桃井八重には前世の記憶がある。
いや、果たしてこの記憶を前世と判じていいのか、少し迷う。
かつて八重は四国地方のとある小さな町で暮らしていた。十代の後半に進学目的で上京したが、大学卒業と同時に帰郷した。
故郷での就職先は地図情報を扱う堅実な会社だ。
在学中のバイトが地図製作の調査だったので、その縁を頼る形での就職になる。
幸運なことに、生まれ育った地にもバイト先の系列会社が存在した。「帰郷するのだったらそちらでも継続して、うちで働いてみる?」と声をかけてくれた親会社の厚意に甘え、地元で新卒社員として採用してもらった。
そうして八重はお手製の住宅マップを片手に道という道を歩いて歩いて歩き、家という家も片っ端から訪問し──たぶんその地味な調査の途中で事故かなにかに巻き込まれ、死んだのではないかと思う。……のだが、まったくべつの理由かもしれない。
そこらへんの記憶については靄がかかっていて、いまでもわかっていない。
もしかすると病死の可能性もある。それとも過労死……は、ちょっと嫌だな。
死亡理由を突き詰めて考えると切ない気持ちになりそうなので、八重は深追いしないことに決めている。ともかく、気がつけば八重は『此の世』に生まれ直していた。
前の世の記憶が単なる残滓以上に鮮明にあるためか、正直なところ、生まれ変わった事実に対してあまり実感を持てないでいる。『桃井八重』という自我はそのままに、肉体のみが三、四歳の幼児にまで退行したというほうがよほどしっくりくる。
こうした生まれの者を此の世では『うろこ』という。
迂路児。べつの世で生まれ遠回りして還ってきた子、との意味らしい。
八重の感覚でざっくり言うなら、転生した日本人が『うろこ』だ。
こちらにある古書には洞児とも記されている。また、ほらこ、と呼ぶ場合もある。此の世に生じるとき、まるで母体に包まれているかのように、古木に作られた洞の中に現れるからだ。
此の世では、少し珍しいという程度の生まれ方なのだと聞く。前の世に人口の約十パーセント存在する左利きの割合よりやや低いくらいか。
うろこの生誕は、正確には「活現」という言葉を用いる。
洞に活現したうろこは八重以外にも数多く存在する。
ただし普通は、すぎる月日とともに前の世の記憶も朧になる。魂が『此の世』の律に馴染むと、自然と記憶も身体の中から剥がれ落ちる。此の世で生きるのに不要な記憶ということだ。
けれども八重の場合はすでにこちらで十年近くが経過しているが、いまだ前世の記憶がなくならない。
かつての人生と比較して考えたとき、『此の世』──この『亥雲』の国は太古の日本か、あるいは、日本が辿る遠い未来のひとつではないかという疑念が脳裏に浮かぶ。
進化と退化を繰り返して文明は崩壊し、国の形も様変わりした。生物の在り方さえも、これまでの常識の外にある。無慈悲な運命の手で人も獣も道も、すべてがぐちゃぐちゃに攪拌されてしまった。
ここはそういった、不思議こそが日常の、奇怪な世なのだと八重は考えている。
とはいえ、そんなふうに冷静に世の中を受けとめられるようになったのは、活現してしばらく経ち、気持ちが落ち着いてからのことである。
『此の世』に生じた直後なんかはひどいもので、パニックの連続だった。
──あの日、ふと眠りから覚めたかと思えば、八重は古木の洞の中で一人、胎児のように身を丸めていた。
動揺するまま外へ出て、あたりを見回し、さらに愕然とした。
「なんだこれ」
そう呟いて、はっと自分の手を見つめ、より強い驚きに打たれた。
「えっ、なにこれ、私の手?」
勝手に口から漏れた言葉には、色濃い恐怖がまざっていた。
自分の手足がびっくりするほど縮んでいる。どう見ても幼児の手だ。着用中の服も、いつものパジャマ代わりのキャミソールとパンツではなくて、シフォン素材のようなふわふわした手触りの半透明の布一枚のみだった。
「はあ!?」と、八重はたまらず叫んだ。声もまた、幼子のそれに変わっていた。
