三、芹沢明希星 その2
3
コンビニの時計が七時半を指していた。
朝。混み合うコンビニの雑誌棚の前で立ち読みするふりをしながら、明希星は計画を再確認した。
受け取った資料には凡田君の朝と放課後の通学パターンが書かれていた。
何だか知らないが凡田君は非常に面倒くさいことに、毎日、違う通学路を使っているらしい。基本的には漫画雑誌の発売日で決まるらしい(資料を読んで、明希星ははじめて漫画雑誌の発売日間隔を知った)。
資料にはその行動パターンが細かく書かれている。正確なルート、正確な時刻。どの道を何時何分に通り、誤差は何十秒であるか(何でこんなに調べてるのかわからないけど。凡田君、よっぽど悪いことしでかしたんだな)。
それに従えば、今日は駅前の大通りから学校への路地に入るルートのはずだ。
このコンビニの前の道をまっすぐ行けば大通りに出る。通学路への曲がり角はそこからも見えるはずだ。
予定時刻まであと数分ある。明希星はもう一度、作戦を確認する。
買い物を済ませ、何気ない様子で大通りに出る。曲がり角のところでスマホを眺めているふりをしながら待ち受ける。凡田君が来るのを待つ。よそ見をしたふりをしてぶつかって、飲みかけの水をぶっかける。謝る。タオルで拭いてあげる。
「ごめん! あとで洗って返すから。君、名前は?」
凡田君のクラスと名前を確認。休み時間、挨拶に行く。何回か、声を掛ける。友達になる。
……うん、一晩で考えた割りには良さそうに思える。
パンと桃フレーバーの天然水を買って外に出た。
パンはもちろんお昼に食べる用。飲み物は凡田君にぶっかけたあと、残りは自分で飲む用だ。水にしようかと思ったけど、ちょっと味気ないし。透明だから色は付かないし、いい匂いだからぶっかけられても悪影響はないだろう。
お店を出たところで桃水を一口飲んだ。キャップは親指で弾いてすぐに外せるくらいに閉める。
スマホ準備オッケー。水準備オッケー。タオル準備オッケー。
心地よい緊張感。朝はいつもすこぶる眠いのだが、今日は違っている。目は冴え、体も何だか軽い。
時間ぴったり、明希星は大通りに向けて歩き出した。
そのときだった。
「……え?」
道がふさがってた。
人の流れが止まり、車が止まり、踏切の警報音が鳴っていた。
目の前で遮断機が下りていた。
もし橘黒姫であれば、決して犯さなかったであろうミスだった。
黒姫であれば、昨夜の内にでもあらゆるリスクを洗い上げたはずだ。何度も部下に下見をさせ、あるいは自ら赴き、実際に予行演習を行ったはずだ。そもそも、誰かに自然に接近するのに曲がり角でぶつかるというアプローチを採らなかったはずだ。
あるいは凡田純一であれば、絶対にありえなかったはずのミスだった。
凡田は逃走に備え、どの交通機関がいつ使えていつ使えなくなるのかを把握していた。当然、バス・電車のダイヤは頭に入っているし、どの踏切が開かずの踏切となるかも知っていた。踏切に足止めに遭うということはない。そもそも、誰かに自然に接近するのに曲がり角でぶつかるというアプローチは採らなかったはずだ。
だが、芹沢明希星はミスを犯した。
彼女は踏切が閉じる時刻を調べていなかった。そして、誰かに自然に接近するのに曲がり角でぶつかるというアプローチを採用したのだ。
明希星は、呆然と通過する電車を眺めていた。その間、コンビニは線路の向こうにもあるのに、どうしていつものコンビニに寄ってしまったのか自問した。
しかし、いくら考えたところで踏切が開くわけではない。
時間、大丈夫だろうか。すぐに遮断機が上がれば、少し早足で間に合うはずだ。
スマホを凝視する。こういうときに限って、時間の流れが加速しているような気がする。あっという間に二分が過ぎた。ということは……。
電車が通過した。
明希星は踏切の向こうに目を凝らした。
生徒たちの波。明希星の眼が、百メートルほど先の人波の中に、眼鏡で猫背の男子生徒がとぼとぼ歩いているのを見つけた。
写真の男子生徒、凡田君。そして凡田君は明希星がぶつかる予定だった角を通過し、路地へと消えていった。
ぽかん、と明希星は立ち尽くした。
どうしよう。あそこからはもう一本道だから、もうぶつかれるような曲がり角はない。こうなったら先回りも出来ないし……。
ぱっ、と閃いた。
ある! 先回りできる別なルートがある!
