「魔獣密猟取締官になったんだけど、保護した魔獣に喰われそうです。 飛野猶」
『もふもふドラゴン』
魔獣密猟取締官として働くタケトとシャンテは新たな仕事を任されることになった。それは、王都から遠く離れたルービリアという地方都市で、違法に出回っている魔獣素材の調査をすることだった。
ブランケンハイム商会という大商会のルービリア支部が、ここ最近、絶滅が危惧されている希少魔獣の毛皮や牙の売買をしているとの情報を手に入れたのだ。ブランケンハイム商会は王都の大通りに
タケトたちはいつものように黒いフェンリルのウルに乗って、王都からルービリアへと向かう。とはいえ、フェンリルは大きな犬型魔獣。馬車と比べると格段に脚が速く、また家ほどもある大きな体躯に驚く通行人も多いため、街道を走ると他の通行人の迷惑になってしまうことがある。そのためいつも、街道に沿いつつも道から少し離れて走ることが多かった。
王都を出て数日経ったある日。いつものように街道を横目に見ながら草原を走っているときのことだった。
「どうしたんだろう、あれ」
後ろに乗っている銀髪の少女シャンテが、街道から離れた草原の一角を指さして言った。
「え? 何?」
一瞬タケトの目の端にも彼女が言っているであろう何かが映りはしたが、ウルの足が速くてあっという間に視界の外に過ぎ去ってしまった。
「今ね、馬車みたいなのが見えたの。でも、なんだか様子がおかしくて」
シャンテの言葉には心配する気配が滲む。さらに、タケトの肩に掴まっていた子豚が後ろ脚をバタバタさせながら喚きだした。
「吾輩も見たであります。馬車みたいなのが、横倒しになってたですよ? 戻って確かめてみるです!」
その子豚には、よく見ると小さな角とコウモリのような羽が生えている。人語を喋ることからしても単なる子豚のはずもなく、何らかの魔獣であることは明らかなのだが、コレが何なのかタケト自身にもさっぱりわからない。ただ成り行きで少し前からタケトたちの家で居候している、小生意気なやつなのだ。
「ああ、もう。わかったよ。戻ればいいんだろ、戻れば。だから、
フェンリルのウルに声をかけると、風のように疾走していたウルはふわりと音もたてずに立ち止まった。そして、タケトたちを乗せたままゆっくりと方向を変えると、いま来た道を戻りだす。
少し戻るとすぐに、シャンテとトン吉が見たという馬車が見えてきた。
そこは街道から外れた草原の真っただ中。しかも、近づいてわかったのだが、どうやら荷台が横倒しになっているようだ。
辺りには倒れた拍子に散かったであろう、荷物らしきものもあちこちに散乱している。
一瞬盗賊にでも襲われたのかとヒヤッとしたが、荷台から外れた馬が二頭のんびりと草を食んでいるのを見るとそんな急迫した事態ではなさそうだ。
ぐるっと荷台を遠巻きにして周ってみたら、横倒しになった荷台の裏側に寄り掛かるようにして一人の老爺が座り込んで水筒の中身をあおっていた。
タケトはウルから降りると、彼の前に歩み寄る。
「大丈夫ですか? 荷台、直すの手伝いましょうか?」
老爺はタケトに目を留め、水筒から口を外してにっこりと笑顔を向けてくる。白い口ひげを蓄え、ジャケットに身を包んだ上品そうな
「おお。それはどうにもありがたい。私一人ではビクともしませんで、途方に暮れていたところでして。ただ、古い荷馬車でしてな。頑丈なつくりをしているから、二人がかりでも起き上がらせられるかどうか」
「大丈夫ですよ。危ないので、ちょっと離れておいてくださいね。ウル!」
そう呼ぶと、荷台の向こう側ですっかり昼寝する態勢になっていたウルがピクンと耳を立てて顔を上げた。
