長同士でとうに話はまとまっていようとも、それじゃあすぐに女を差し出すという展開にはならない。本能の部分で和魂の者は、粗暴な荒魂性を敬遠する。
真っ先に拒絶の意を見せたのは御白だった。最終的には一族の者に説得される形になったものの、心を落ち着かせる時間が必要だと彼女は訴えた。奇現増加の問題に悩まされている美冶部からはぜひ来月にでも、と急かされていたようだが、御白の強固な訴えにより、輿入れは七の月にまで延期される運びになった。御白一人の主張だったなら我が儘を言うなと退けられただろうが、八重以外の女たちからも強く訴えられたという。これを無視すれば民の反発を買う。
輿入れメンバーの中に八重も含まれていると知って、御白や他の女たちからは驚かれたし慰められもした。
「八重、なぜ断らなかったの。父様を殴り倒してでも抵抗しないといけないでしょ」
……御白は穏和なはずの和魂性なのに、意外と好戦的だ。
「まったく父様ったら八重をなんだと思っているの。あの人、頭のよさと引き換えに、人としての優しさを失ったのね」
言いたい放題の御白に、八重は噴き出す。
加達留は御白を世間知らずと評した。実際花耆部の暮らししか知らぬのだからその指摘は正しいが、彼女は決して考えなしの娘ではない。八重が嫁の一人に選ばれた理由を察して悲しんでくれている。八重が出戻りを視野に入れていることまでは気づいていないだろうが、御白を筆頭に、女たちの優しさは掛け値なしに嬉しいものだった。
ただし奇祭の新たな使者として選出された民たちには大いに恨まれた。奇祭は恐ろしいものだ。死ぬ可能性もある。八重が任を降りたことで、他の民にしわ寄せがくる。
(誰にも嫌われずに生きていけるわけがない……)
八重は自分にそう言い聞かせる。自分自身に咎はなくとも、やはり恨まれるのはつらい。
輿入れ道具は先に向こうの部へ運び出す。あちらからも婿入りの道具が運ばれてくる。だから八重たちはほとんど身ひとつで向こうへ嫁ぐ。家族の同行は不可だ。夫となる予定の男たちが馬に乗って迎えに現れ、妻を連れていく。
あちらに到着するまでは、女たちは頭部から腰までをすっぽりと覆うタイプの華やかな面紗を着用して姿を隠す。事前に顔を見て「好みじゃない」と追い返されないようにするためだ。集落に入ってから嫁候補にそんな不満を漏らした場合は、男側が狭量なやつだと笑われる。
しかし無性の八重の場合は、その例に当てはまらない可能性が高い。
──旅立ちの日、八重を赤馬に乗せてくれたのは、腕も腰も太い男だった。
美冶部から来る夫候補の民たちもやはり目元のみ覗く丈の長い黒地の面紗で顔を覆っているが、その体格のよさまでは隠せない。着用の衣は上下ともに白で、袍の袖と裾には大胆な幾何学模様が施されている。
無性の八重でも荒魂の男の気迫というのか、霊気のすごさを感じ取れる。近寄っただけで精神をもみくちゃにされそうな荒々しい霊気だ。たとえるなら、熱気にあてられるような感じである。実際に温度を感じるわけではないが、臆さずにはいられない。八重以上に霊気を感知できる女たちはいまにも卒倒しそうなほど怯えており、大丈夫だろうかと心配になってくる。
屈強な夫候補たちは皆、戦士でもあり狩人でもあることを証明するように肩や腰に武具をさげている。弓袋に刀、槍、湾刀などだ。
騎乗するのは女だけで、男はその馬を引く。今回は一度に十人も嫁ぐので、ちょっとした行列になる。
「美冶部の地は耶木山の裏側、目毘路山の谷間にある」
先頭を行く男が、震える女たちを落ち着かせようとしてか、穏やかな声で話し始める。
穏やかと言っても、優美な姿を持つ花耆部の男たちとは声の太さからして違う。花耆部にも荒魂性の男は存在するが、和魂性の地に馴染むくらいなので、こうまで荒々しい霊気を持つ者はいない。
生粋の荒魂性の者ってすごいと八重も密かに気後れする。
「……我らが恐ろしかろうが、女をむやみに傷つけるような真似はしないので安心してくれ」
優しく宥められても、馬上の女たちの震えはとまらない。
八重もまた、違う意味で震えそうだ。
(むやみに傷つけないってことは、理由があれば話はべつってことじゃないか)
先ほどから、八重を乗せた馬を引く男が不思議そうにこちらをちらちらと見ている。
無性の八重でも感覚の部分で環性を見分けられる。当然、環性を持つ彼らもまた、こちらの性がわかる。
なのになぜ八重からなにも感じ取れないのかと、男は戸惑っているのだ。無性は集落に一人いるかいないかというほどに珍しいので、すぐにはそれと気づけないのだろう。
八重は背筋が寒くなってきた。集落へ到着する前に、環性を問われるかもしれない。
