ひ、不二の隠り世に生る御伽話 第二話

 月夜。

「つーちや つちや あめつちや」

 八重は歌いながら、暗い道を練り歩く。

 右の手には、真っ赤な提灯ちようちん

 左の手には、めたあみぶくろ

 昨日、道すがら手に入れたもので、ひとつひとつをあさひもくくっている。

「まーつろ まつろ まーつろや ちまた」

 八重が着用しているのはたちえり仕立てのたけながの白衣に黒帯、足元はき口の広いつつじようしろ足袋たび

 くつは履かない。

 履いてはならない。

「まーつりゃ まつりゃ まつりや こんこん」

 かみわずにそのままかたに垂らしている。

 初夏というのに、歌をつむぐ八重の口からは、こごえた日のように白い息がれる。

「こんこん ここ こご ごこ ここん」

 歩いている場所は、花耆部の最大のとくちようとされるうずきのような無数の段々畑の中だ。

 八重のほかに、外に出ている民はいない。虫の音もなければ風も通らない。

 おんな雰囲気にあつとうされ、暗がりになにかがひそんでいる、と思わずにはいられなかった。見知らぬ土地に迷い込んでしまったようなよそよそしさもまた、感じられる。

 いや、ほんのわずかに時空がズレているかのような──。早くこの得体の知れぬ場所からだつしゆつしなければというあせりが胸に押し寄せてくる。

 八重はそのしようそうかんあわきようから目をらし、一歩一歩進む。

 見張りか、護衛か、気がつけば、虎の黒葦が横を歩いていた。

「まーつろ まつろ まつろえ まにま」

 段々畑の中をゆく八重の前方には、びた太刀たちを手にさげたかみの『びひん様』がいる。

 上半身ははだかで、下半身には短めののようなものを穿いている。靴は、ない。全身は黒いしようおおわれており、それがうすまったときのみ、容姿をはっきりとかくにんできる。頭頂部、胸、腹、こし、両手足の計八しよに、じんめんそうのごとく険しい顔がかんでいる。それ以外にも小さなじゆうめんが全身にいくつも浮き出ている。背中には、つばさのように左右に無数の腕が生えている。



 ──奇祭〈かいざかまわり〉とは、堕つ神を追い立てる祭事である。始まりは百年ほど前だという。

 日本で行われていたついのようなしきなのではないかと八重は考えている。

 年に一度、けがれをまき散らしながら花耆部の地に現れるこの堕つ神びひん様を、歌で追う。堕つ神とは、人に害をもたらし、山河をらす悪神をさす。

 花耆部は、というよりこの世界には、どこの地も、これと決まった国教が存在しない。

 宗教的がいねんがそもそもないのかといえば、そのあたりの事情は少し複雑で、たとえば自然やじゆぶつへのしんこうなら当たり前のように民の心にある。かつての八重には夢物語かマジックとしか思えないちようじよう現象が、ここには日常的にあふれている。神通力もそのひとつだ。

 生活レベルはガスや電気が使われる前の日本……明治どころか時代くらいまでさかのぼりそうなのに、このファンタジックな神通力が様々な場面で活用され、文明を発達させている。

 そして、かい現象すら、よくある話として受け入れられている。

 このびひん様だって皆にひどくおそれられているけれども、存在自体は認められているのだ。れいかんは関係がない。山があれば谷があり、人がいるなら霊もいる。そんなおおらかな考えがここにはある。

 びひん様の通ったあとには黒油のような穢れが落ちているので、紐で括った枇杷をそのそばに生えている木の枝にかけて清めていく。こちらの世界の枇杷は、前の世のものより大きい。

〈廻坂廻り〉には、いくつかの決まり事がある。

 びひん様がり向いたときには、歌ってはいけない。

 動いてもいけない。

 息もしてはいけない。

 びひん様にれてはいけない。

 声をかけてはいけない。

 追う間、長く目をはなしてはいけない。

 びひん様が花耆部のぼんを一巡りし終えるまで、提灯の明かりを消してはいけない。

 これらの決まり事を破った場合、使者がどうなるのかはわからない。

 なぜなら、禁をおかした使者はその夜のうちに行方ゆくえ不明になる。そして二度ともどってこない。

 もともとこの堕つ神に名はなかった。オツさま──堕つ様、と呼ばれていた程度だ。

 だが昔々、花耆部に活現した、とあるうろが、オツさまの名は『びひん──ひん』であると言い当てたのだとか。

 びひん様が生じる場所は、なんの因果か、幼いころに八重がむさぼったくさりかけの石榴ざくろもどきの実がなる一帯の近くだ。あのときに八重がもう少しがんばって進んでいれば、花耆部を見つけられただろう。

