黒太刀との望まぬ同居生活は、時折やらかしてくれる反抗的なバイブレーションにさえ目を瞑れば案外うまくいっていた。基本は動かないし、物も食べず、語りもしない。そっと壁に立てかけておくだけでいい。ただ、八重が出掛けるときには必ず持ち歩かなくてはいけなかった。お散歩犬ならぬお散歩剣かと呟いたらすごくガタガタされた。
奇祭は成功したと長に報告するときは本当に後ろめたくてたまらなかった。それに、いつこの黒太刀を取り戻しにびひん様が現れるのかと思うと、恐怖でしかない。しかし座る自分を中心にして黒太刀がガタガタと回り続けるという悪夢を見たあとでは、長に真実を告げられるわけがなかった。二日目は、黒太刀を咥える黒葦に真正面からじいっと見つめられるという悪夢を見た。そういえば黒葦はどうなったのか。わからないことばかりだ。怯えることにも疲れ果て、もうどうにでもなれという心境で黒太刀を抱えながら眠るようになり、四日目。
事が動いた。
八重はその日、首長の加達留に呼び出しを受けて、段々畑が見事な山の斜面に設けられている集会所へ向かった。
「──私も、隣の美冶部に嫁ぐのですか」
挨拶もそこそこに加達留から言い渡されたのは、花耆部から十名の女を隣の部に嫁入りさせるという話だった。
黒太刀に関する報告をしなかったことがバレてお咎めを受けるに違いない、と戦々恐々としていたので、予想外の内容に八重は困惑した。
長屋に似た木造の集会所にはいま、八重と加達留しかいない。
建物の外から、子どもたちの明るい笑い声が聞こえてくる。半分開かれている丸窓からは透き通った日差しが滑り込み、板敷きを白く輝かせていた。
「八重の他には私の娘が一人。あとは一族の中から二人。民の中から六人」
加達留が穏やかに言う。
見た目は四十代で、彼も息子の操同様に大柄だ。髪や目の色も操と同じだが、年の分だけ思慮がある。垂れ気味の目尻には優しさがうかがえる。
──そして彼には、極彩色の片翼がその背にある。
「どうしてそんな話に──」
八重は、どう尋ねていいのか迷い、自然と口が重くなった。
加達留が苦笑し、額にかかった赤茶の髪を指先で払う。
「長い間冷え切っていた美冶部との交流が目的──というのが表面上の理由だが、我らもあちらも、双方、ここで手を結ぶことに益を見出した」
「加達留様の穏やかに見せて容赦なく切り込んでくるところ、好きですよ」
八重がじっとりとした目でそう返すと、はははと加達留が目尻に皺を作って快活に笑う。
「私もおまえの利口さが嫌いではない。本音では、おまえをあちらへ渡したくないのだが」
「私が選ばれた理由があるのですか?」
首を傾げて問うと、加達留は笑みを引っ込めて渋面を作った。
「美冶部で『奇現』の数が増加している。おまえならいくらかとめられるだろう、八重先生」
こちらを見据える加達留と、八重は同じ表情を浮かべた。
奇現とは、言霊で縛られていないモノが、べつの奇異な存在へ化けてしまう現象のことを言う。
他のケースもあるが、この現象が最も多い。たとえばここに林檎が一玉あるとする。だが誰もその名称が林檎だと知らない。「赤いもの」「丸いもの」「香る玉」「美味しもの」というように、様々な呼び方をされる。存在が曖昧なものになる。
すると本質が狂ってしまう。異形と化す。無害な異形になるのならまだましだが、大抵は変容に変容を重ねすぎた結果、恐るべき化け物に成り果てる。
なぜこんな不気味な現象が発生するようになったのか、八重なりに持論がある。
(すでに名がある状態だったモノが、そう呼ぶ者がいなくなったためにおのれを見失ってしまった、ということじゃないだろうか)
いわば記憶喪失の状態だ。だから必死に、存在の確かな何物かになろうとあがく。そのあがきが、奇現という症状を招いたのではないかと思うのだ。
こちらの世界では奇現を病のひとつとして数えている。
奇現の厄介なところは物や草花、あるいは霊魂も容赦なく罹患するという点だ。不思議と集落で飼育される家畜が奇現に罹ることはあまりない。
見た目が十四、五歳の小娘にすぎぬ八重が、皆にからかいや畏怖をまじえて先生と呼ばれるのは、「奇現」の発症を抑えられるからである。幼い頃から奇現に罹りそうな草花を見つけては、『名付け』を行っていた。
