月夜。
「つーちや つちや あめつちや」
八重は歌いながら、暗い道を練り歩く。
右の手には、真っ赤な手提げ提灯。
左の手には、枇杷を詰めた網袋。
昨日、道すがら手に入れたもので、ひとつひとつを麻の紐で括っている。
「まーつろ まつろ まーつろや ちまた」
八重が着用しているのは立襟仕立ての丈長の白衣に黒帯、足元は履き口の広い筒状の白足袋。
靴は履かない。
履いてはならない。
「まーつりゃ まつりゃ まつりや こんこん」
髪は結わずにそのまま肩に垂らしている。
初夏というのに、歌を紡ぐ八重の口からは、凍えた日のように白い息が漏れる。
「こんこん ここ こご ごこ ここん」
歩いている場所は、花耆部の最大の特徴とされる渦巻きのような無数の段々畑の中だ。
八重の他に、外に出ている民はいない。虫の音もなければ風も通らない。
不穏な雰囲気に圧倒され、暗がりになにかが潜んでいる、と思わずにはいられなかった。見知らぬ土地に迷い込んでしまったようなよそよそしさもまた、感じられる。
いや、ほんのわずかに時空がズレているかのような──。早くこの得体の知れぬ場所から脱出しなければという焦りが胸に押し寄せてくる。
八重はその焦燥感や淡い恐怖から目を逸らし、一歩一歩進む。
見張りか、護衛か、気がつけば、虎の黒葦が横を歩いていた。
「まーつろ まつろ まつろえ まにま」
段々畑の中をゆく八重の前方には、錆びた太刀を手にさげた堕つ神の『びひん様』がいる。
上半身は裸で、下半身には短めの裳のようなものを穿いている。靴は、ない。全身は黒い瘴気に覆われており、それが薄まったときのみ、容姿をはっきりと確認できる。頭頂部、胸、腹、腰、両手足の計八箇所に、人面瘡のごとく険しい顔が浮かんでいる。それ以外にも小さな獣面が全身にいくつも浮き出ている。背中には、翼のように左右に無数の腕が生えている。
──奇祭〈廻坂廻り〉とは、堕つ神を追い立てる祭事である。始まりは百年ほど前だという。
日本で行われていた追儺のような儀式なのではないかと八重は考えている。
年に一度、穢れをまき散らしながら花耆部の地に現れるこの堕つ神びひん様を、歌で追う。堕つ神とは、人に害をもたらし、山河を枯らす悪神をさす。
花耆部は、というよりこの世界には、どこの地も、これと決まった国教が存在しない。
宗教的概念がそもそもないのかといえば、そのあたりの事情は少し複雑で、たとえば自然や呪物への信仰なら当たり前のように民の心にある。かつての八重には夢物語かマジックとしか思えない超常現象が、ここには日常的に溢れている。神通力もそのひとつだ。
生活レベルはガスや電気が使われる前の日本……明治どころか江戸時代くらいまで遡りそうなのに、このファンタジックな神通力が様々な場面で活用され、文明を発達させている。
そして、怪奇現象すら、よくある話として受け入れられている。
このびひん様だって皆にひどく恐れられているけれども、存在自体は認められているのだ。霊感の有無は関係がない。山があれば谷があり、人がいるなら霊もいる。そんなおおらかな考えがここにはある。
びひん様の通ったあとには黒油のような穢れが落ちているので、紐で括った枇杷をそのそばに生えている木の枝にかけて清めていく。こちらの世界の枇杷は、前の世のものより大きい。
〈廻坂廻り〉には、いくつかの決まり事がある。
びひん様が振り向いたときには、歌ってはいけない。
動いてもいけない。
息もしてはいけない。
びひん様に触れてはいけない。
声をかけてはいけない。
追う間、長く目を離してはいけない。
びひん様が花耆部の盆地を一巡りし終えるまで、提灯の明かりを消してはいけない。
これらの決まり事を破った場合、使者がどうなるのかはわからない。
なぜなら、禁を犯した使者はその夜のうちに行方不明になる。そして二度と戻ってこない。