 八重が石榴もどきを食べて気絶したあの場所には、しゆいろの柱が地面にさっている。

 いまはもう風化を受けて読めないが、柱の表面に『美嬪』と刻まれていたのだという。

 とするならこの文字こそが、そこに生じる堕つ神の本質を示す名であろうとたみは考えた。しかし花耆部の民が日常生活で使うのはとくしゆ文字──じようもん文字のようなもの──なので、漢字を読める者がいなかった。かくてき前世のおくを長くしていた洞児の出現により、ずっとなぞのままだったその文字をようやく解読するに至ったらしい。

 づらや文字の意味からして、堕つ神の正体は美しい女だったにちがいない。だがなんらかの理由で穢れ、ちてしまったのだろう。文字を読解した洞児はそう推測したと聞く。

 ──八重は、そこからさらに、もしかしたらという仮説を立てている。

 あそこの場所に突き刺さっていた柱はおそらく鳥居のざんがいで、びひん様の正体はかつてその神社に祭られていたがみではないだろうか。

 次元の異なるこちらに鳥居や社ごと流されてきたか、あるいは気の遠くなるほどの年月がすぎて管理する者も絶え、そのまま打ち捨てられてしまったか。そして社がほうかいした結果、ほうじられていた祭神がちたのではないか。

 八重が〈廻坂廻り〉の使者に選ばれた理由は、その柱のそばで行きだおれていたからに他ならない。花耆部のおさの子である操が山中をけ回って遊んでいた際、地にす八重を発見した。救助ののち、こちらの暮らしに慣れるまでは彼らの一族が八重の保護者となってくれた。洞児はたいてい、部の長が後見人となる。だから八重は恩ある操たちに逆らえない。

 断れぬ役目ではあったものの、決して彼らからつらく当たられているわけではない。操たちは八重をたみの一人として受け入れている。

 だが八重は、少しだけ操が苦手だ。

 操が、八重を苦手と感じていることを上手にかくしてくれないからだ。

 そのまどいが八重にも伝わり、いっそうの気まずさを生む。

 しかしそれは操だけに限った話ではない。花耆部の民は、他の洞児とどこか違う八重に淡い恐れをいだいている。月日の流れとともに失われるはずの前の世の記憶を八重がいつまでも持ち続けて、ねんれいに見合わぬ振るいをするのがおおよその原因だとはわかっているが、成人女性の意識があるのにじやな幼児の演技をするのはさすがにずかしい。



 それにしても、と八重は思う。

 八重が〈廻坂廻り〉の使者となって十年近くになるが、気のせいでなければ、びひん様は年々おとろえてきていないだろうか?

つちや 地や あめつちや」

 八重は歌いながら──しゆを唱えながら、横を歩く黒葦の存在を意識する。びひん様を追いはらうまでは目を離してはならぬため、その、ざ、ざ、という足音に集中する。

「祭ろ 祭ろ 祭ろや ちまた

 びひん様の変化も謎だが、黒葦の存在も奇怪の一言にきる。

 はじめて〈廻坂廻り〉の使者となったときのことを八重は思い出す。その頃のびひん様はいま以上に化け物めいていた。けもののように四足歩行で、太刀を口にくわえていた。身を包む瘴気はむわりとく、離れた場所にいても息苦しさを感じるほどだった。瘴気がほのおのようにらめいて薄まったとき、身体からだに浮き出る人面瘡が見て取れた。そのすべてがおにの顔をしていた。翼のごとく背中に生えている無数のうではうぞうぞとうごめいており、おぞましさしか感じなかった。

 いくら精神は成人済みといっても、多少は肉体年齢に引っぱられることもある。

 当時の八重はびひん様の想像する以上の化け物っぷりに恐れおののき、提灯ちようちんから手を離してその場にへたり込んだ。すると先を歩いていたびひん様が振り向き、のうこうをまとって八重のほうへ近づいてきた。殺されると青ざめた直後、黒葦がどこからともなくやってきて、「早く立て」とせっつくように八重の腕をようしやなくんだ。