なんのことはない、かつての人生で自然豊かな地に暮らしていたし、山菜採りにもよく出掛けていたので他人より多少動植物の名前に詳しかっただけだ。職業柄、図を作製するのも得意だった。
ただし一度名付ける程度では効果がない。適当であってもだめだ。本質を示す文字を当てねば無意味で、なおかつ何度も記し、札を張り付け、周知させねば発病をとめられない。
この作業を行うのは皆のためだけではなく、自分のためでもある。散策中、いきなり蛸の化け物みたいに変貌した蒲公英に襲われ、むしゃむしゃと食べられるのはごめんだ。
とはいえ、あくまでも暇を見つけての予防行為にすぎない。医師のように、すでに罹患したモノの本格的な治療に当たったことはない。名付けの対象も、無害な状態の草花に限る。民や霊魂相手の治療なんて、さすがに無理だ。
「……正直に言うなら、あちらにとって一番の目玉は私の娘の御白だよ」
重苦しい雰囲気を払拭して、加達留があっけらかんと告げる。
「御白様、美しいですものね」
八重は、今年で十八歳になる彼の娘の御白を思い出し、感嘆した。燃えるような赤い色の髪に、色っぽい厚めの唇、大きな瞳。花耆部の男たちは彼女とすれ違うと、うっとりした顔で振り返る。増えるわかめに似た黒髪に棒のような体型の自分とはべつの生き物なんじゃないかと八重は常々思っている。いや、ものはいいようだ。豊かな長い黒髪にスレンダーな体型……無理があった。
「あれは世間知らずな娘だが、役には立つ」
加達留は実の娘に対しても冷静な見方をする。八重の目には、それが辛辣に映る。
長の彼には妻が四人、そして子どもは実子の他に洞児を含めて十六人もいる。こちらの世では夫、あるいは妻が他の伴侶を得てもかまわない。もちろん双方の許可がいるけれども。
はっきり言ってしまえば、産めよ増やせよ精神で結婚が決まる。それだけ生き抜くのが厳しい世界という意味でもある。
「お話はわかりましたが……、いいんですか、私でも」
八重はためらいながら尋ねた。
隣の部への嫁入りが嫌なわけではない。ここはかつての世とは違う。好きな相手と結婚できるほうが稀なのだ。
「無性であることを気にしているのか?」
加達留の不躾な問いかけに、八重は曖昧に笑ってうなずく。
こちらの世には「奇現」や「奇物の巨大化」の他に、もうひとつ不可思議な特徴があった。
「おまえは本当に、成長しても『四環』が出なかったなあ。この花耆部に生じた洞児なら、和魂性を持つかと思ったが……。それに『綺獣』でもない」
そうつぶやく加達留を、八重はそっと盗み見る。
彼の背に生えている極彩色の片翼。それが『綺獣』の証しである。
(ここの世界は、かつての日本と似ているようでやっぱり大きく違う)
八重は視線を落とす。
民のほとんどが、加達留のようになんらかの鳥獣の要素を持つ『綺獣』という種族として生誕する。獣に変化できたり、あるいは特殊能力を持っていたりする。
八重のように完全な『人間』の姿を持つ民は逆に少ない。
しかし人間か綺獣かは、さほど大きな問題ではない。
重要なのは、こちらの世界最大の特徴である『四環』だ。
これは血液型の区分けを連想するとわかりやすい。
性格パターンをおおまかに形成する軸のようなものだが、血液型以上に、魂の在り方に直結している。それが本能に結びつくため、感情面にも強力な影響を及ぼす。
四環には、荒魂、和魂、幸魂、奇魂という種類がある。
荒魂の性は比較的男に多く、雄としての本能が強烈で荒々しい。綺獣の特徴もよく現れる。
和魂の性は比較的女に多く、穏和で優しげだ。争いを嫌う傾向にある。
幸魂性の者は神力をよく持ち、希少な型とされる。神通力もだが、特殊能力持ちも多い。
奇魂性の者は、不思議なことに雌雄同体である場合が多く、これも希少だ。そして四環の生み分けをいくらか可能とするが、奇魂性自身の出産率は極めて低い。また短命の傾向にある。といっても、普通の人間程度には生きられる。
またこの四環は相剋の面も合わせ持つ。
最も強靭で、二百年も生きるほどに長寿なのは荒魂性だけれども、和魂に弱い。というより惹かれやすい。反して和魂は、荒魂性を嫌悪する。
奇魂は性質上、狙われやすいため、他の環性を敬遠する。が、虫を誘う蜜のように魂が香る。また、幸魂と奇魂の相性はよくない。同族嫌悪に近いらしい。
これら四環の性は、生活面にも密接に関わってくる。
