2 十一月のよく晴れた朝に その3

 十五分後くらいに音楽室にやってきたはなぞの先生に、訊いてみた。

 ピアノの音色って弾く人によって変わるのか、と。

「およ。ムサオはあんだけクラシックの曲を引用しまくってるのに、ピアノには全然詳しくないんだね」

「ええ、まあ……ちょっと聴いてかっこいいなって思ったのをパクってるだけで」

 あと、クラシックなら著作権的にどうこうっていう面倒がないのも理由のひとつだった。正式な音楽教育を受けた経験もない、つまみ食いばかりの半端者なのだ。

「ピアノだって、高校に入るまではエレキしか弾いたことなかったし。あれはほら、だれがどう鍵盤を叩いても音色は変わらないじゃないですか。本物のピアノだとちがうんでしょうか」

「電子ピアノも弾き方で音色変えられるよ?」

 先生が言うので僕はびっくりする。

 音楽準備室にある電子ピアノで、実演してくれた。スカルラッティのソナタを、最初は優しくきらきらした弾き方で、次はやたらと硬質な響きで。

「ね?」と先生は僕を振り返る。「ちがうでしょ」

「……そりゃまあちがいますけど」と僕は唇を尖らせた。「弾き方がちがうだけじゃないですか。柔らかく弾いたのと硬く弾いたのと。鳴ってる音源は同じですよね」

「音の硬さがちがって聞こえたんだよね? それは音色のちがいじゃないの?」

 僕は腕組みして考え込んでしまう。

「ううん……でも実際にちがうのは音の強さとか重ね方とか……」

「どう聞こえたかがすべてじゃないのかな? 音楽ってそういうもんだよね?」

 先生はにやにや笑いながら僕を追い詰めていく。

「グランドピアノならもっと差が出るよ。ダイナミックレンジも広いし弦どうしが共鳴するからね」

 ダイナミックレンジというのは音の強弱の幅のことで、本物のグランドピアノであれば天地が崩れるほどのフォルテッシモから降り積もる粉雪のようなピアニッシモまで表現できる。そして巨体の中にびっしりと張られた二百本以上もの弦が複雑に共鳴するので、音をひとつずつサンプリングしたに過ぎない電子ピアノでは絶対に真似できない芳醇な倍音が生まれ得る。

「あと、箱がでかいからねえ、雑音もそのぶん大きく響いちゃうね」

「雑音ってのはなんですか。ミスタッチのことですか? りんのピアノはミスが全然なかったと思うんですけど」

「ミスなく弾いても雑音は出るよ」

 そう言って先生は電子ピアノの電源を落とした。黙り込んだ機械の鍵盤を素早いパッセージで打鍵してみせる。もちろん音は鳴らない――楽の音は、だ。代わりにはっきり聞こえるのは、こすっ、こづっ、ごすっ、という乾いてくぐもった軋りだ。

 鍵盤そのものが鳴る音。

「ただ打鍵するだけでも色んな雑音が出るんだよ。一つ目は指が鍵盤にぶつかる音。二つ目は鍵盤がいちばん下まで押し込まれて本体にぶつかる音。それから凹んだ鍵盤が戻るときの摩擦音。これがけっこううるさいんだ。弦の音にも潰されずに響くから音が濁る」

「へえ……全然気にしたことありませんでした。ていうかそんな音、弾いてたら絶対に出ちゃうんじゃないですか。とくに強い音出すときなんか」

「それをできる限り減らすようにピアニストは日夜努力してんのさ」と先生は笑う。

 その程度のことも知らなかったのだから、りんに馬鹿にされるわけだ。今になって彼女との会話がずいぶん恥ずかしく思えてくる。

「ただ雑音っていっても感じ方は人それぞれでね。鍵盤が本体にぶつかる音は派手でパーカッシブだから、絶対なくした方がいいって人もいるし、強烈なフォルテを弾くときは音の輪郭がはっきりするから鳴らした方がいいって人もいるし。リヒテルとかホロヴィッツとかはピアノがぶっ壊れるんじゃないかってくらいものすごい雑音出すからね。あたしはあれ大好きだな。音大時代に真似して弾いてみて、でもあんな爆音ぜんぜん出せなくて、しかたないから肘で思いっきりぶちかましてみたら教授にめっちゃ怒られてさ、ていうかなんの話だっけ?」

「……弾き方で音色が変わるかどうかの話です……」

 この人よく音大卒業できたな。色々信じられないよ。


  *


 その夜も、りんのピアノを動画サイトでローテーションした。

 ヘッドフォンをかぶってベッドに寝転がり、目を閉じて、闇の中へと生まれては砕けて解けていく響きに意識を浮かべる。彼女の弾くシューベルトは、ショパンは、ラヴェルは、はじめて聴いたときとまったく同じように僕を揺さぶった。

 大切なのはその事実だけだ。

 起き上がってヘッドフォンをむしり取る。音楽は唐突に消え失せて、窓の外の首都高を走るバイクの威嚇的な排気音がカーテン越しに聞こえてくる。

 ヘッドフォンのブリッジを握りしめた自分の手を、じっと見つめる。

 引きずり出してやる。算段もある。僕だって十代前半のみずみずしい年月を閉めきった暗い部屋でDTMソフトの画面とにらめっこして浪費してきたんだ。もう譜面の構想も頭の中に組み上がりつつある。