がっかりされるだけならまだましだ。荒魂の男は和魂の者を好むとわかっているだろうになぜ無性を寄越すのかと、ここで逆上されたらどうしようか。
(護身用にあの黒太刀を持ってくればよかったかなあ)
八重は少し後悔した。本来の所持者が所持者なだけに花耆部の地から持ち出すことがためらわれたあのバイブレーション機能搭載の黒太刀は、厳重に布で包んでウイスキーハウスに置いてきている。八重が不在の間もあそこを使う者はいないし、加達留にも「人を入れないでほしい」と頼んでいる。数年、早ければ数日でこちらへ出戻ってくるのを見越してのことだ。
だが考えが甘かった。八重だって人のことは言えぬほど世間知らずだ。
花耆部で暮らす荒魂性の民を当たり前のように基準としていたが、生粋の者たちはこんなにも荒々しい雰囲気を持っていたのか。
嫁入りの話を聞いてから、どうせ自分は奇現の防止要員として一定期間滞在するだけの存在だと、八重はどこかで一線を引いていたのだ。妻としてはまず受け入れてもらえないだろうと。だから感覚的には長期出張に近い。実際それは正しい認識だと思うが、拒絶のみですむのか否かという危うさをもう少し真剣に考えるべきだった。
八重を含む一行は耶木山の麓を迂回し、目毘路山を目指す。
中腹を回ったほうが到着までの時間を短縮できるが、耶木山の裏には崖が多く、少しばかり道が険しい。危険な野生動物も出没する。男たちは、そちら側へはほとんど足を向けない花耆部の女たちを気遣って、多少遠回りであっても安全な山麓のルートを選んだのだろう。
しかし踏みならされた道をゆくのはわずか半刻ほどのことで、その後は山中に分け入り、よく生長した野草を掻き分けながら進むはめになった。花の蜜を求める蝶が二匹、八重の横を飛んでいく。恋人同士のように仲睦まじく飛び回っている。
「美冶部は谷間と言っても、少々わかりにくい場所にある。麓からだと崖に遮られるので女の足では厳しいだろう」
ルートの変更について美冶部の男が丁寧に説明する。
八重は、周囲に密生する巨木を見上げる。
こちらの世界にあるものは、なにもかもが大きい。馬や豚、兎などの家畜もすべて一回り大きいのだ。とくに人が立ち入れぬ禁域や山頂に近づけば近づくほど、動植物の巨大化の傾向が見て取れる。
(もとの世界から流れてくる奇物なんて、本当に見上げるほどの大きさに化けるしなあ)
──などと現実逃避でもしなければ、八重の馬を引く男の執拗な視線に耐えられない。
いよいよおかしいと疑い始めているようだ。
どうしたらいいだろうか。いっそ自分から、「無性ですが奇現の発症を予防できる知識がありますよ」とアピールしてみようか。
相手におもねるような考えを持ったことに一瞬虚しさを覚えたが、八重はすぐさまその無益な感傷を振り払う。生きるために腐った果実を貪った日のことを思い出せば、大抵の苦痛は我慢できる。建前や常識や理性などを全部取っ払った先にある、生への強烈な欲望。餓えるように「生きたい」と思ったあの時間。目を瞑れば、果実の苦さが口の中に蘇る。
八重はもう、そういう極限の状態を知っているのだ。
(あれほど心細くつらいときはなかった。あの日に比べたら、いまなんて断然幸せじゃないか。なんだって耐えられる)
そう自分を宥めて、八重は男に問われる前に自分から説明しようとした。そのときだ。
「待て!」
先頭の男が低い声で片手を上げ、後列の者たちをとめた。
「向こうになにかいる」
そう言って先頭の男は背負っていた槍を手に取った。彼が引いていた馬に騎乗する御白が、不安そうに背後の女たちを振り返る。
「猪か、熊か?」
列の半ばにいた男が小声で尋ねる。
「いや、違う……」
先頭の男は前方を見据えて否定したのち、
「朧者だ」
舌打ちまじりにそう断言した。
女たちも、八重も息を吞んだ。
朧者とは、奇現に魂まで冒された化け物のことを言う。魂の形が完全に変形したら、もうもとには戻れない。
「こんな祝いの日にも現れるとは……道に灰を撒いていたのに効果がなかったか。来るぞ」
美冶部の男たちが一斉に得物を手にして身構えた。
面紗を外し、獅子や狼に変じる者もいる。荒魂性の綺獣の者は、その四環の特徴から猛獣の形を持つ場合が多い。
戦士の目になった彼らを見れば、その朧者が襲撃するつもりでこちらへ接近していることは明白だ。八重は緊張しながらも、帯の中に挟んでいた小袋の位置を指でまさぐった。朧者やあやかし、堕つ神のほとんどは桃の木の灰を嫌う。普段から万が一のときのためにと、小袋の中に少し詰めている。
(……って、ない!?)