いったいどうなっているんだ、夢でも見ているのか。そう焦る一方で、八重は確かに「私の魂はこちらの世界に新しく活現されたのか」と正しく理解してもいた。
どちらかの感覚のみであれば、もっと早くこの異界をすんなりと受け入れられていたのかもしれない。しかし前世と今世の意識の両方がまざった結果、もとの記憶や思考のほうに引っぱられる状態になった。生まれたばかりの幼い意識よりも、二十四年分の意識のほうが強くて当然だ。
八重はたちまち恐怖に吞まれ、助けを求めて洞のそばを離れた。その行動はきっと、失敗だった。むやみに動き回らずあの場にじっとしていれば、発達した嗅覚を持つ誰かが八重の活現の気を嗅ぎ取って、迎えに来てくれただろうに。
幼児にまで縮んだ手足の覚束なさが、いっそう理性を打ちのめした。うまく走れない。私の身体どうなっているの。どこに行けばいい。どうやったら家に戻れるの。
混乱しながら深い山中を走り回り、八重はすぐに息も絶え絶えの体に陥った。それはそうだ、いまの自分は三、四歳の無力な幼女でしかない。ろくに整備もされていない山の峠を越える体力なんてあるわけがなかった。足の裏も痛くてたまらない。応急処置として葉っぱを巻き付けたりしたが、その原始的な自分の姿に涙がこみ上げてくる。
「死んでしまう……」
八重は泣きながら気絶して、起きて、歩いて、気絶して、泣いて、という究極のサイクルでその日を乗り切った。
翌朝、猫ほどもある大きな栗鼠が頭の横を駆けていく音で目を覚まし、そのときにやっと、本当に死ぬという実感のようなものが静かに胸にわき上がった。だがその日は恐怖以上に空腹感がつらかった。なにか食べたい、飲みたいという強烈な飢餓が頭の中を支配した。
そろそろ誰か助けに来てくれてもいいんじゃないかとも、ぼんやりと思った。いまの私、か弱い幼子だぞと。
靴さえ履いていない幼女が薄暗い山の中をべそべそと泣きながら這い回っているのに、誰一人として親切な人間が都合よく登場してくれないとか、どうなっているんだ。
「おなかすいた、死ぬ……」
足の裏から血が滲み、痛みで立っていられなくなる。
ゆるやかな斜面をほぼ転がりながらくだった先で、八重は、いい匂いが漂ってくるのに気づいた。甘酸っぱい果実のような匂いだ。
実際は腐臭の甘さだったのだけれども、身がよじれそうなほどの耐え難い空腹が、なけなしの危機感さえも軽く蹴り飛ばしてしまった。
匂いのするほうに必死で這っていき、そこで見つけたのが枝のうねる石榴の木だ。……石榴だと、八重は無理やり思い込むことにした。
石榴の木が密生するその一帯には、なぜか虫や鳥の声がいっさい聞こえなかった。
それに、周辺の古木と比べると、石榴の木はずいぶん低木に見えた。むしろ石榴以外がすべて巨木だった。そのために山中は昼であろうと夕闇のような暗さが漂っていたのだが、石榴の木が連なる向こう側は、いっそう怪しげに沈んで見えた。
危機感が瀕死の状態であっても、さすがに奥側へ踏み入る気にはなれなかった。
八重は、手前側に生えている背の低い石榴の木のほうへにじり寄った。手足は泥塗れになり、細かな傷がいくつもできていた。
その木の横には、恐ろしく太い煤けた朱色の柱が斜めに地面に突き刺さっていた。空から巨人が槍でも投げ付けたかのようだった。
八重は地面に転がっていた石をひとつ拾い、石榴の枝になる果実目掛けて放った。
成人女性の身体のままだったらもっと簡単に果実を手に入れられただろう。だがこの頼りなく薄っぺらい身体では、全力でジャンプしたって一番低い枝にすら手が届かない。
何度も石を投げ付けて腕が痺れ始めた頃、やっと果実をひとつ落とすことに成功した。
それを両手で大事に拾うと、八重は声を上げて泣いた。
「なにか食べなきゃ、餓死する……。でも……食べても死にそう……」
どう考えたって、この果実は危険だ。
口にした瞬間のたうち回って苦しむ未来しか想像できない。そういうやばさしか感じない。
「なんで生きるか死ぬかの選択を迫られてるの、私……」