「ウル。この荷台をひっぱり起してほしいんだ」
のっそり起き上がったウルは、立ちあがるとちょっとした家くらいの大きさがある。ウルは横倒しになった荷台に近づき、その端を大きな口で噛んで自分のほうに引っ張り起す。
それだけで荷台は簡単に元通り起き上がった。
「ほぉ……すごい。これは、フェンリルですかな。いやあ、ずいぶんりっぱなフェンリルだ」
老爺は驚いて目を見張る。
フェンリルは森の守護者と呼ばれる魔獣だ。本来は深い森の奥に住む種族なのだけど、ウルはシャンテの幼馴染。しかもまだ子どもだ。そんでもって、シャンテの家の納屋を間借りしているタケトのルームメイトでもある。
「ああ、相棒なんです。俺のじゃなくて、彼女のですけどね」
タケトが視線を向けた先には、散らばった荷物を拾って腕いっぱいに抱え、こちらに小走りに駆けてくるシャンテの姿があった。彼女は銀髪のさらさらとした髪を弾ませてこちらにやってくる。
「これ、落ちてたもの。まだ全部じゃないからまた拾ってきますね」
シャンテは集めてきた荷物を馬車の荷台に置く。
「あ、俺も手伝うよ」
「いえいえ、これは私の荷物ですから、私が」
結局三人で散らばった荷物を集めて、最後は草を食んでいた馬を荷台のところに連れ戻し、馬具で固定したら荷馬車は元通り。
「いやぁ、ありがとうございます。本当に、なんとお礼をしていいやら」
老爺は恐縮した様子で、タケトとシャンテの手を握って何度も礼を言ってくれた。
「いえ、旅する者同士、お互い様ですし」
タケトたちも仕事柄遠方に行くことは多い。その途中でトラブルに見舞われて地元の人に助けてもらうこともたびたびあるので、こういうのは本当にお互い様なのだ。
しかし老爺はがっしりタケトとシャンテの手を握ったままなかなか離そうとしない。
「私は王都で、店をやっております。ラルド・ブランケンハイムという者です。いつか王都にいらっしゃった際にはぜひうちの店をお訪ねください」
ブランケンハイム、という名に聞き覚えがあった。しかしタケトは何も気づかないふりをして、にこやかに笑顔を返す。
「俺はタケト・ヒムカイです。彼女は、シャンテ。俺たちは王宮で魔獣密猟取締官をしています。それにしても、失礼ですがどこへ向かってらっしゃったんですか? ここは街道から外れていますし」
いろいろと気になることは多かったのだが、とりあえず一番気になっていたそれを尋ねてみた。すると、ラルドは困ったように白髪の頭を掻く。
「いやぁ、実は行きたいところがありましてね。そこは人里から離れた場所なので、道などないんですよ」
道なき道を、身なりの良いご老人が一人旅?
「ちょ、ちょっと、どこへ向かうのか教えてもらってもいいですか?」
肩かけカバンから地図を取り出して広げて見せた。すると、ラルドは一瞬しぶるそぶりを見せたものの、最終的に彼が指さした目的地は、人里どころか山を越えたさらにその向こうにある未開拓の土地だった。
直線距離で順調に行ったとしても、ここからさらに数日はかかりそう。
こんな身なりのいいご老人が一人で行く場所とは到底思えなかった。
心配になったのか一緒に地図をのぞき込んでいたシャンテも、「どうしよう」という目で見てくる。うん、どうしよう。率直に言えば、このご老人が一人でここまで行って生きて王都まで帰ってこれる気がまったくしない。
「……失礼かとは思うんですが、やめておいた方がいいんじゃ……。今ならまだ、街道もすぐそこなので引き返すのも簡単だけど、これ以上進むと戻ってこれなくなるかもしれませんよ?」