 PCの前に座り、ヘッドフォンをかぶり直した。


  *


 りんが僕のクラスである1年7組にやってきたのは、四日後の昼休みのことだった。僕は連日の徹夜作業で脳みそが液化するほど疲れていたので、四時限目の終わりのチャイムを聞いた瞬間に机に突っ伏して気を失っていて、だれかに肩を強く揺すぶられてようやく目を醒まし、わけもわからず身体を痙攣させて危うく椅子から転げ落ちかけた。

「――ん、ふぁっ?」

 変な声が出た。顔を上げると目の前にりんが立っていた。

 寝起きの頭では状況をすぐに吞み込めず、そこが自分のクラスだということも、まわりでクラスメイトたちが好奇心たっぷりの視線で取り巻いているということも、間抜けに何度もきょろきょろ見回してようやく把握した。

 しかし頭が冷えてきたところで、りんがいきなり僕の額に手をあてたりまぶたを指で広げたり手首の脈拍を測ってきたりしたので、僕は再び椅子から転げ落ちそうなほどうろたえる。

「な、な、なんだよっ?」

 僕が手を振り払うとりんはものすごく心外そうな顔をした。

「毎日放課後は音楽室に足繁く通っていたあなたがここ四日間まったく姿を見せなかったから病気にでもなったのかと思って」

「それは、ええと、どうもご心配をおかけしまして」

 りんの言葉よりも周囲のクラスメイトたちの反応が僕の狼狽を膨れ上がらせた。みんな不審そうに、なおかつ好奇心むき出しの目で見ている。ひそひそ声も聞こえてくる。

「あの子4組の」「むらと?」「ほら音楽の授業で伴奏をさ」「毎日二人で?」

「音楽選択ってそんなイベントあんの」「美術から乗り換えようかな」「いやむらだけだよ」

 なんかよくわからんけど話が広がってるぞ?

「毎日顔を合わせるたびに卑猥な話をしてくるむらくんでも四日連続で現れないとなるとさみしく思えてくるからこうして様子を見にきたの」

 りんがとんでもねえことを言い出すのでクラスメイトたちはいきり立つ。

むらおまえ音楽室でなにしてんのッ?」「生活指導!」「警察!」

「ま、待ってってば! そんな話してないよ!」僕は必死に反論し、りんをにらむ。「変な噓やめてくれないかなっ?」

「ごめんなさい」とりんはしれっとした顔で言った。「卑猥な話ではなくピアノの話だった。べつにむらくんを陥れたかったわけじゃなく単純に言い間違い」

「そんな言い間違いしねえよ! 陥れる気満々だっただろ!」

「ほんとうに?」とりんはとても心外そうに眉をひそめる。「じゃあ『卑猥なピアノ』って早口で十回言ってみて」

「なんで僕がそんなこと」

「言い間違わないんでしょ?」

「くっ……」

 こんな形で反撃されるとは思ってもみなかった。しかし自分の言葉には責任を持たねば。

「……ひわいなぴあの、ひわいなぴあの、ひわいなぴあの、ひあいなぴあの、ひわいなひあの、ひわいなひゃいの、あ、あれ」

「ほら、間違いやすいでしょ」

「いやそうかもしれないけど!」

むら、女子の前でよくそれだけ何度も卑猥なんて言えるな」「マジで卑猥な話してるじゃん」

 根も葉もない噂に根と葉がにょきにょき生えつつあるのを感じて肝を冷やした僕はりんの腕をつかんで強引に教室の外に連れ出した。

「なにしにきたんだよっ?」人気のない階段の踊り場でりんに嚙みつく。

「心配で見にきたって言ったでしょ。そんなに信じられないの? わたしがこれまでに噓ついたことあった?」

「何度もあったよ! 最新の例はほんの二分前だよ!」

「そこは見解の相違ということにしておいてあげる」

 僕の学校生活が終わりかけたレベルの濡れ衣なのに見解の相違で済ませないでほしかった。

「とにかく心配で来たのはほんとうだから。なにかあったの?」

 さて、どうやって切り出してやろうか。素直に話すのも芸がない気がして、僕はわざとらしくニヒルな笑みを浮かべて額に手をあて、首を振ってつぶやいてみせた。

「おまえを倒す準備をしていた……って言ったら信じるか?」

「わりと信じる。むらくんなら四日間真っ暗な部屋に閉じこもってそれくらいやりそう」

「閉じこもってねえよ、学校は来てたよ! ていうかあっさり信じてもらえるとかえって反応に困るんですけどっ?」

「じゃあ変なポーズつけて変な口調で訊かなければいいのに」

 おっしゃる通りですね! 泣きたくなってきたよ!

「ええと、うんまあとにかく」僕は咳払いを四回もした後で続けた。「今日の放課後、顔貸してくれ」

 りんは不思議そうに目をしばたたいた。


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試し読みは以上です。


続きは2020年5月9日(土)発売

『楽園ノイズ』

でお楽しみください!


※本ページ内の文章は制作中のものです。実際の商品と一部異なる場合があります。

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