皮が簡単に剥けたのは腐っていたからではなく熟し切っていたためだ、中の実が黒く見えるのは周囲に漂う夕闇のような暗さが原因だ、白くて硬い粒がまざっているのも気のせいだ。大丈夫、食べられる。これは食べ物だ、さあいけ──…。
空腹による思考力の低下と、肉体からの「早く栄養をくれ」という切実な欲求が、八重の口を開けさせた。
結論から言うと、まずかった。
腐っている味しかしなかった。それでも食べた。
食べる理由なんてひとつしかなかった。
(生きたい)
種なのか、やけに硬い粒もまざっていたけれど、それすら八重は必死に咀嚼した。飲み込む作業をやめられなかった。頭がおかしくなりそうなほどに「生きたい」と思った。
(まだ生きたい、どうしても……)
また死ぬのは嫌だ。自分の心が、魂が、眠るようにふっと消えてしまうのが怖い。生きたい。八重の全身が血を噴くようにそう叫んでいる。
零れる涙も拭わず一心に食べ続け、やっぱりこれやばいわ、腐っている以前に猛毒だったんじゃないか、と非情な現実をようやく認めたあたりで意識が霞んだ。あ、だめだ、私はここで死ぬんだなと確信した。
そして、次に目を開けたときには、八重は他者の手で救出されていた。
「八重先生、ちょっといいかな」
そう声をかけられたのは、八重が馬酔木に『名付け』の呪を施そうとしたときだった。
筆はまだ墨壺の中に浸す前だったので、布に包み直してウエストバッグ──腰帯にさげた薄茶色の革袋に戻し、「はい」と笑顔で振り向く。
後ろにいたのはこの花耆部の地を治める首長加達留の息子、操だ。身の丈は六尺以上……百九十センチを超える大男で、くりっとした赤い瞳は快活さよりもどこか頼りなげな子どもっぽさを感じさせる。
いまは初夏、皐月の頃だ。彼が着用中の衣も季節に合わせて薄手である。基本の形は男女とも変わらない。丈長の袍に帯、ズボン、革靴。八重も操と似た恰好をしている。白地の帯に藍色の袍。襟や袖口には蔓草の模様。彼のほうは繊細な刺繍が入った薄緑の上衣の腰を菜の花色の帯で締めている。新緑が匂い立つような、若々しさを感じる組み合わせだ。
「作業中すまないね、先生」
「いえ、大丈夫です。そろそろ休もうかと思っていたところなので」
首を横に振って八重が答えると、操は機嫌をうかがうような控えめな微笑を浮かべ、赤茶の短い髪を掻いた。
八重は部の民に「先生」と呼ばれるたび、なんとも言えない気持ちになる。前の世の年齢を無視すれば、いまの八重は十四、五の少女でしかない。操も若いが、二十代半ばにはなっている。
「明日の夜にでも〈廻坂廻り〉をお願いしたい。親父様からの言づてだ」
「ああ……、もう一月が流れましたか。わかりました。すぐに準備しますと加達留様にお伝えください」
八重は操から視線を外して遠くを見遣り、うなずいた。
操は、ほっとしたように微笑んだが、すぐに顔をしかめて「なあ、八重先生」と、緊張した声を聞かせる。彼の憂いを帯びた眼差しは八重の背後を捉えている。
「先生の後ろにまた黒葦様がいるよ」
振り返れば、いつの間にそこにいたのか、大きな虎が八重の背後に座っている。
黒葦は、夜の底からぬらりと出てきたような真っ黒い毛並みの虎である。瞳は向日葵や蒲公英を思わせる明るい黄色。毛並みが黒いので、闇夜に満月が二つ浮かんでいるかのようだ。
「黒葦様は私のことが好きだよねえ。気がつけばそばにいる」
からかいつつ虎の頭をひとつ撫でると、ものすごく嫌そうに鼻の上に皺を寄せて八重を睨み上げてくる。冗談のわからない虎だ。
かわいくないなあ、と黒葦の耳を引っぱったとき、操が真面目な顔をして呟いた。
「いや、本当に八重先生は妖獣に好かれる人だ。怖いくらいに好かれているから、いつか霊魂までもが飴玉のようにしゃぶられるのではないかと心配になる。まあ、先生に長く贄の真似事をさせている俺たちが言えたことじゃないが……」
用件を告げ終えた操がそそくさと去ったあと、八重もまた『名付け』の作業を中断して住処へ戻ることにした。
虎の黒葦が当然のように後ろをついてくる。