なるべく失礼にならないように言葉を選んで忠告したけれど、そんなことはラルド自身もわかっていたのだろう。はぁ、と深くて重いため息が彼の口から洩れる。
「家族や家の者たちにも、さんざん反対されたのです。でも、私はどうしても死ぬ前に一度行きたくて。……こっそり家を抜け出してきたのですよ」
なんと、ラルドは家出老爺だったのだ。
「それはきっと、おうちの方たちも皆さんご心配されて、探されてるんじゃないでしょうか」
シャンテが心配そうに眉を寄せて彼に言う。
しかしラルドはゆるゆると頭を振った。
「それでも、長年夢に見た機会がようやく訪れたんです。家の者も私がいないことに気づいて、追ってきているかもしれません。だからこそ、ここでのんびりしている暇はないんです。タケトさん、シャンテさん。本当にありがとうございました」
ラルドは深く丁寧に頭をさげると、荷馬車の御者台へのぼった。そしてそのまま、山の麓にうっそうと茂る森の方へと荷馬車を走らせて行ってしまった。
何としてもその目的地に向かうつもりのようだ。
タケトとシャンテはどちらともなく顔を見合わせると、お互い困ってしまって苦笑を交し合う。
「放っておくわけにはいかないよなぁ」
「そうね」
そう言って、シャンテはクスリと笑った。タケトがやろうとしていることは、すっかり彼女にお見通しのようだ。そして、それに同意してくれるのが有難い。
本来のタケトたちの目的地には到着がかなり遅れてしまうことになるが、まぁ、仕方ないだろう。目の前で死ぬかもしれない危険な旅に特攻している老人を見捨てられるはずもないもんな、と一応自分に言い訳をしてタケトはウルを呼んだ。
すぐさまシャンテとともにウルに乗り込むと、先に行ってしまったラルドの荷馬車を追いかける。
トン吉は、タケトの頭にしがみつくのに疲れたのか、肩掛けカバンにもそもそと入って行った。きっと昼寝するつもりなんだろう。
ウルは荷馬車よりも速いため、あっという間に追いついてしまった。
「俺たちも同行します!」
追いついてきたタケトたちを見て、ラルドは驚いたようにぽかんと口を開ける。そして、ゆるゆると頭を横に振った。
「いや、そんな……危ないですし、ここからもまだかなり距離がある。そこまでご面倒かけるわけにはいきません」
「でしたら、力づくでもアナタを王都へ連れ帰ります。俺も、危険な旅を一人でしようとしているアナタを放ってなんておけないですから!」
そう伝えると、ラルドは手綱を握ったまま何かを考えこんでいるようだった。その間も荷馬車とウルは草原を並走している。
しばらくしてラルドは顔を上げると、こちらに目を向けて弱ったように苦笑した。
「わかりました。私も正直なところ、アナタがたが同行してくれるなら心強い。それに……ここで出会えたことは運命なのかもしれません。アナタがたは魔獣密猟取締官、といいましたよね」
「はい」
その返事にラルドは満足そうにうなずくと、視線を前へ移して遠くを見るような目をする。
「私ももうこの歳だ。生い先長くないのはわかっとります。ですから、アナタがたにも一緒にあそこを見てほしい。そして、どうかあの地を守ってほしいのです」
「……はい?」
意味が分からずきょとんとするタケトに、ラルドはフフフと笑う。
「見たらわかります。見たら……」
それから数日間。
ウルとラルドの荷馬車は、道なき道をひた走った。
日が出ている間は移動を続け、日が暮れると適当な場所で野宿する。
岩の多い山道を超え、草原を渡り、川を超えて。
たどり着いた先は深い森の中だった。
「ああ、この辺りだ。間違いない……」