八重は仰天してから、頭を抱えたくなった。礼装のせいだ!
婚礼衣装は美冶部到着後に着用する予定だった。いまは多少動きやすい礼装に替えている。が、これだって普段とは違い、上等な絹の布を使った衣だ。面紗は赤や緑や黄色と華やかだが、袍やズボンは男たち同様に、白地に幾何学模様を施したものである。
この装束に着替えたときに、小袋を忘れてしまったらしい。
(こういうときに限って、必要なものがない!)
自分の要領の悪さに腹が立つ。
八重たちの耳に、奇妙な音が届く。なにかが樹幹にドォッと衝突しながらも猛烈な勢いで地を蹴り、こちらへ迫ってきている。
枝葉の隙間から漏れる昼時の明るい日差しが、そのなにかの正体を露わにした。
前方からやってきたのは、蜘蛛のように複数の足を持つ六面の化け物だ。
体躯の大きさは男たちの倍ほどか。牛に馬に蛙に猪に猿に鳥と、数珠のようにぐるりと六つ、頭がある。どの顔も両目部分がまるで土偶のように丸く、腫れぼったい。瞼は仏眼。しかし口は大きく両端が上がっていたり、逆にぐいっと下がっていたりする。
大抵の朧者は、全身が派手派手しい色をしている。マーブルのような色合いもあれば、絞り染めのような色もある。万華鏡のように複雑な色合いの体躯のものもいる。
多色かつ鮮やかな朧者のほうが危険とされており、人や家畜を食おうとする。捕食した者に成り代わろうとするようにだ。
まずは獣に変じた男たちが朧者に飛びかかった。蜘蛛のように複数ある足を食いちぎろうとする。その肉片が八重のほうに飛んできて、びしゃっと音を立てて地面に落下した。
「後尾の者は女を連れて先に行け!」
先頭の男が声を張り上げる。
獣形の者が三人、そして先頭の者がこの場に残って朧者を仕留める気だ。
彼らは連係がよく取れていた。残りの者たちは機敏に動き、怯える女を乗せた馬の後ろに跨がった。八重の後ろにも、手綱を引いてくれていた男が飛び乗った。それから鋭く口笛を鳴らし、女のみが乗る馬を誘導しながらその場を離れる。
しかし、いくらも進まぬうちに、女の悲鳴が上がった。落馬したようだ。
花耆部の女も馬を操れるが、戦士である美冶部の男たちの馬術に匹敵するようなものではない。岩石だろうが倒木だろうがなんでも飛び越えて、かつ速度を少しも落とさずに馬を駆けさせられたら、その激しい動きについていけるわけがなかった。
落馬した女を助けようとして、またべつの女が乱暴に手綱を引っぱり、自らも体勢を崩す。
運の悪いことに、新たな朧者が木陰から出現した。ナナフシのような体型の二足歩行の朧者だった。これも背丈は男たち以上あり、双頭。烏と犬の顔を持ち、片方は白髪、もう一方は黒髪だった。動きは鈍いが、鞭のようにしなる長い腕が厄介だ。八重たちが騎乗する馬が攻撃されてしまった。
「危なっ……!」
馬の横腹が勢いよく引っぱたかれる。その衝撃で倒れた馬が悲痛に嘶く。
八重も男も受け身を取れず地面に転がった。
男はすぐさま身を起こし、地面にしたたか打った背中を押さえて痛みに悶える八重へ手を差し出した。その手を掴もうとして顔を上げた拍子に男と目が合い、八重ははっとした。
男のほうも、驚いたように八重を見つめていた。
四環は、霊気でも悟ることができるが、もっとわかりやすい特徴が瞳に表れる。
光の下で見ると、目の中に環紋がうっすらと浮かぶ。
紋の形状や色は人によって異なる。花びらの形をしていたり、輪違いだったり菱形だったりする。複雑なものからシンプルなものまである。家紋のようなもので、血族関係の民は似通った紋になる。
だが無性にはこれがない。八重はごく普通の黒目だ。
(無性とバレた)