八重は黒葦をちらりと見てから、中空に荒波のような稜線を描く山々へ顔を向ける。山頂に霞が棚引いて白く煙る様はまるでそこに長い胴をくねらせた白竜が午睡でもしているかのようで、幽遠という表現がよく似合う。
八重の暮らす花耆部は、連峰たる八弥岳のひとつ、耶木山の谷間に作られた小さな盆地の集落である。
視線を手前のほうへ引き戻せば、耶木山の斜面に、緑も見事な段々畑がうかがえる。畑の間には赤や黄の花が咲く。あれは躑躅、金鳳花。
風が吹き込むこの盆地の底にも田畑が作られていて、それらの溝の横を、地を這う蛇のごとく川が通る。家屋は畑の合間にぽつりぽつりと立つ。
山の斜面に渦のように作られた無数の段々畑は、亥雲国の南方を占める花耆部の大きな特徴のひとつだ。
──国とは呼ぶものの、これは日本でいうところの「何々県」とほぼ変わらぬ規模である。部は、「その何々県にある何々町の集落」に相当する。花耆部の人口は五千程度にとどまる。
亥雲国の周辺にはまたべつの国が存在する。どの国にも自治権を持つ「大乙守」と呼ばれる統治者がいて、その下の部に首長が置かれる。実際に民を守るのは各部を治める首長の一族だ。領土や資源を狙う他国からの干渉を退け、集落を荒らす山賊を討ち、天災の被害を防ぎ、そしてあちらこちらに生じる邪霊を祓い清めるための様々な『奇祭』を行う。厄を振り撒く「堕つ神」を鎮める儀式などもこれに該当する。
操が先ほど八重に言った〈廻坂廻り〉もまた、奇祭のひとつだ。
その内容は、祭りの場に指定された一画を、提灯を持って練り歩く。
言葉にすればこれだけである。
が、事はそう簡単ではない。
(廻坂廻りって、私が任されている奇祭の中でもダントツの怖さがある)
花耆部の地に限らず、他国でも奇祭は頻繁に執り行われている。
思い返せば日本だって全国的に多様な行事が存在したが、こちらの祭りとは性質が異なる。花耆部の祭りは、夜店が出て花火が上がって、といった皆で楽しめる内容ではない。
「黒葦様は、廻坂廻りがどんな由来を持つ奇祭なのか、ご存じじゃないの? 私は堕つ神を宥める祭りだとしか聞いていないんだよね」
八重は、道の途中で発見した枇杷の実をもぎながら、黒葦を見下ろした。
この黒葦は、何年も前に、八重がはじめて〈廻坂廻り〉を行ったとき出会った獣だ。それ以来、なぜかふとしたときに姿を現して八重の周囲をうろつくようになった。
単なるあやかしにすぎぬのか、それとも神格を持つ獣……神使の類いなのかは十年近く経ったいまも判然としない。そういえば、はじめは魔物のような不気味さと怖さをまとっていた。それが年を重ねるごとに少しずつ薄れ、理性も取り戻していったような気がする。
「黒葦様が人語を話せたらなあ……ちゃんと意思の疎通ができたのに」
八重は残念に思いながら、風に乱された長い髪を片手で押さえる。顔にばさばさとかかるのが鬱陶しい。組紐でまとめてくればよかったと後悔する。
腰までの長さの黒髪は、雨の日には湿気でぶわっと膨らむし、乾燥した日もやはり増えるわかめみたいにもさもさと広がるので本当に困る。おいおい少しは落ち着けよと言いたくなる。
「会話がしたいですよ、黒葦様。ちょっと人語の練習をしてみない?」
がんばれ、とにこやかに笑って拳を握ると、黒葦から冷たい目を向けられた。
この大きな虎は人間並みにすこぶる知能が高い。話せずとも、八重の言葉をきちんと理解している節がある。
「でもなあ……、黒葦様は話したくても話せないっていうより、おまえとの会話が面倒だから話さないっていうスタンスに見えるよ。やるせないわ……。もっと積極的に私に懐いて」
愛想皆無の黒葦相手に益体もない話をするうち、八重は、自身の住処に到着した。
八重の家は、段々畑の中間に立っている。
外観は、蔓草に覆われた、苔生すウイスキーの瓶だ。
なにかの比喩ではない。
一軒家ほどにも巨大化した、某有名な日本製ウイスキーの瓶で間違いない。ボトル部分は楕円形のような平べったいラインで、縦長。前の世の八重もこのウイスキーを時々美味しくいただいていた。好みのつまみは野菜スティックとブルーチーズだった。