入学してすぐ、明希星は組織の指示で学校から駅への逃走用ルートを作っていた。目立たず、視線が通らない路地。しばらく使っていなかったから忘れていたけれど、確か、あれは校門の前辺りに繋がっていたはずだ。
時間を計算する。
ええと……凡田君があの丁字路に到着するまで……あと六〇秒くらいか? あのルートは四〇〇メートルくらいだから……。
よし、間に合う!
明希星はスマホをバッグに押し込んだ。屈伸、前屈、足周りを伸ばす。
警報音が鳴り止み、遮断機が上がった瞬間、明希星は体勢低く駆けだした。
踏切を駆け抜け、障害物を避けながら歩道を疾走する。大通りの手前を右に折れ路地に入る。
シャッターの下りた商店街、そこを突き進む。幸いなことにそこを通る生徒たちはほとんどいなかった。明希星はさらに加速する。
コインランドリーを過ぎたところで左折、すぐに右折。目の前に現れた急な石段を三段飛ばしで登っていく。
階段を一気に上がり、今度は左へ。曲がった直後、
「は……?」
思わず、声が出た。
目の前に、二メートルほどの黒いフェンスが立ちはだかっていた。そこには、
『私有地につき立ち入り禁止』
と大きく書かれた看板がくっついていた。
ちょ、ちょっと待って! 去年、こんなのなかったじゃん!
この前、通ったときはここはブロック塀に挟まれた路地で向こう側に抜けられたはずだ。
「…………!」
戻る時間はない。明希星はわずかに躊躇って、それから意を決して踏み込んだ。
跳躍。電信柱を蹴る。フェンスの上辺を踏み、さらに上へ。
一瞬、包まれる無重力感。勢いのついた明希星の体は屋根の上まで舞い上がった。
横幅、靴一個分のブロック塀に着地。さらに加速、一歩、二歩、三歩、四歩。バッグを抱え、跳躍。反対側のフェンスを飛び越え、前転。受け身を取ると再び駆け出す。
地面には着いてないからセーフ!
屋根にいたネコと目が合ったけどセーフ!
残り時間三十秒。
右。左。右。右。左。
最後の直線を突き抜ける。あと五秒、四、三、二……。
路地を抜ける。世界が一瞬、白く染まる。
眼が標的を捉える。猫背、黒縁の眼鏡。
捉えた!
明希星は男子生徒の体を目がけて突っ込んだ。
そして……。
4
死んだのだ、と思った。
凡田は青い空を見上げ、アスファルトに横たわっていた。
痛みはなかった。世界は妙に静かだった。
自分が死ぬときはどんなときか、想像することがあった。刃の上を歩くようなあの世界。自分のすぐ隣で、音もなく同胞が消えていくあの世界。そこで生きる以上、それは誰もが考えることだった。
密林で。砂漠で。瓦礫まみれの死んだ都市の中で。
官憲の銃弾で、ゲリラのナイフで、あるいは拷問者のペンチと高圧電流によって。
きっとそうはならないだろう。そうも感じていた。
自分が思いも寄らない場所で、思いも寄らない方法で、思いも寄らない相手に殺されるのだ。
それが今日だったとは。
凡田は予感が的中したことを知った。
避けられなかった。
常に注意を払っていたはずだった。死角からは数メートルの距離を置き、前髪の奥から一ヶ所ずつ目視していた。それでも食らった。襲撃者は音もなく、陰から染み出すように現れた。
その直前、それと目が合った。直後、視界が回転した。
赤子がベッドに寝かしつけられるように、気がつくと、アスファルトに仰向けになっていた。
どうして、痛みがないのか。
刃物の冷たさも、内臓を捻られ、押し込まれる感触もなかった。
本能が体の痛みを感じようとした。痛みがあれば、まだ、助かることができる。体はまだ生きようとしている。今、必要なホルモンが体中から放出され、戦う意志を引き出すことができる。
刺された箇所を確かめようとして、自分の上半身が濡れているのに気付いた。手で拭って、持ち上げてみる。
血……。
ではなかった。
それは無色透明だった。
同時に、甘さが鼻と口の中に広がった。シアン化合物。数十秒のうちに呼吸器が冒され、窒息死に至るだろう。奴ら、どの奴らかはわからないが、ともかく暗殺者を送り出した人間はわずかでも俺を苦しませて殺したかったのだ。
死ぬのは構わない。だが、騒ぎは避けなくては。今に至ってなお、工作指揮官の思考が頭を過った。
この状況が俯瞰で再現された。
置き去りにされた死体。騒ぎ出す通学路の生徒たち。遠くから聞こえる救急車のサイレン。