ラルドに先導されて着いた小高い崖の上。
そこから、崖下に広がる深く濃い森の緑が一面に見渡せた。
そして。
「……あ!」
その光景を目にした瞬間、タケトはウルから降りて崖の先端まで駆けだしていた。
シャンテもすぐあとについてくる。
崖のはじ、あと一歩で下に落っこちるという先端までくると、その下に広がる光景にタケトは言葉を失った。
崖の下は森が途切れていて、広場のようになっている。
そこに、大きな生き物たちが群れていた。
小山ほどある巨体に、背中に大きな羽の生えた生き物たち。
「え……え、ドラゴン!?」
「でも、なんだかフワフワしててかわいいね」
と、シャンテ。
そうなのだ。姿は確かにドラゴンなのだが、全身がふわふわとした長い毛に覆われていた。羽の先までフワフワだ。毛色は全体的に淡い色彩のモノが多く、薄緑色や、薄桃色のモノ、白に近いモノなど様々だ。
タケト自身、ドラゴンの実物を見たのはほぼ初めてだった。一度、この世界に転移してくる前に乗っていた飛行機の窓からそれらしきものを見たことがあったけれど、それっきり。
それでも、書物や絵画に描かれたドラゴンはどれも爬虫類っぽく鱗があるものばかりだったので、こんなふわふわしたドラゴンなんて想像すらしたことがなかった。
そのとき、肩からさげていたカバンの蓋がぴょこっと開いて、中からトン吉が顔を出した。
「あれは、ファードラゴンであります。吾輩も、こんな南の地で見たのは初めてであります」
「ファードラゴン?」
トン吉は勝手にカバンから出てくると、タケトの腕をもぞもぞと登って頭まで到達し、ふぅと満足そうに鼻息を吐く。
「ファードラゴンは、北のもっともっと寒い地域に住んでるドラゴンでありますよ。だから、この大陸で見られるなんて思ってもみなかったであります」
「へぇ……北の方が住処なのか。だから、保温のために全身が長い毛で覆われてるのかな」
「あ、みてみて! 小っちゃな子もいるよ!」
隣にいるシャンテが、ファードラゴンの群れの間を指さす。そこには、成獣の数分の一のサイズの小さなファードラゴンが、親ドラゴンにくっついてすやすやと眠っていた。よく見ると、成獣たちの間に隠れるようにして、あちこちに子ドラゴンが見える。
「わぁ、よく見ると子どもがいっぱいいるな。え、じゃあ、もしかしてここって……」
その疑問に答えてくれたのは、ラルドだった。
彼はあたたかく、じっと熱のこもった眼差しで崖下のファードラゴンたちをみつめている。
「ここは、ファードラゴンの繁殖地なのですよ。この温かい地で子どもを産み育て、やがて北の地へ一斉に飛び立っていくのです」
「そっか。それで、こんなにたくさんのファードラゴンが……」
成獣とおぼしきファードラゴンが、十頭ほど。それに、成獣の周りをちょこまかと動き回ったり、親の毛の中で寝ていたりする子ドラゴンがざっと見た感じ二十頭ほど。静かな森の中が、そこだけ彼らの発する「クー」「キュルルル」という声でにぎやかだった。
人間のタケトやフェンリルのウルが視界に入る距離にいても警戒した様子が全然ないのは、人を危険な存在と認識していないのか、それともおっとりした性質のドラゴンなのだろうか。もしかするとこの地上の最強生物であるドラゴンにとって、人間はもちろん、フェンリルのウルですら外敵に値しないと捉えられているのかも。
それはともかくとして、
「じゃあ、ラルドさんが来たかった場所って……」
タケトが尋ねると、ラルドは静かに頷く。