 自分の腕からしたたる血を見て八重は我に返り、立ち上がった。

 ──いまでもあのときのきずあとがうっすらと腕に残っている。これはいましめの跡だ。恐怖に負ければ死んでしまう。そういう恐ろしい側面を隠し持つ世界であることを忘れるなという戒め。

「祭りゃ 祭りゃ 祭りや こんこん

 すいじやくしたふんのびひん様とは逆に、黒葦のほうは姿がはっきりしてきたように思う。

 黒葦も最初はのうのような瘴気をまとっていた。目もにごったはちみつのような暗い色合いで、ぞうに満ちていた。なぜ八重を助けてくれたのかは知らないが、少なくとも好意によるこうではないだろうことは察せられる。八重が歌をとちるたび、黒葦はおどすようにきばいてうなった。

「今々    こん

 いまだって別段、仲良しこよしの関係ではない。ただ、はじめの頃のように脅されたり噛み付かれたりされることはなくなった。ひとみの濁りも消えたし、しようぬぐい取られている。毛並みだって、八重が時々かしてやるからもっふりふわふわだ。

 ……仲良しこよしではないが、八重はこの素っ気ない黒葦にきっと心を救われている。

 前の世の記憶に助けられる場面は多かったが、その一方でがいかんも強かった。年齢に見合わない知性は周囲の者を混乱させる。

 大人としての意識がじやをして、親代わりの長たちにもろくに甘えることができなかったように思う。八重は十歳をすぎたあたりで自活する道を選んだ。自分のたんぶりをみなの目から少しでも隠したくてしかたがなかった。八重のたましいはすでにこちらの世の存在だとしっかりにんしきしている。前の人生の故郷はなつかしいが、だからといって帰りたいとは思わない。

 いまは確かにここが八重の故郷だ。

(まだ完全にはこちらの世界を受け入れられていないのに、その部分は揺らがない)

 長の下から飛び出そうとする八重を引き止める者はいなかった。自分の意志で一人暮らしを望んだくせに、勝手に見放された気になり、胸が痛くなったことをよく覚えている。

 マイペースに出現する黒葦は、八重がゆいいつ気をつかわなくてすむ相手だ。だから、その正体はきっとろくなものではないとどこかでさとりつつも黒葦をこばめないでいる。

「祭ろ 祭ろ 祭ろエ まにま

 ──そんなふうにぼんやりとついおくひたっていたのがわざわいしたか。

 ふとまばたきしたとき、びひん様が立ち止まっていることに八重は気づいた。あわてて口をざし、動きをとめる。息も殺す。なんだか「だるまさんがころんだ」でもしているようだと思う。

(もう鳥居のところまで来ていたのか)

 びひん様を例の朱色の柱のもとまで追いやれば、それで〈廻坂廻り〉はしゆうりようだ。

 ここで少し待てば、すうっとけるようにびひん様の姿が消えるはずだった。

 ところが今年は様子が違った。振り向いたびひん様が八重のほうへ近づいてくる。

 八重はぎょっとし、目を泳がせた。

 どうしてだ。今日は歌も間違わなかったし、提灯の火も消えていない。

 びひん様はこちらへ接近すると、太刀たちさやからいた。その太刀は鞘ばかりか刀身までも黒曜石のように黒かった。

 まさかとがくぜんする八重に向かって、びひん様は太刀を振り上げる。

 悲鳴を上げるゆうもなかった。びひん様の行動がとうとつすぎて身動きすらできない。

 頭上にり下ろされるやいばを、八重は瞬きも忘れて見つめた。

(はあ!? ちょっと待って、なんっ──)

 り捨てられる。きようとともにそう確信したが、びひん様の刃は八重ではなく、横にいた黒葦をたたった。

(なんで!?)