もともとこの堕つ神に名はなかった。オツさま──堕つ様、と呼ばれていた程度だ。
だが昔々、花耆部に活現した、とある洞児が、オツさまの名は『びひん──美嬪』であると言い当てたのだとか。
びひん様が生じる場所は、なんの因果か、幼い頃に八重が貪った腐りかけの石榴もどきの実がなる一帯の近くだ。あのときに八重がもう少しがんばって進んでいれば、花耆部を見つけられただろう。
八重が石榴もどきを食べて気絶したあの場所には、朱色の柱が地面に突き刺さっている。
いまはもう風化を受けて読めないが、柱の表面に『美嬪』と刻まれていたのだという。
とするならこの文字こそが、そこに生じる堕つ神の本質を示す名であろうと民は考えた。しかし花耆部の民が日常生活で使うのは特殊文字──縄文文字のようなもの──なので、漢字を読める者がいなかった。比較的前世の記憶を長く維持していた洞児の出現により、ずっと謎のままだったその文字をようやく解読するに至ったらしい。
字面や文字の意味からして、堕つ神の正体は美しい女だったに違いない。だがなんらかの理由で穢れ、堕ちてしまったのだろう。文字を読解した洞児はそう推測したと聞く。
──八重は、そこからさらに、もしかしたらという仮説を立てている。
あそこの場所に突き刺さっていた柱はおそらく鳥居の残骸で、びひん様の正体はかつてその神社に祭られていた女神ではないだろうか。
次元の異なるこちらに鳥居や社ごと流されてきたか、あるいは気の遠くなるほどの年月がすぎて管理する者も絶え、そのまま打ち捨てられてしまったか。そして社が崩壊した結果、奉じられていた祭神が堕ちたのではないか。
八重が〈廻坂廻り〉の使者に選ばれた理由は、その柱のそばで行き倒れていたからに他ならない。花耆部の長の子である操が山中を駆け回って遊んでいた際、地に伏す八重を発見した。救助ののち、こちらの暮らしに慣れるまでは彼らの一族が八重の保護者となってくれた。洞児は大抵、部の長が後見人となる。だから八重は恩ある操たちに逆らえない。
断れぬ役目ではあったものの、決して彼らからつらく当たられているわけではない。操たちは八重を民の一人として受け入れている。
だが八重は、少しだけ操が苦手だ。
操が、八重を苦手と感じていることを上手に隠してくれないからだ。
その戸惑いが八重にも伝わり、いっそうの気まずさを生む。
しかしそれは操だけに限った話ではない。花耆部の民は、他の洞児とどこか違う八重に淡い恐れを抱いている。月日の流れとともに失われるはずの前の世の記憶を八重がいつまでも持ち続けて、年齢に見合わぬ振る舞いをするのがおおよその原因だとはわかっているが、成人女性の意識があるのに無邪気な幼児の演技をするのはさすがに恥ずかしい。
それにしても、と八重は思う。
八重が〈廻坂廻り〉の使者となって十年近くになるが、気のせいでなければ、びひん様は年々衰えてきていないだろうか?
「地や 地や 天地や」
八重は歌いながら──呪を唱えながら、横を歩く黒葦の存在を意識する。びひん様を追い払うまでは目を離してはならぬため、その、ざ、ざ、という足音に集中する。
「祭ろ 祭ろ 祭ろや 岐」
びひん様の変化も謎だが、黒葦の存在も奇怪の一言に尽きる。
はじめて〈廻坂廻り〉の使者となったときのことを八重は思い出す。その頃のびひん様はいま以上に化け物めいていた。獣のように四足歩行で、太刀を口に咥えていた。身を包む瘴気はむわりと濃く、離れた場所にいても息苦しさを感じるほどだった。瘴気が炎のように揺らめいて薄まったとき、身体に浮き出る人面瘡が見て取れた。そのすべてが鬼の顔をしていた。翼のごとく背中に生えている無数の腕はうぞうぞと蠢いており、おぞましさしか感じなかった。
いくら精神は成人済みといっても、多少は肉体年齢に引っぱられることもある。