八重は悟った。無性は悪ではないが、その事実を故意に伏せていたのはやはり不誠実だ。この世界において四環の種類、有無は重要な位置を占めている。結婚するとなればなおさらだ。
八重を凝視していた男がはっきりと眉をひそめるのがわかった。差し伸べた手をおろすことはなかったが、緑色の瞳に失望と疑念が浮かんでいるように八重には思えた。
それが被害妄想にすぎないのかどうか、冷静に判断できない。
彼の瞳には、三つ輪違いのような環紋があった。
「なにをしている!」
べつの男が怒鳴りながらこちらへ近づいてきて、八重の腕を取り、乱暴に引っぱり起こした。そこでその男も八重の瞳を見て、驚いたように怒気を消す。もっとよく見ようと、八重の顔を覗き込んでくる。
「無性?」
その男はぽつりと告げた。
八重は息を吞み、ためらいながらもうなずこうとした。
そのとき、きゃあっという女の悲鳴が響いた。
そちらに目をやれば、男たちに腕を数本叩き斬られたナナフシもどきの朧者が怒り狂った様子で暴れていた。大気をびりびりさせるほどの声量で吼えている。振り回していた腕が樹幹を抉った。その破片が礫のように飛んでくる。女たちはそれに悲鳴を上げていた。
八重の腕を掴んでいた男が乱暴に手を放して彼女たちのほうへ駆け寄った。
緑の目の男も、興奮して駆け去りそうだった馬の手綱をすばやく握り、背に飛び乗る。そして短い掛け声とともに馬の横腹を蹴って走らせ、背にかけていた湾刀を器用に片手で引き抜いて、朧者の腕を一本斬り飛ばした。
「おい、まだ奥から来るぞ!」
「守る女が多いのは不利だ、ここは退いたほうがいい」
男たちは早口で状況を伝え合い、迷うことなく撤退の動きを見せた。比較的馬を操るのが得意な女は一人で騎乗させて先へ行かせる。落馬したり気を飛ばしたりした女は自分たちと共乗りさせていた。
半数以上の男たちが馬を走らせて去ったあとで、思い出したように緑の目の男がこちらを向いた。八重はまだ、地面に力なく座り込んでいた。恐怖で固まっていたのではなく、落馬時に打った背中の痛みが原因で立ち上がれずにいたのだ。
「無性だ! 捨て置け!」
こちらに向かってそう叫んだのは、先ほど八重の腕を掴んだ男だ。
彼は、八重を無視して緑の目の男を見ていた。彼もすでに御白と共乗りしていて、この場を離れるところだった。
「新手が来る、急げ!」
御白が目を見開き、八重、と呟いた。しかしその声は、駆け出した馬の蹄の音に掻き消された。緑の目の男も彼らに続いて馬を走らせる。ちぎれた草や土埃を高く舞い上げてあっという間に離れていく馬の尾を、八重は茫然と見送った。
ただこの場に置き去りにされたというだけではない。始末し切れていないナナフシもどきと、新たに迫る朧者が、彼らを追わぬよう囮にされたのだ。
八重は、ぐっと奥歯を噛みしめて、腹の底からこみ上げてくる強い感情が溢れないよう堪えた。こういうときこそ落ち着かなければならない。
しかし冷静になったところで、ろくに武器も持たぬ八重にいったいなにができるだろう。
なにかを決断する暇もなく、男たちの言う新手がやってきた。それもまたナナフシのような体躯の持ち主だったが、手負いの朧者よりも一回り大きかった。
呼吸を忘れる八重の前で、朧者たちは驚くべきことに共食いを始めた。
逃げる余裕はない。新手の朧者は、手負いの者を瞬く間に食べてしまった。
鮮血のような肌色をしていて、頭部はひとつ。ぐにゃりとよじれた埴輪を連想させる不気味な顔をしている。頭髪はなく、その代わりに後頭部は苔生している。地面に垂れ下がるほどに四本の手はずるりと長い。腰にはちぎれかけの裳がある。──衣を身にまとっていたということは、もとはどこかの民だ。その事実に八重は激しいショックを受けた。
奇現は「綺獣」も罹る病である。綺獣の要素を持たない「人間」には罹りにくい。