およそどこの集落も、同じ環性の者が集まって暮らしている。他の環性ももちろん部の中に存在するが、やはり格段に少ない。
花耆部には和魂性の民が集まっている。男よりも女の比率が多いことから、生計は農作頼りとなる。逆に美冶部は、荒魂性の民が中心となって形成されている。男が大半なので、その暮らしは狩猟が主となる。
八重はというと──どの環性もないのだ。
それを無性と呼ぶ。
「……無性の者を、荒魂性の男たちが喜んで迎えてくれるとは思えないのですが」
こちらを見定めるような加達留の眼差しに耐え切れなくなり、八重は消極的な発言をした。
「そうだろうな」
と、加達留はあっさりうなずく。
「拒否こそしないが喜びもしないだろう。荒魂の男はとくに和魂の女を求める」
「それがわかっているのに私を嫁入りメンバー……輿入れの女の中に加えるのですか」
鬼畜か、という八重の心の声を正確に読み取ったらしく、加達留が苦笑する。
「向こうの民はな、和合の律が大きく崩れたから奇現が増加したのだと訴えてきた。同性婚を繰り返すせいだ、ゆえに異性の血がほしいと」
ここで言う同性婚とは、男同士、女同士の意味ではない。この世界では魂の性質、つまり四環の種類をさす。異性の意味もまた同様だ。
「それでこちらに和魂の女を求めてきた」
腕を組み、片翼を震わせる加達留に、八重は迷いながらも尋ねる。
「和合の律と奇現の発症率は、無関係ではないでしょうか」
「その通りだ。そこに因果が隠されているとは思えない。だが、はじめはあてこすりにすぎずとも、提唱し続ければ意味を持つ。嘘が迷信となって伝承に変わり、やがて真実に化ける。『名付け』行為の力を知る八重ならその危うさがわかるな?」
「……はい」
「それ以上に、和魂の女ほしさに花耆部を襲ってもらっては困る」
加達留が表情を動かさずに淡々と言う。
それが本音だろうなと八重は推測する。
「実際、花耆部も美冶部も同性の者が増えすぎた。こちらとしても、奇現の化け物を倒すための男手がもう少しほしい」
「というと……美冶部からも同じ数、荒魂性の男にこちらへ婿入りしてもらうのですか?」
「そういうことになる」
肯定してから、加達留はまた価値を測るような目を八重に向けてくる。
「民を交換するのはいいが、奇現の発症が減らぬからと言って、向こうへ送った女が虐げられてもやはり、困る。それを契機として花耆部に侵略される事態を招くわけにもいかない」
……それが一番の本音だな、と八重は納得した。
「あぁなるほど……それで、私を」
加達留が微笑む。
「あちらで適当に数年すごしたら、離縁してこちらに戻ってきていいぞ」
「加達留様、もう少し言葉を優しさの布で包みましょう」
「うん? いや、本当におまえを失うのは痛手だ。奇祭の大半をおまえに任せていたから、新たな者を立てて指導せねばならないだろ」
違う、そういうことじゃない。
八重は黄昏れた。この策略家の首長は、はなから八重の結婚が成功するとは思っていない。むしろしてほしくない、……とまで考えるのは八重の願望がまざりすぎているか。
しかし、向こうの地で奇現の発症を封じたあとはこちらへ戻ってきていい、ということは、いくらか八重の価値を惜しんでいる証拠ではないか。
「八重は話が早くて助かる」
この輿入れ話を断るわけがないよな、と言外に脅す加達留を、八重は複雑な顔で見遣る。
「ええ、わかりました。でも、もしも最初から手厳しく『無性はいらない、帰れ』と相手に拒絶されたらすぐに戻ってきます」
そのときは責任を問わないでほしい。
「おや。少しはがんばってほしいところだが」
笑う加達留に、話の終わりを悟って、八重は立ち上がりながら言う。
「がんばる必要はないでしょう。奇現の増加をとめられずとも、私を追い返したという事実がこちらを守る盾となる。無理を押してあちらで何年も暮らさなくたっていい」
「確かに」
とっくにそこまで考えていたくせに、と八重は内心拗ねながら、本音を少しだけまぜた言葉を別れの挨拶にする。意趣返しというほどのものでもない。冷徹だけれども優しい面もある長なので少しは胸を痛めてくれるかもしれない。そう思ってのことである。
「……嘘は嫌いですが、それでも一言、私の幸せを願って結婚させるのだと言ってほしかったな、お父様」
八重が去ったあと、加達留は溜め息とともに呟く。
「ここではじめてのお父様はずるいぞ、おまえ……」