当時の八重はびひん様の想像する以上の化け物っぷりに恐れおののき、提灯から手を離してその場にへたり込んだ。すると先を歩いていたびひん様が振り向き、濃厚な怒気をまとって八重のほうへ近づいてきた。殺されると青ざめた直後、黒葦がどこからともなくやってきて、「早く立て」とせっつくように八重の腕を容赦なく噛んだ。
自分の腕から滴る血を見て八重は我に返り、立ち上がった。
──いまでもあのときの傷跡がうっすらと腕に残っている。これは戒めの跡だ。恐怖に負ければ死んでしまう。そういう恐ろしい側面を隠し持つ世界であることを忘れるなという戒め。
「祭りゃ 祭りゃ 祭りや 今々」
衰弱した雰囲気のびひん様とは逆に、黒葦のほうは姿がはっきりしてきたように思う。
黒葦も最初は濃霧のような瘴気をまとっていた。目も濁った蜂蜜のような暗い色合いで、憎悪に満ちていた。なぜ八重を助けてくれたのかは知らないが、少なくとも好意による行為ではないだろうことは察せられる。八重が歌をとちるたび、黒葦は脅すように牙を剥いて唸った。
「今々 此々 悟々 児々 古今」
いまだって別段、仲良しこよしの関係ではない。ただ、はじめの頃のように脅されたり噛み付かれたりされることはなくなった。瞳の濁りも消えたし、瘴気も拭い取られている。毛並みだって、八重が時々梳かしてやるからもっふりふわふわだ。
……仲良しこよしではないが、八重はこの素っ気ない黒葦にきっと心を救われている。
前の世の記憶に助けられる場面は多かったが、その一方で疎外感も強かった。年齢に見合わない知性は周囲の者を混乱させる。
大人としての意識が邪魔をして、親代わりの長たちにもろくに甘えることができなかったように思う。八重は十歳をすぎたあたりで自活する道を選んだ。自分の異端ぶりを皆の目から少しでも隠したくてしかたがなかった。八重の魂はすでにこちらの世の存在だとしっかり認識している。前の人生の故郷は懐かしいが、だからといって帰りたいとは思わない。
いまは確かにここが八重の故郷だ。
(まだ完全にはこちらの世界を受け入れられていないのに、その部分は揺らがない)
長の庇護下から飛び出そうとする八重を引き止める者はいなかった。自分の意志で一人暮らしを望んだくせに、勝手に見放された気になり、胸が痛くなったことをよく覚えている。
マイペースに出現する黒葦は、八重が唯一気をつかわなくてすむ相手だ。だから、その正体はきっとろくなものではないとどこかで悟りつつも黒葦を拒めないでいる。
「祭ろ 祭ろ 祭ろエ 隨」
──そんなふうにぼんやりと追憶に浸っていたのが災いしたか。
ふと瞬きしたとき、びひん様が立ち止まっていることに八重は気づいた。慌てて口を閉ざし、動きをとめる。息も殺す。なんだか「だるまさんがころんだ」でもしているようだと思う。
(もう鳥居のところまで来ていたのか)
びひん様を例の朱色の柱のもとまで追いやれば、それで〈廻坂廻り〉は終了だ。
ここで少し待てば、すうっと溶けるようにびひん様の姿が消えるはずだった。
ところが今年は様子が違った。振り向いたびひん様が八重のほうへ近づいてくる。
八重はぎょっとし、目を泳がせた。
どうしてだ。今日は歌も間違わなかったし、提灯の火も消えていない。
びひん様はこちらへ接近すると、太刀を鞘から抜いた。その太刀は鞘ばかりか刀身までも黒曜石のように黒かった。
まさかと愕然する八重に向かって、びひん様は太刀を振り上げる。
悲鳴を上げる余裕もなかった。びひん様の行動が唐突すぎて身動きすらできない。
頭上に振り下ろされる刃を、八重は瞬きも忘れて見つめた。
(はあ!? ちょっと待って、なんっ──)
斬り捨てられる。恐怖とともにそう確信したが、びひん様の刃は八重ではなく、横にいた黒葦を叩き斬った。
(なんで!?)
