげと観察する。

 こういうじようきよう下でしらを切り続けられるほどこんじようわっていないので、ぼくはけっきょく認めざるを得なかった。

「あ、あの、先生、このことはだまっててくれますよね……」

「あの動画が学校に広まったら大人気だねえムサオ。文化祭で女装コンテストもあるし期待の星だよ」

「お、お、お願いですから」

「あたしもおにじゃないから秘密にしておいてあげてもいい」

「ありがとうございますっ」

「でも条件がある」

 残念ながらはなぞの先生はおにだった。

 だまっておく代わりにぼくに課されたのは、授業中のピアノばんそうをすべて担当すること。

 一年生の音楽授業ではまず校歌を習うのだけれど、このばんそうがくがすさまじい音数でせんがほとんど真っ黒。

「なんですかこのシーケンサおぼえたての中学生が作ったみたいながく」三年前のぼくかよ。

「何年か前に校歌を混声四部合唱にアレンジしようっていう話になってね、ここの卒業生で音大に通っているやつに安いギャラで発注したところ、いやがらせのようなピアノがついてきたというわけなんだよ」

「ひでえ話もあったもんですね……。だれなんですかそいつ。文句言ってやりたい」

はなぞのっていう女なんだけどね」

「あんたかよ! ええとその」

「文句があるそうだから聞いてあげるよ」

「色々すみません、はい、文句などめっそうもない」

「まあ実際作ったあたしもこんなめんどうばんそうきたくないからね。まさか母校にしか就職口が見つからないとは思ってなくてさ。てことで練習しといて」

 ほんとうにひでえ先生なのである。その後も『河口』だの『信じる』だのといった、ばんそうがクソ難しい合唱曲ばっかりチョイスしてくるのでぼくは泣きそうになる。

 それに、グランドピアノのけんばんの重さに慣れなくてはいけなかったので、家での練習だけでは足りず、放課後は音楽室に日参することになった。

「たった一週間でわりとけるようになってるじゃないムサオ。さすが」

 おどされてしつけられた仕事をほめられてもびたいちうれしくない。

「あと先生、ムサオって呼ぶのやめてくれませんか。他の人がいるところでもうっかりその名前で呼ばれてバレたりしそうで……」

むらことを略してムサオじゃないの?」

「『む』しか合ってねーでしょうが!」

「それでね、ムラオサ」

「どこの村の村長だよ? 人の話聞かない村ですかっ?」

「来週の授業でハイドンの四季をアカペラでやろうと思ってるんだけどね」と先生は人の話を聞かずにがくを取り出してきて言った。「四部合唱に編曲しといて」

 このまま要求がどんどんエスカレートしていくのではないか? 高校卒業するころにはオペラを一本書けとか気軽に言われるようになってるのでは? とぼくは青ざめた。

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