「五十年以上前にも、私はこの光景をここで見たことがあるんですよ。もう生きている間に見ることはないと思っていたのに、……もう一度彼女らに会えて、よかった。ファードラゴンが集まってきていると聞いて、居てもたってもいられなくて飛び出してきてしまいました。せっかくここまで来たんです。もう少し近くまで行ってみましょうか」
そう言うと、ラルドは崖の端に沿ってしばらく歩くと、斜面が緩やかになっているところからファードラゴンが集まっている方へとどんどん降りていく。
「え。あ、ちょ! 大丈夫なんですか!?」
こちらを警戒した様子はないとはいえ、相手はドラゴンの群れなのだ。安易に近づくのは危険なんじゃないかと声をかけたが、ラルドはこちらを振り向いて気安げに笑う。
「ふぉふぉっふぉ。大丈夫ですよ。彼らは草食で、とてもおとなしいんです。この森には、彼らが好む植物が多く茂るので四六時中それを食べているんですよ」
そう言うと、さらにラルドは一人でどんどんファードラゴンの群れに近づいていってしまう。
いくらおとなしい性質とはいえ一人で行かせるわけにもいかず、すぐにタケトとシャンテも彼の後を追った。シャンテがウルに崖の上で待つように言うと、ウルはおとなしくお座りをしてついてはこなかった。
ラルドはファードラゴンのすぐ近くまで歩み寄っていく。それについてタケトたちもファードラゴンの群れの中まで歩いて行った。足元で見上げると、ファードラゴンは圧倒される大きさだ。体高は十五メートルを下らないだろう。五階建てのビルくらいだろうか。たくさんの成獣が密集しているこの場所に立っていると、まるでビルの谷間にいるような錯覚を覚えそうになる。
いくらファードラゴンがおとなしくても、うっかり踏みつぶされたら人間なんてひとたまりもない。
しかしラルドは臆する様子もなく、一頭のファードラゴンに近づくとその脚に触れた。
「やぁ。元気だったかい。アリア。久しぶりだね」
ラルドが親しみを込めた声で言葉をかける。薄緑色の長い毛におおわれたふわふわとした前脚をなでると、子ドラゴンを毛づくろいしていたそのファードラゴンはゆっくりと大きな顔をあげて、黒い瞳でジッとラルドを見つめた。そして、ラルドの言葉に応えるように「クー」と喉の奥から声をあげる。それは、クラリネットの音色のような、とても優しく響く声だった。
「知ってる個体なんですか?」
タケトが尋ねると、ラルドは何度も懐かしそうに、アリアと呼んだそのファードラゴンの脚を撫でる。
「はい。彼女はこの群れのリーダーなんです。五十年前にも、ここで会ったことがありましてね。ほら、好奇心旺盛な子どもたちも来ましたよ」
「へ? うわっ!?」
成獣に比べると幾分丸っこい姿をしたモコモコの子ドラゴンが三頭。じゃれあうようにして、こちらに駆け寄ってきた。
しかし子どもといえど、ワンボックスの車くらいの大きさがある。さすがにそのスピードで来られたら、こっちはひとたまりもない!?と身構えるタケトだったが、こっちにぶつかる前にアリアが「クッ」と一言低く鳴くと、子ドラゴンたちは慌てて脚を止めた。ちゃんと母親の言いつけが守れる子たちのようだ。
それでもまだ興味深そうに、ジッとこちらを眺めている。
もこもこした薄緑色の長い毛に、つぶらな黒い瞳。
シャンテが近づいてその一頭にそっと手を伸ばすと、子ドラゴンは懐っこく顔を擦り付けてきた。
「うわぁ、もっふもふしてるー!」
彼女の歓声にたまらなくなって、タケトもそばの一頭の首筋に触れる。ポスっと手が潜り込んでしまうほど柔らかく、ふわりとした毛に手が包み込まれてしまった。
(うわー! うわー! すごいモフモフ! すっごいやわらかい!)