ここまで病状が進行すると、もうどんな呪いを施しても回復の見込みはない。魂が変形し切っている。
朧者はぼうとした様子で八重を見下ろす。こぉーこぉーと薄い呼吸音が聞こえた。山の風穴から響く虚ろな音に似ていた。
しばらく見つめ合ったが、ふいに朧者が腕を伸ばし、八重の腰を鷲掴みにした。筋張った大きな手は、ぬいぐるみでも持ち上げるかのように軽々と八重の身体を地面から浮かせる。
腹部を圧迫するその手の強さに八重は息が詰まった。目の奥が、煮立つようにぐらっと揺れる。
「いっ……! 放せ、苦しい!」
八重はたまらず呻き声を上げ、朧者の手の甲を引っ掻いた。
すると爪の隙間に、腐った皮膚がみっちりと挟まった。腐葉土のような臭いがふわっと漂ってきた。
朧者の肉体はもう腐食し始めている。
抗う気力をなくした八重を抱え直して、朧者は山中へ深く入っていく。
朧者は木がまばらに生えた、傾斜した地を黙々と進み、さらに向こうに見える崖の岩窟を目指した。黄土色の、粗削りの壁面の下部に、にんまりと口角の上がったような形──寝そべった三日月のような形の穴があいている。しかしその黒々とした隙間は大人が這って進める程度の幅しかない。
八重はその中から黒っぽいものが舌のようにだらりと地面に伸びているのに気づいた。
よく見ると、それは鹿の皮だった。黒っぽく見えたのはそこを中心に地面が血に濡れていたためだ。切り裂かれた腹部から肉や臓腑が骨ごとごっそりと抜き取られている。
無意識に目を凝らせば、鹿の周囲には小鳥の死骸も散らばっていた。
おそらく朧者は三日月形の岩窟内で、手に入れた「餌」を食べている。あるいはそこを一時的に餌入れにしているのかもしれない。
とっさにそんな不吉な想像をして、八重は嫌悪以上の恐怖を覚えた。
「嫌だ、放して! あんなところに入りたくない!」
八重は身を仰け反らせ、手足をばたつかせながら暴れた。だが八重の抵抗など巨躯の朧者にとっては痛くも痒くもないようだ。ちらりとこちらを見下ろしたきり、なんの反応もない。
(ああもう! 荒魂性の男とは一生結婚するものか!!)
美冶部の男たちにとっても朧者の出現は不幸な事故だが、八重は彼らを呪わずにはいられなかった。
もし無性の女でも美冶部の者が歓迎してくれるのなら、そのままそこの民となって生きてもいいのでは──という、心の底に隠し持っていた淡い期待がさらさらと消えていく。
あちらの部は突発的な奇現の増加で難儀しているという。八重の持つ知識が使えるかもしれない。誰かの役に立つ喜びは、自分に自信のない者にとって、麻薬のような力を持っている。
それでもって、夫になる男と恋をし合えたら、なんていう甘い望みも本当はあった。今世の八重は、十代の娘だ。そして、前の生では一通りの経験を済ませている。恋がどれほど日々を彩るかを自分の体験として知っている。
だが奇跡的に生還できたとしても、自分を見捨てた相手と恋ができるだろうか? ゼロどころかマイナス地点からのスタートだ。
(多数を守るために少数を切り捨てる。彼らは好きでその選択をしたわけじゃないけど、実際に自分が切り捨てられると笑えない)
そう考えたあとで、八重は死の危機を目前にしてさえ物わかりのいいふりをする自分に嫌悪した。冷静さは大事だが、なにも感情まで押し殺す必要はない。
(本当はちっとも割り切れてない……)
「なぜ私がこんな目に」という怒りと、「誰かと並べられたとき、私は見捨てられる側の人間なのか」というどろどろとした恨み、苦痛が胸の底に蔓延っている。
そういう誰にもぶつけられない歪んだ感情を、八重は冷静な自分を装うことでごまかす癖をつけてきた。