この世界にもチーズや麦酒は存在するが、八重の記憶にあるものとはかなり味が違う。
(ファンタジックな眺めだよなあ……)
心の中で感嘆すると同時に、かすかに寂しさも抱く。自分にとってはかつての世にあるもののほうが馴染み深い。その感覚がいっこうに消えない。
(でもこっちって、完全に異次元の世界というわけでもない)
八重が比較的早く「この異界は太古の日本か、あるいは日本が辿る遠い未来のひとつじゃないか」と推測したのは、こういった『ファンタジックな眺めの物』の存在が関係している。
花耆部の地には、あちこちにビール瓶やら食器やら、車やら、電柱やら──前の世で日常的に目にしていた様々な物が打ち捨てられている。
こちらではそれらを総じて『奇物』と呼ぶ。
そしてその奇物の大半が、恐竜かというほどに異様に巨大化している。
巨大化の程度は物によって差が見られるが、そこにどんな法則性があるのかは不明だ。
花耆部はとくに奇物の数が多い地だと言われている。
だから民の一部、とりわけ八重のようにうろことして生まれた者は、「ほっほうこれはなかなか便利ですね」と、内部が空洞になっている『奇物』をありがたく家や倉庫代わりに使わせてもらっている。以前の人生で馴染みのある物が大半なので、他の民のようにそれらを警戒することもない。
八重は亥雲以外の国を訪れたことはないが、おそらくは全国各地にこうした遺跡の類いが見られるはずだ。
──もしかしたらここは太古の日本でもなく、遠い未来のひとつですらないのかも、と八重はこれまでの自分の推測を否定するような考えをふと抱く。
ここは完全に次元の異なる世界だけれども、たとえば海や川が遠く離れたところから不法投棄されたゴミを岸へ運んでくるように、日本にあった物がなにかの拍子に境界を越えて、こちらへ流れ込んできたという可能性もゼロではない。
(どっちでもいいか。……もとの世界へ帰れるわけでもないし)
どんなに懐かしくとも、そこらへんの諦めはついている。感覚の部分で理解している。
深く息を吐き出す八重を、黒葦が怪訝そうに見上げた。
八重が住居にと定めたこの「ウイスキーハウス」はガラス製で、注ぎ口となる上部は大きく欠けているが、そこからボトルの半ばほどまでが蔓草にびっしりと覆われている。また、ボトル部分も年月の経過を証明するようにひびや細かな傷が走っているため、白く濁り、外から覗かれることはまずない。割れる心配もしなくていいだろう。これだけ巨大化しているのだ、当然厚みも増している。強化ガラス並みの耐衝撃性能があるに違いない。欠けている注ぎ口部分には石材を詰め込んでいる。
八重は扉を開けて中へ入った。穴のあいていた箇所を加工して木戸を取り付けている。
楕円形のボトルの中なので、間取りもその形。二十畳ほどはあるだろうか。
全面に手作りのタイルを張り付けた、ゆるく曲線を描く壁、大型の木製棚に箪笥。床は、平らになるように板をわたしている。中央あたりに分厚い織物を敷いていて、三日月形のハンモックを置き、それをベッド代わりにしている。
左端に取り付けた折れ戸の向こうには、手押しポンプのついた小さな井戸と竃がある。そちら側は底部分のガラスをくり貫いた状態で板タイルを敷いているため、居間側より一段低くなっている。厠と風呂場はさらにその向こう側。仕切りの奥にある。
黒葦も我が家のように遠慮なく室内に入り、先日編み上げたばかりの座布団に寝そべる。
「待って黒葦様。肉球……足の裏の泥を落として」
八重は壁際の木製棚から手ぬぐいを取り出し、嫌がる黒葦の前肢を掴んで泥を拭った。表面は固く、それでいてやわらかさのある魅惑の肉球だ。さりげなくそこをつついていたら、腹を立てた黒葦に反対側の肢で腕をばしりと叩かれた。
「疲れた私にちょっとアニマルセラピーのサービスをしてくださいよ。お昼抜いて作業してたんだから」
かつての会社にいたセクハラ上司のような発言をしながらも、八重は本気で空腹を覚えたので、早い夕食の準備に取りかかることにした。