シャンテのようにはしゃぐことは寸前で我慢したけど、心の中は大はしゃぎ。
なんせ、こんな近くでドラゴンを見るのは初めてだから興奮しないはずがない。
つい警戒心も忘れて、手を広げてぎゅっと抱き着くと毛の中に全身が埋もれてしまう。ファードラゴンの毛は、お日様のような匂いがした。
子ドラゴンはタケトに顔を近づけると、くんくんと匂いを嗅ぎはじめる。そうやって初めて見るこのちっこい生物を調べようとしているのだろう。鼻が触れるか触れないかの距離で首や背中をくんくんされるとくすぐったくて仕方なかったが、我慢して好きにさせていると、やがて子ドラゴンは満足したように「フンッ」と鼻を鳴らした。
代わりにタケトももっこもこの頬をなでてやると、子ドラゴンは気持ちよさそうに目を細める。
「お前、まだ小さいのに賢いなー。ちゃんと母さんの言うこと聞けるんだな」
そのとき、アリアが「キュルルルルルル」と歌うように喉を鳴らした。
その声に応えるように、三頭の子ドラゴンも「キュッ」と小さく鳴く。そしてテテテッと転がるようにアリアの大きな身体の後方へと走っていくと元気よく地を蹴ってジャンプし、アリアの腰のあたりにしがみついた。
アリアは首を後ろに巡らせてそれを確認すると、今度はタケトたちに顔を向けて喉を鳴らす。何か自分たちに話しかけているように見えるけれど、もちろんタケトにドラゴンの言葉などわかるはずもない。
どうしようかと思っていたら、タケトの頭にしがみついていたトン吉が後ろ脚をバタバタさせた。
「いててて、頭の上で暴れるなって」
「ご主人! アリアさんが、みんなも乗ってって言ってるでありますよ」
「へ? お前、ドラゴンの言葉なんて分かんの?」
「分かるであります。アリアさん、待ってるであります」
そんなこと言われても、いきなり乗れと言われたって……怖くない? 戸惑っていたら、視界にラルドの背中が映った。彼はトン吉の言葉を聞くや否や、子ドラゴンたちのようにアリアの尻尾の方へとタッタカ元気に駆けていくところだった。
「え、ちょっと、待っ……!」
「ほら、タケト。行こう!」
シャンテに手を引かれて、仕方なくタケトも走りだす。
アリアの尻尾側へ回ると、ラルドはすでにその太く長い尻尾にしがみつこうとしていた。だが、一番細くなっている場所ですら高さが軽く二メートルはあるため、ラルドは上に登れずにじたばたしていた。それを下から支えて何とか彼を登らせると、次いでシャンテが上がるのを手伝い、最後にタケトはその長い毛につかまって尻尾の上へとよじ登った。
そこから尻尾伝いにアリアの腰のあたりまで登っていく。アリアの背にしがみついている子ドラゴンたちのところまで着いたころには、深く長い毛で身体の半分くらい埋まってしまいそうだった。
「いいでありますよー!」
トン吉がそう声をかけると、アリアが顔をあげて「クー」と一声大きく鳴く。
そしてアリアはその巨大な羽を空に広げ、大きく羽ばたき始めた。
「うわっ」
羽ばたいたときの風で煽られるものの、毛の中に埋もれるようにしてしっかり毛をつかんでいれば風はやりすごすことができた。タケトは頭にしがみついていたトン吉が落っこちないように、腕の中に抱きこむ。
アリアはさらに力強く羽を羽ばたかせると、ふわりと身体が浮きはじめる。地上から足が離れると、まずは羽で空気の塊を強く地面にたたきつけるようにして垂直に上がっていき、ある程度まで上ったら今度は大きく螺旋を描くように飛びながらぐんぐん上昇していく。
あっという間に、地上は遥か下。緑を敷き詰めた絨毯のような森がみるみる遠ざかっていく。真下に見えるファードラゴンの繁殖地が、どんどん小さくなっていった。
「……すげぇ……!」
アリアは巨体をものともせず、その大きな羽で力強く風を掴んで自由に空を飛んでいた。
タケトはこんな風に身体が外にむき出しの状態で空を飛ぶのははじめてだったけれど、アリアの飛び方にとても安定感があるからだろうか。怖いという気持ちはすぐに薄れて、楽しさの方が増してくる。
「高いねぇ……あ、タケト! 前見て! 海が見える!」
シャンテが指さす方向に、青くキラキラと光る筋が見えた。それがどんどん大きくなって近づいてくる。