──加達留にも駒のように扱われるのだって、本心ではとても嫌だった。
本当は、本当は、という後出しが水泡のようにいくつも八重の心に浮かび上がってくる。後出しの感情ほど困るものはないと知っているのに、目を逸らせない。
しかし、たとえば本心を打ち明けたときに、相手の顔に「ああ面倒臭いな、やめてくれよ」という憂いが滲んだら、どうすればいいのか。他人から向けられる笑顔の種類だって「嫌いではないから笑みが浮かぶ」のと「好きだから自然と笑みが漏れる」のとではまったく違う。前者であった場合、それに気づいたら、きっと心が凍りつく。
周囲の人間全員から薔薇のように美しい愛情を捧げられることなんてありえない。けれども誰かと比べられたとき、わずかな差であっても、向けられる好意がその人より劣るのが耐えられない。望みすぎであろうとも、そう考える自分をよくわかっているから、八重はこの世界で寛容を装ってきた。大人であることを自分に課してきた。
(馬鹿だなあ)
生きたいと思った。生きていけるだけでじゅうぶんだと思っていた。
でも嘘だ。八重はこの世界でも誰かにきちんと愛されたかったし、同じように惜しみなく誰かを愛したかった。その果てに、幸せになりたかった。いや、「なりたかった」ではなくこの瞬間だって「なりたい」と願っている。
必死に隠していた心が、死が近づいたいまになって力強く目覚めるのを感じる。
「死にたくない……っ」
振り絞るようにそう叫んだときだ。
三日月形をした岩窟の隙間から飛び出している血塗れの鹿の皮が突然膨らんだ。地面の下から誰かが布団でも押し上げたかのようだった。すでにその手前まで八重を抱えたまま近づいていた朧者が、警戒するようにぴたりと立ち止まる。
鹿の皮の下から、月より鮮やかな向日葵色の円い目玉が二つ覗いていた。
八重が目を見張った瞬間、鹿の皮の下から大きな黒い塊が矢のように飛び出し、襲いかかってきた。八重は、その正体を知って、思わず声を上げた。
「黒葦様!」
朧者の横腹に食らいついたのは、しばらく姿を見ていなかった黒葦だった。
黒葦の襲撃で朧者の手から力が抜け、八重の身は地面に落下してごろりと転がった。慌てて地面を這い、朧者と距離を取ってから八重は振り向いた。
黒葦は、あっという間に朧者を消滅させた。鋭い爪で腕を引き裂き、顔面もごっそりと削いで、喉笛を噛みちぎった。朧者は、おおぉと呪わしげな断末魔の叫びを上げると、石や枝、それから虫の死骸がまざった黒い土塊に変貌し、その場にどしゃっと崩れ落ちた。
黒葦は長い尾を振り、獰猛な荒い息を吐きながら朧者の残骸を見ていた。
(美冶部の屈強な男が数人掛かりでも苦戦する朧者を、簡単に倒してしまった)
しかし黒葦はどうしたことか、背中に大怪我を負っている。それが刀傷だと気づいた直後、八重の脳裏に、奇祭〈廻坂廻り〉の夜、びひん様に黒葦が斬りつけられていた光景が蘇った。もう七月になったというのにいまだ傷口は塞がっておらず、新しい血をこぼしている。
だが黒葦の血は、地面に落ちると幻のように跡形もなく消滅する。
「なぜ黒葦様がここに?」
八重は地面にへたり込んだまま、かすれた声で尋ねた。
黒葦は、ふーっふーっと荒い息を繰り返し、八重を見据えて歩み寄ってくる。その異様な姿に気圧され、八重はよろめきながら立ち上がった。
目の前にいる獣はいままでの気安さを取り払って、八重を脅かそうとしている。その意志がはっきりと伝わってくる。
「黒葦様、やめて!」
逃げ出そうとした八重の行動を見通していたらしく、黒葦は何度もわざと飛びかかるような動きを取った。噛みつこうとする黒葦をかわすうち、八重はとうとう足をもつれさせて転倒した。そこはちょうど朧者の身体が崩壊して土砂と化した場所だった。