「あー……、しまった。卵も腸詰めの肉も切らしてるや……」
八重は折れ戸を開けて、竃のそばにある収納庫の中を確かめ、顔をしかめた。黒葦もついてきて、八重の横から収納庫を覗き込む。収納庫は床下に設けられており、これが冷蔵庫代わりになっている。
帰宅途中にもいできた枇杷をそこに入れながら、八重はぼやいた。
「電気やガスが使えないのはきついよねえ……」
食料品が腐らぬよう、よく冷えた、ペーパーウエイトのような丸い水晶を二つ、三つ、収納庫に入れている。数日しか効果が持続しないので、代金を支払って、またこれを冷やしてもらう必要がある。……面倒だ、明日でいいか。
「買い物には行かなきゃだな。黒葦様も一緒に行こ」
荷物運びさせようと愛想良く笑いかけたら、疑わしげな目付きをされたが、黒葦はおとなしくついてきた。
「贅沢は言わないから、二十四時間対応のコンビニとスーパーとドラッグストアがほしい。できれば家電製品も使えるようになれば……。誰かまじで自転車を開発してくれないかな。でもこっちって鉱物が本当に貴重だからなあ……、技術が磨かれるだけじゃだめな気がする」
贅沢そのものの欲望を口にしつつ、八重は空の籠を持って黒葦とともに再び外へ出た。
こちらの世界にも貨幣が流通している。物々交換も可である。八重の収入源は奇祭関連の他、手編みの織物、刺繍の品の販売と、割合稼いでいるほうだと思う。
なんでも揃う大型スーパーはないが、商人が存在するので、日用品や食料は彼らから購うのが普通だ。が、卵や青果類は個人から直接買う場合も多い。
八重が最初に足を向けたのは、段々畑の下に設けられている行商人用の長屋だ。
ここに日中、余所からやってきた商人が表の戸を開放し、笊や桶に品を並べて民に売り付ける。ちょっとした露店のような雰囲気がある。
視線を巡らせば、長屋を冷やかす民の姿がちらほら見える。黒葦を連れた八重に気づいて皆、ぎょっとする。
一番に声をかけてきたのは、顔見知りの米屋の商人だ。
「八重先生、また黒葦様をお供にしているの?」
「護衛です、護衛」
適当に答える八重に、米屋の商人が苦笑する。
「お米、三椀ください」
こちらでは、一合二合という単位ではなく「椀」で買う。一椀が、二合分、つまり約三百グラム。朝昼晩と一杯ずつ食べた場合、三、四日ほど持つ量だ。
「あーい」と商人が返事をし、梯子をのぼって巨大桶から米を柄杓で掬う。この桶は奇物ではないけれども、とても大きい。大人の背丈ほどもある。
隣の麦屋、酒屋も、この大きな桶をどんと長屋に並べている。あとで麦も買おう。こちらの世は、白米よりもパンのほうがよく食べられている。
麦屋のほうに向かって、「五椀ください」と指で合図しておく。そちらの商人が、了解というようににっこりする。
「卵、卵がございます。……八重先生、卵いらん?」
通りをやってきたのは、巨躯の卵売り。ちょうどいいところに来た。
「六つください」
卵売りはまた独特で、店を持たない。布無しの大傘を担いでおり、親骨の露先に卵入りの籠をずらっとさげている。
(黒葦様が一緒だと、おまけしてくれることが多いんだよね……!)
やったぜと思いながら、八重は重くなってきた籠を黒葦の背に載せて長屋通りを一巡りした。
肉と野菜も手に入れ、ほしいものは大体揃ったので、ウイスキーハウスへの道を辿る。
「ムクロジの実も、なくなりそうだったんだ」
八重は途中で足をとめ、呟いた。乾燥させたムクロジの実は、石鹸代わりになる。いまの時季は実が採れないので、商人から購うしかない。それとも小豆で代用しようか……。
「洗濯機の偉大さを思い知る……」
こちらの世界は、四季に合わせて人が生活しなければならない。毎日、誰もに、なにかしらの仕事がある。畑を耕す、井戸を掘る、家畜を飼う、木々を切り倒す、機を織る……。
「生きているんだなあ、私」
どこか不思議な気持ちで独白する八重の膝に、黒葦が軽く頭を押し付けてきた。
早く帰ろうの合図だろうか。もしもそうなら、嬉しい気がする。