「海って、あの森から結構な距離があったはずだけど」
地図を頭の中に浮かべる。森から海岸までは馬で一日以上はかかる距離があったはず。しかし、そんな距離をものともせず、すぐに下の景色が緑から青に塗り替えられた。
海上をしばらく進むと、アリアが甲高く「クー!」と鳴いた。
それを合図に、アリアにしがみついていた子ドラゴンたちがアリアの身体を蹴って次々に離れていく。
「え?」
アリアから離れた子ドラゴンたちは一瞬落下したように見えた。タケトはアリアの毛に掴まったまま身を乗り出して子ドラゴンたちの様子をうかがう。彼らは数十メートル落下したものの、すぐにその小さな羽を一生懸命動かして再びアリアと同じ高さまで浮かんできた。
アリアが優雅に羽を動かしているのに比べて、子ドラゴンたちは一生懸命に羽をバタバタ動かしている。それでも一頭も遅れることなくアリアについてきていた。
「そっか、子ドラゴンたちの飛行訓練をしてるんだ」
おそらくだが、ドラゴンは身体が大きくて体重が重いため、離陸が一番困難なのだろう。だから飛ぶことに慣れるまではこうやって、親が子どもたちを上空までつれてきて羽ばたきの仕方や風の捉え方を教えているのかもしれない。
そうして小一時間、子どもたちを連れてアリアは海の上を優雅に飛んだあと、再びあの繁殖地へと戻ってきた。
ようやく地面に降りたアリアの身体から、タケトたちも来たときの逆をたどって尻尾を伝って下へと降りる。地面に足がついても、まだふわふわとした感覚が残っているようでなんとも不思議な感じがした。
そのあともしばらくアリアや子ドラゴン、それにほかのファードラゴンたちとふれあっていたが、夕日が西の空に沈み始めるころになると、アリアたちに礼を言って彼女たちと別れた。
崖に戻ってくると、ウルは大きな欠伸をしながらのっそり起き上がって迎えてくれた。そして、タケトとシャンテの匂いをしきりに嗅ぎだす。きっと、ファードラゴンたちの匂いがついていたのだろう。
「じゃあなー。ありがとうー。元気でなー!」
もう一度崖の上からアリアたちに手を振ると、アリアだけじゃなく他のファードラゴンたちからも一斉に「キュルルルル」「クー!」と様々な声が返ってくる。
タケトの隣では、ラルドが孫との別れを惜しむ祖父のような目でファードラゴンのことを見つめていた。そして彼はふっきるようにこちらに視線を向けると深く頭を下げる。
「アリアも、ほかのファードラゴンたちも、みんな息災のようです。その姿を見れてよかった。アナタがたにもご迷惑おかけしました」
「いえ、俺たちも貴重な経験をさせてもらいましたし」
ここに来たことを後悔なんてするはずがない。本来の仕事の予定は少し遅れてしまったけれど、貴重なファードラゴンたちと接せられたんだから差し引きしてもおつりがくる。
それよりも。
「ずっと気になっていたんですが。……なぜアナタはこの繁殖地のことを知っていたんですか? 俺、仕事柄いろんな魔獣の本も読んだし情報も入ってきますが、こんなところでファードラゴンが巣を作っているなんてまったく知りませんでした」
ドラゴン自体がとても希少な存在。まして、北の地に住むというファードラゴンがこんな南の地にやってくるなんて、聞いたことすらなかった。
頭を上げたラルドは、再びのんびりと草を食むファードラゴンたちに視線を向けながら懐かしそうに振り返る。
「私がこの場所を知ったのは、偶然でした。まだ駆け出しの行商人として各地を巡っていた頃に、誤ってこの森に迷い込み、たまたまここを見つけたんです。あのときも、こうやってたくさんの子ドラゴンが母ドラゴンたちと過ごしていました。私はしばらくここに逗留して、彼らが北の地へ飛び立っていくのを見送りました。もういまから、五十年以上前のことです」
昔を思い出して、ラルドは優し気に目を細める。だが、その目元がすぐに引き締まった。
「けれど、この森は当時、地元領主がこの先にある港町への近道として街道をつくる計画を立てていました。それを知った私は、なんとしてもこの地を守りたかった。当時私はまだ一介の行商人にすぎませんでしたが、仕事に励み、こつこつと金をため、事業を拡げ、この地を領主から買い取ったんです。