ここ一週間の自分の行動を確認し、かつての繋がりは露見しないだろうことを確信した。かつての仲間たちに調べは及ばないだろう。
安心していい。自分に、もう仲間はいない。
俺はひとりぼっちなんだ。
そして最期の数秒、凡田は襲撃者を目に収めようとした。欺瞞に満たされた十数年を終わらせた人間を知ろうとした。
「うわ! 全部こぼれちゃってる! っていうかすっごい濡れてる!」
凡田に馬乗りになって大騒ぎしている暗殺者。それは一見、女子高校生だった。
上着は着ておらず、開襟シャツはずぶ濡れになり肌に張り付いている。手にはほとんど空になった桃水のペットボトル。そういえば甘ったるい匂いが周囲を包んでいる。
少し荒い呼吸。彼女の高い体温が空気から伝わってくる。
「あーあーやっちゃった……。なんかべたべたしてきた……。やばっ、スマホ!」
相手はペットボトルを手放すと、バッグからスマートフォンを取り出し画面を凝視してから、ふう、と息を吐いた。
「よかったー、割れてない……」
そこで目が合った。
ネコ科の大型肉食獣に組み伏せられたような心境だった。実際、ライオンあるいはトラに組み伏せられた経験はなかったが。訓練されたジャーマン・シェパードに噛まれたときよりは余程、重圧感があった。
女子生徒は、はじめて凡田に気付いたように声を上げた。
「じゃなかったごめん! 大丈夫だった!?」
凡田は我に返った。徐々に状況が頭に入ってくる。
最期の瞬間はあっという間に消え去った。流れ出る血も、致死性の化学薬品も、救急車のサイレンもなかった。
朝の日常だった。その中で、目立たない地味な男子生徒がやけに声の大きい女子生徒に馬乗りにされているだけだ。通学路の生徒たちは道の真ん中で絡み合っている二人に怪訝そうな視線を向けてくるだけだ。
凡田は慌てて立ち上がろうとした。
「…………!」
「ちょっ、待って……! 今、拭くもの出すから……!」
が、女子生徒は巧妙な体重移動でマウントポジションを継続しつつ、バッグからタオルを引っ張り出し凡田の顔を拭き始めた。
「ごめん! ちょっと急いでて……! 怪我とかない!?」
「いえ、大丈夫ですから……!」
周囲の目が凡田を焦らせる。とにかく、一刻も早くここから離れなくては。
凡田は起き上がろうとするのだが、重心をきっちり押さえられていて体を起こすことさえできない。
「えっと……! そう! 洗濯!」
一瞬、彼女の言葉の意味がわからなかった。タオルを洗って返せということなのか?
「す、すみません、洗って返しますから……」
「……え? 違う違う違う! これじゃなくって!」
凡田がタオルに手を触れると、相手は慌てて手を引いた。
「制服! 制服!」
「…………?」
単語を連発するだけで、もう何を言ってるか全然わからない。
「だから、タオルはいいんだって。私が! 君の制服! 汚しちゃったから洗って返すって話!」
どんな話なんだ……? 言語感覚が狂ったかのように全く意味がわからない。
「と、とにかく、一回どいてもらっていいですか……!」
「あ、そっか、ごめん。重かった?」
ようやく、女子生徒が立ち上がった。
凡田は立ち上がり、意思の力で自分を偽装で包み込んだ。あれだけの勢いでタックルを受けたわりに、痛みはどこにもなかった。
女子生徒が凡田の制服の砂埃をはたきながら言った。
「ああ、汚れちゃってる……。とりあえず、あとで制服洗って返すから……」
「いえ、気にしないでください……!」
「え!?」
凡田は会話を拒否して早足で歩き出すと、女子生徒は慌てて詰め寄ってくる。
「え? いや! そういうわけにいかないんだって!」
「本当に大丈夫なんで……!」
もごもごと口の中で言って、生徒たちの波に紛れる。そのまま、いつもより深く俯きながら、校内へと急いだ。
◆
……逃げられたか。
明希星は凡田の背中を見送ると、桃水のペットボトルを拾い上げ、名残惜しそうに中に残った水滴を見つめた。走ったせいで体が火照っていた。
ちょっと想定外のことが起き過ぎた。
直前で踏切が閉まるとは思わなかったし、路地が塞がってるとも思わなかった。
凡田君にぶつかるスピードも勢い良すぎたかな。ちゃんと凡田君ごと受け身とったけど。あと慌てちゃって自分でも何言ってるのかよく分からなかったし。
まあ、いいか。
これで凡田君とのきっかけは出来た。作戦は成功である。
……よく考えたら別に今日じゃなくても良かった気はするけど。