 次のしゆんかん、黒葦の身から瘴気がほとばしり、広がって、あらなみのように八重をおそった。視界が真っ黒に染まる。口や鼻や目から瘴気が入り込み、自分の肉体がやみに溶かされたような心地ここちになる。

 肉体どころか魂さえ溶かされる。八重はそうおそれた。

 そうして、最後まで悲鳴ひとつ上げることができぬままに八重は意識を失った。




 ──で、目覚めれば、なぜか八重は自分のすみであるウイスキーハウスにもどっていた。

 がばっと飛び起きたあと、しばらくの間夢うつつの状態で室内を見回す。赤茶色のかべのタイル、木製のたなたん。閉められた折れ戸。居間としても使っているこの場所には三日月形のハンモックがあるけれど、八重はそこではなくゆかの織物の上に直接ていたようだ。

「……って、私はなんで見覚えのあるこの黒太刀をかかえて寝ているんだ」

 八重は腕の中にあるものを見下ろして愕然とした。

 夢だと思いたいが、びひん様が所持していた黒太刀がここにある。全体の長さは約一メートル。刀身部分はわずかに反りが見られるが、鞘から抜く勇気はない。獣と花のしようおぼしきつばつかがしら、それと鞘のそうしよく部分はの色をしている。

(なんだこの、持っているだけでのろわれそうなあつかんたっぷりのけん。なんでさびも消えてるの)

 びひん様の手からのがれられたので錆が落ちたとでもいうのか。

 八重は、その太刀が視界に入らないよう、近くにあったとんを引き寄せて、無理やりにくるりと包んだ。……ほとんどはみ出ているけれども、隠さないよりはましだ。

(一刻も早くおさに報告すべきじゃない? これ)

 だがどう説明すればいいのだろう。昨夜のさいで追い回したびひん様がいきなり黒葦様を斬りました。その後私はびひん様の太刀を知らない間に持ち帰っていました、しかしいつ住処に戻ってきたのかさっぱりおくにありません──。

(だめだ。正気のじゃない。信じてもらえそうにない)

 八重は心から思った。ただでさえ不可解なうろこと思われている節があるのに、これが公表されたらますます皆に遠巻きにされる。

 恐れとあせりを静めようと、八重が深く息をき出したとき、黒太刀がいきなりガタガタと揺れ始めた。

「なっ、なに!? こわい!」

 け反る八重の前で、黒太刀が座布団の中から転がり出てくる。

 そして、シン……とちんもくし、動かなくなった。

(なんなのこの剣。おかしい)

 ふるえながらもう一度、座布団の中にかくすと、今度は先ほどよりも腹立たしげにガタガタと動き出す。座布団をらすようにして、ガタンッと八重の目の前に転がってきた。

 座布団の中に隠されるのは不服であるという主張が痛いほどに伝わってくる。

「意思を持つ剣とかちがいなく呪いのアイテムじゃんか……、うぇっ! ガタガタ鳴るのやめてくれる!? 怖い怖い怖い!」

 この黒太刀、主張が激しい!

「とりあえずどうすればいいの。いや、落ち着け、落ち着くんだ……。私は教えられた通りに奇祭にいどんだだけでなにも悪くない。いますぐ長のところに剣を持っていこう、それがいい──って、だからもうガタガタやめて! うわっ、ちょっなに!? 『うるせえ俺を余所よそに預けたらおまえを一生呪うわ』っていうおどしの気配をめちゃくちゃ感じるんだけど!?」

 その通りだよ、とこうていするように黒太刀は静かになった。

 しばらくせんせんきようきようと見下ろし、八重は勇気を出して口を開く。

「ごめんなさい、私、太刀とは同居できない体質だからここにおまえを置いておけないんだ……バイブレーションすごいな!? 本当にやめて怖い!」

 座ったまま後退する八重のほうに、黒太刀はガタガタと音を立てながらせまってくる。そして目の前でぴたりと動きをとめた。

 これほどきようれつに自己主張をする剣なんて見たことがない。八重がだん料理に使っているナイフを見習ってほしい。ひとりでにガタガタとれたりしない。今度ていねいいであげよう。

「えー……と、その。あなたはびひん様の剣で間違いないですか」

 八重は自分をきしめながら震え声でたずねた。

 が、剣は反応しない。黒太刀相手にあらたまった口調で語りかける自分の姿を客観的に見たら、ただのやばい人でしかなかった。

「そうだ、あのしゆいろの柱のもとに置いてこよう。……え、またガタガタ鳴るってことは、それもだめ!?」

 この黒太刀は、なにがあってもほかの場所に移動されたくないようだ。

 ペットと思って飼うしかないのかと八重は絶望した。どんなにがんばっても愛着を持てそうにない。

 私にこれをどうしろと。

 八重は、わけのわからない呪いの黒太刀を見つめながら胸中でそううつたえた。

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