そして五十年以上の月日を経て、再びファードラゴンたちはこの地に子供を産み育てるために戻ってきたのだという。おそらくは何百年、何千年と続く彼女たちの命の営みの一環として。
「ここは、私の原点なのです。すべては、彼女たちのためにこの地を守りたいという想いから始まった。若かりし日、見たこの光景を守るために」
「……そして、いつしかアナタは大商人と言われるまでになった。そうですよね? ラルド・ブランケンハイムさん。いえ……ブランケンハイム商会の元会長さん。俺たちは魔獣密猟取締官として、ブランケンハイム商会のルービリア支部に向かう途中でした」
タケトは静かに言う。
ラルドは驚いたように目を見開いて、タケトを見た。
「いかにも。もう引退して子どもたちに商会の仕事はすべて任せてしまっていましたが、ブランケンハイム商会で五年前まで会長をしていたのは私です。アナタがたが仕事でうちのルービリア支部へ……?」
タケトは肩掛けカバンから一枚の
「ブランケンハイム商会ルービリア支部に、絶滅が危惧されている希少魔獣の毛皮や牙の売買の疑いで調査令状が出ています」
令状の最後には、現国王ジェングレイ・フォンジーニアのサインと印が押されている。ここで令状を見せることには躊躇いもあった。もし彼がこの違法取引に噛んでいたとしたら、証拠隠滅などのおそれがあったからだ。
でも、タケトは確信していた。この人は、そういった違法取引を良しとする人じゃない。この広大な土地をファードラゴンのために買い上げるほどの人なのだから。それでも彼がこの令状を見てどう出てくるのかは分からず、緊張しながら相手の反応を待つ。
ラルドは
「……すっかり経営から手を引いておりましたが、私が隠居している間に商会としての統制が甘くなっていたようです。まだまだ腑抜けているわけにはいかないようですな。調査には全面的に協力いたします。もちろん、これから二度とこのようなことがおこらないようにするつもりです。小さな綻びが、商会全体を揺るがすことにもなりかねないですからな。それに……」
ラルドはファードラゴンたちを見つめ、次にタケトたちの後ろでお座りして待っているウルを見上げ、柔らかく目を細めた。
「私はこの、魔獣というモノたちが何とも言えず好きなのですよ。彼らが住む世界を守っていかねばならないと、そう思うのです」
その言葉に、タケトの表情も自然と綻ぶ。
「俺も、同じです」
魔獣たちを守りたくて。たくさんの魔獣たちと出会いたくて。
だから、魔獣密猟取締官なんていう仕事をして、全国を行き来しているのだから。
傍でシャンテも微笑んでいた。思えば、この世界に放り出されたとき自分のことを拾ってくれたのが、この仕事をしているシャンテだった。だから、自分は今もここでもこうやって生き物にかかわる仕事ができているんだよな。それを思うと、彼女には感謝してもしきれない。
なんとなくシャンテと視線を交わして、どちらからともなく微笑みあった。
その後、ラルドを探しに来たブランケンハイム商会の人たちと合流すると、ラルドを無事彼らに引き渡すことができた。
ルービリア支部の違法取引についても、ブランケンハイム商会本部の全面的な協力のもとすぐに解決させることができた。
王都に帰ったタケトの報告を聞いたジェン王が、多忙にもかかわらず業務をほっぽり出していますぐファードラゴンを見に行きたいというのを
結局、このファードラゴンの繁殖地と周辺の森は、ファードラゴンたちが今後も安心して巣作りできるようにと、ブランケンハイム商会本部と王立魔獣密猟取締官事務所とで共同管理することとなった。
そして一月後、子ドラゴンもしっかり空を飛べるようになったのち、ファードラゴンの群れは一斉に北の大地へと飛び立っていった。
次にこの地に戻ってくるのは、五十年以上先かもしれない。
(またアリアたちに会えたらいいな。でもその頃にはもう俺、すげぇジジイだよな。それまで生きてられんのかな。……もし生きていられたら、またシャンテと一緒に見に来たいな)
そんなことを考えながら、ふと気づく。
もう自分が願う未来は、東京の警視庁で刑事をしていたあの先にあるんじゃなくて、この世界でシャンテや魔獣たちと一緒に暮らすその先にあるんだということに。
それは、なんだかとても素敵なことに思えた。