次の瞬間、黒葦の身から瘴気が迸り、広がって、荒波のように八重を襲った。視界が真っ黒に染まる。口や鼻や目から瘴気が入り込み、自分の肉体が闇に溶かされたような心地になる。
肉体どころか魂さえ溶かされる。八重はそう恐れた。
そうして、最後まで悲鳴ひとつ上げることができぬままに八重は意識を失った。
──で、目覚めれば、なぜか八重は自分の住処であるウイスキーハウスに戻っていた。
がばっと飛び起きたあと、しばらくの間夢うつつの状態で室内を見回す。赤茶色の壁のタイル、木製の棚に箪笥。閉められた折れ戸。居間としても使っているこの場所には三日月形のハンモックがあるけれど、八重はそこではなく床の織物の上に直接寝ていたようだ。
「……って、私はなんで見覚えのあるこの黒太刀を抱えて寝ているんだ」
八重は腕の中にあるものを見下ろして愕然とした。
夢だと思いたいが、びひん様が所持していた黒太刀がここにある。全体の長さは約一メートル。刀身部分はわずかに反りが見られるが、鞘から抜く勇気はない。獣と花の意匠と思しき鍔に柄頭、それと鞘の装飾部分は瑠璃の色をしている。
(なんだこの、持っているだけで呪われそうな威圧感たっぷりの剣。なんで錆も消えてるの)
びひん様の手から逃れられたので錆が落ちたとでもいうのか。
八重は、その太刀が視界に入らないよう、近くにあった座布団を引き寄せて、無理やりにくるりと包んだ。……ほとんどはみ出ているけれども、隠さないよりはましだ。
(一刻も早く長に報告すべきじゃない? これ)
だがどう説明すればいいのだろう。昨夜の奇祭で追い回したびひん様がいきなり黒葦様を斬りました。その後私はびひん様の太刀を知らない間に持ち帰っていました、しかしいつ住処に戻ってきたのかさっぱり記憶にありません──。
(だめだ。正気の沙汰じゃない。信じてもらえそうにない)
八重は心から思った。ただでさえ不可解なうろこと思われている節があるのに、これが公表されたらますます皆に遠巻きにされる。
恐れと焦りを静めようと、八重が深く息を吐き出したとき、黒太刀がいきなりガタガタと揺れ始めた。
「なっ、なに!? 怖い!」
仰け反る八重の前で、黒太刀が座布団の中から転がり出てくる。
そして、シン……と沈黙し、動かなくなった。
(なんなのこの剣。おかしい)
震えながらもう一度、座布団の中に隠すと、今度は先ほどよりも腹立たしげにガタガタと動き出す。座布団を蹴散らすようにして、ガタンッと八重の目の前に転がってきた。
座布団の中に隠されるのは不服であるという主張が痛いほどに伝わってくる。
「意思を持つ剣とか間違いなく呪いのアイテムじゃんか……、うぇっ! ガタガタ鳴るのやめてくれる!? 怖い怖い怖い!」
この黒太刀、主張が激しい!
「とりあえずどうすればいいの。いや、落ち着け、落ち着くんだ……。私は教えられた通りに奇祭に挑んだだけでなにも悪くない。いますぐ長のところに剣を持っていこう、それがいい──って、だからもうガタガタやめて! うわっ、ちょっなに!? 『うるせえ俺を余所に預けたらおまえを一生呪うわ』っていう脅しの気配をめちゃくちゃ感じるんだけど!?」
その通りだよ、と肯定するように黒太刀は静かになった。
しばらく戦々恐々と見下ろし、八重は勇気を出して口を開く。
「ごめんなさい、私、太刀とは同居できない体質だからここにおまえを置いておけないんだ……バイブレーションすごいな!? 本当にやめて怖い!」
座ったまま後退する八重のほうに、黒太刀はガタガタと音を立てながら迫ってくる。そして目の前でぴたりと動きをとめた。
これほど強烈に自己主張をする剣なんて見たことがない。八重が普段料理に使っているナイフを見習ってほしい。ひとりでにガタガタと揺れたりしない。今度丁寧に研いであげよう。
「えー……と、その。あなたはびひん様の剣で間違いないですか」
八重は自分を抱きしめながら震え声で尋ねた。
が、剣は反応しない。黒太刀相手にあらたまった口調で語りかける自分の姿を客観的に見たら、ただのやばい人でしかなかった。
「そうだ、あの朱色の柱のもとに置いてこよう。……え、またガタガタ鳴るってことは、それもだめ!?」
この黒太刀は、なにがあっても他の場所に移動されたくないようだ。
ペットと思って飼うしかないのかと八重は絶望した。どんなにがんばっても愛着を持てそうにない。
私にこれをどうしろと。
八重は、わけのわからない呪いの黒太刀を見つめながら胸中でそう訴えた。